第18話 解任の通達が、証拠への扉を閉ざす
解任の通達は、朝一番に届いた。
調香院の名で、けれど、その文面には、大公派の息が色濃く滲んでいた。理由は、婚約破棄をめぐる醜聞により調香院の品位を損なった、というもの。すでに偽装は公式に暴かれ、アニエスの潔白は証明されているのに、その事実は、都合よく黙殺されていた。
白木の通達を手に、アニエスは調香院の一室で、バルテルミーと向き合っていた。
「わしが、掛け合った」老調香師の声は、苦渋に満ちていた。「お前さんの潔白は、この院が保証すると。だが……上は、聞かん。解任の話は、院の外から、もっと高いところから、降りてきておる」
「大公です」アニエスは、静かに言った。
バルテルミーは、否定しなかった。ただ、深く息を吐き、皺だらけの手で顔を覆った。
「面目ない。わしは、お前さんの母上を引き上げ、お前さんを育てながら……いざ守ろうとすると、制度の壁の前で、何もできん。手順を握る者が強い、と偉そうに説いておきながら、その手順に、自分が縛られておる」
バルテルミーは、机の上の通達を、指で撫でた。その手が、かすかに震えている。
「お前さんを、解任の名簿から外そうと、院の記録を当たった。だが、婚約破棄の醜聞という名目は、削れん。潔白が証明されたことと、醜聞が立ったことは、別だと言うのだ。……理屈にもならん理屈で、正しい者を追い出せる。それが、制度の恐ろしさよ」
師の無力を、責める気にはなれなかった。この人は、精一杯、動いてくれた。けれど、制度は、正しさではなく、力の側につく。バルテルミーの善意も、権威も、王弟の一存の前では、あまりに小さかった。ずっと、この人を万能の後ろ盾のように思っていた。その甘えを、アニエスは今、噛みしめた。自分の戦いは、最後には、自分の足で立たねば勝てない。
「主席。ここまで、ありがとうございました」アニエスは、深く頭を下げた。「あとは、わたくしが」
「一人で背負う気か」バルテルミーが、鋭く見た。
「いいえ。一人では、ありません」その顔に、静かな光があった。「わたくしには、母の遺したものと、共に戦うと言ってくれた方が、います」
解任は、ただ職を奪うだけではない。調香院に出入りできなくなれば、過去の検分記録も、毒の見本も、血鑑定の設備も、すべて手の届かぬところへ行く。証拠へのアクセスを、根こそぎ断つ一手。大公は、じわじわと、逃げ場を塞いでくる。
それでも、一つだけ、大公の手の届かぬものがあった。母の香料箱。あれは、公爵邸の奥に、厳重に隠してある。調香院を追われても、あの箱だけは、誰にも奪えない。血を読む家の技法は、制度の外にある、アニエスだけの武器だった。追い詰められて初めて、その一点が、何より心強く思えた。
アニエスは、正規の手段で撤回を求め、王城へ上がった。けれど、行く先々で、大公派の官吏が、優雅に道を塞いだ。嘆願書は「様式が整っておりません」と突き返され、書き直して持参すれば「担当者が不在です」と流される。面会の約束を取りつけても、当日になって「急な公務が入りまして」と、丁重に、けれど確実に、先延ばしにされた。
誰も、声を荒げない。誰も、はっきりとは拒まない。ただ、柔らかな笑みと慇懃な言葉で、すべての扉が、一寸ずつ、閉じられていく。抗議しようにも、掴みどころがない。真綿で首を締めるように、制度の内側から、じわじわと締め上げられていた。あの大公の、優雅な圧力が、宮廷の隅々にまで、糸のように張り巡らされている。
三日、四日と、無駄に過ぎていく。その間にも、証拠は消され、時は、大公に味方していた。正攻法は、完全に、封じられた。
夕暮れ、疲れ果てて城を出たアニエスを、人けのない回廊で、アルヴィスが待っていた。
「顔を見れば、分かる」アルヴィスは、静かに言った。「正面からは、通らなかったな」
「はい。どの扉も、優雅に閉ざされていました」
アルヴィスは、しばらく黙って、暮れゆく空を見ていた。やがて、はっきりとした声で、告げた。
「ならば、正面から抉じ開ける。私が、王前の血鑑定の場を、開く」
アニエスは、顔を上げた。
「王前の……?」
「国王の御前で、公式に血の鑑定を行う。複数の調香師が立会い、手順を踏み、王が裁可する場だ」アルヴィスの灰色の瞳が、揺るがなかった。「そこで詐称を証明すれば、大公とて、握り潰せん。王の御前で下された鑑定は、王弟の一存でも覆せぬ。制度の急所を、制度の最上位で、突く」
それは、大公が最も恐れる一手だった。血を偽って継承を簒う計画の、まさに心臓を、公然と貫く。けれど、その場を開くには、王の裁可が要る。後ろ盾の薄いアルヴィスが、それを取りつけるには、準備も、時間も、そして大公の妨害を越える覚悟も、要る。
「容易ではない」アルヴィスは、隠さなかった。「私の後ろ盾は、薄い。王前の鑑定を開けと願い出れば、大公派は総出で潰しにかかる。王の耳に届く前に、握り潰されるかもしれん。届いても、鑑定の当日に、あらゆる妨害を仕掛けてくるだろう」
それでも、と、アルヴィスは続けた。声に、迷いはなかった。
「これが唯一の勝ち筋だ。そなたの鼻と、母君の遺した箱があれば、詐称は、必ず暴ける。私は、そのために、私の持てるすべてを賭ける。地位も、名も、後ろ盾も。……そなたを、あの怪物の手から、取り返すために」
その一言に、アニエスは息を呑んだ。地位も名も賭ける、と、この人はさらりと言った。感情を殺して生きてきた氷の殿下が、後ろ盾の薄い自分の立場を、丸ごと投げ出そうとしている。香では、何も読めない。それでも、その言葉の重さだけは、はっきりと胸に届いた。
反撃の一本道が、闇の中に、細く見えた。真実を証明する、ただ一つの道。アニエスは、その光を見つめ、深く頷いた。
「やります。母の遺したもので、母を殺した者を、必ず」
二人が、その道を歩き出すと決めた、まさにその夜。
大公は、別の手を、動かし始めていた。王前の鑑定などという面倒が起きる前に、その芽ごと、闇に葬るために。優雅な微笑みの裏で、刃を持つ者たちが、静かに、アニエスの帰り道へと、放たれていた。




