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香りで嘘が分かる調香師令嬢は、婚約破棄が“作られた匂い”だと気づいてしまった  作者: ヲワ・おわり


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第17話 点と点を結ぶと、恐ろしい設計図が浮かんだ

 調香室の机に、アニエスは一枚の紙を広げた。

 これまで嗅ぎ集めてきた断片を、一つずつ、書き出していく。順番に並べ、線で結んでみる。頭の中だけでは、大きすぎて捉えきれない。母がそうしていたように、香で読んだものを、目に見える図にする。匂いは事実の断片。その断片を、いくつ集めても、並べ方を誤れば真実は見えない。文脈は、自分の足と、頭で、埋めるしかない。母の教えを、アニエスは、灯りの下で反芻した。

 まず、半年前。大公家の紋を纏う代理人が、薫街の工房に偽装香水を発注した。次に、ベルトランとリゼットが、その偽装を使って、アニエスに婚約破棄を突きつけた。婚約破棄によって、アニエスは醜聞にまみれ、調香師としての信用を失いかけた。信用を失えば、血の鑑定の場からも、遠ざけられる。そして今、リゼットの血は詐称だと判明した。誰かが、偽りの血を宮廷に潜り込ませている。

 紙の上で、それぞれの出来事を、線で結んでいく。ばらばらの点だったものが、一本、また一本と、繋がっていった。

 ペンを持つ手が、止まった。

 線が、一点に集まっている。婚約破棄は、目的ではなかった。リゼットを寵姫にすることも、目的ではなかった。すべては、アニエスを血の鑑定の場から排除するための、布石だったのだ。そう考えて初めて、あの過剰なほど手の込んだ偽装の、本当の意味が通る。

 血を読む鼻は、偽りの血を暴く。継承に偽りの血を混ぜ込もうとする者にとって、それを見抜く目は、最大の障害。だから、まず信用を潰す。名を落とし、立場を奪い、「令嬢の戯言」として、あらゆる主張を無効化する。婚約破棄という私的な醜聞は、そのための、最も巧妙な第一手だった。

 背筋が、寒くなった。ベルトランの嫉妬も、リゼットの涙も、すべては上から与えられた台本。二人は、駒ですらない。駒を動かすための、小道具だったのだ。婚約破棄のあの夜、人前で泣き崩れることを期待されていたのは、他ならぬ自分だった。醜聞に沈み、二度と立ち上がれない令嬢。それが、描かれた筋書きだった。

 けれど、自分は泣かなかった。手巾の香を、嗅いでしまった。それが、相手の計算を、初めて狂わせたのだ。だから、次の手が打たれた。追放の噂、毒、そして今日の上申での封じ込め。筋書きから外れた駒を、盤上から取り除くために。

 そして、同じ手が、八年前に母を消し、十五年前に側妃を殺した。血を読む家系は、代々、この簒奪の計画にとって、目の上の瘤だった。母が消され、今、娘が消されかけている。血を偽って王位を簒おうとする者にとって、血の真贋を嗅ぎ分ける鼻は、この世で最も邪魔なもの。

 全体の設計図が、初めて、はっきりと見えた。恐ろしいほど、精緻で、そして冷たい図だった。継承を血で簒うために、邪魔な血筋を、代を跨いで一つずつ潰していく。その気の遠くなるような執念が、一枚の紙の上に、くっきりと浮かび上がっていた。

 その日の夕、ネリが青ざめた顔で駆け込んできた。

「お嬢様、大変です。薫街の、あの工房の主が――姿を消したんです」

 アニエスは、ペンを置いた。

「消えた?」

「夜逃げか、それとも……分かりません。ただ、近所の人が言うには、数日前、宮廷筋らしい使いが訪ねてきた後、忽然と。家財もそのまま、まるで神隠しみたいに」

 ネリの声は、震えていた。この娘も、危ない橋を渡って情報を集めてくれている。庶民の顔で薫街に潜り込み、噂を拾い、証拠の切れ端を運ぶ。その働きが、いつ、あの工房主と同じ運命を招くとも限らない。

「ネリ。もう、薫街には近づかないで」アニエスは、侍女の手を取った。「あなたまで、消されたら」

「お嬢様一人を、危ない目に遭わせておけません」ネリは、震えながらも、口を尖らせた。「あたし、これでも肝は据わってるんです」

 その強がりが、かえって胸に刺さった。

 証人が、消された。婚約破棄の偽装を証言できる、唯一の生きた証人が。大公は、証拠を、一つずつ握り潰しにかかっている。時間が、ない。急がなければ、真実を裏づけるものが、すべて闇に葬られる。

 夜が更けた頃、調香室の窓を、そっと叩く音がした。アルヴィスだった。人目を避け、供も連れずに。

「無事か」問いは短い。

「はい。ですが、工房主が消されました」アニエスは、書き上げた設計図を見せた。「殿下。婚約破棄は、わたくしを血鑑定の場から遠ざけるための、第一手でした。すべては、繋がっています。大公の、簒奪のために」

 アルヴィスは、図をじっと見つめた。灰色の瞳が、線の一本一本を辿っていく。

「証拠は、次々に消される」やがて、低く言った。「工房主も、書付も。生きた証言は、もう望めん。ならば、消せぬものを、切り札にするしかない」

「消せぬもの……」

「そなたの母が遺した、香料箱だ」アルヴィスは、まっすぐアニエスを見た。「血を読む家の技法。血の匂いの図。それは、大公の手も届かぬ、そなただけの武器だ。詐称を暴くのは、証言でも書付でもない。血そのもの。血は、偽れん」

 アニエスは、はっとした。母の遺したもの。ずっと「職人の技」と侮られてきた、あの箱。それこそが、大公の握り潰せない、唯一の切り札。母は、もしかしたら、この日のために、あれを遺したのかもしれない。

 けれど、と、アニエスは思う。あの箱を使えば、自分が「血を読む家の生き残り」だと、公然と示すことになる。大公にとって、これ以上の脅威はない。切り札を抜く瞬間、自分の命は、これまで以上に、狙われる。

「使えば、標的になります」

「ああ」アルヴィスは、否定しなかった。「だが、使わねば、勝てん。……覚悟を、問うている」

 反撃の切り札と、身の危険は、表裏一体だった。母の香料箱を使うということは、大公に「血を読む家の生き残りが、ここにいる」と、正面から突きつけること。潰し損ねた芽が、牙を持って戻ってきたと、知らせること。

 それでも、退く道は、もうなかった。退いても、いつか病に見せかけて消される。母のように。ならば、母の遺したもので、母を殺した手を、暴く。それが、娘にできる、唯一の弔いだった。

 窓の外の闇を見つめ、アニエスは、静かに拳を握った。母が命を賭して遺したものを、今度は自分が、命を賭して、抜く番だった。


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