第16話 優雅な微笑みの下に、あの毒の冷たさが匂う
上申の場は、はじめから、負け戦だった。
初夏の午後、宮廷の一室に、高位の貴族と儀礼院の官吏が居並んでいた。アニエスは正規の手続きを踏み、リゼット・オルネの血統詐称の疑いを、公式に訴え出た。母の技法を頼りに、詐称の血が別の家筋に近い可能性まで、慎重に言葉を選んで述べる。
けれど、返ってきたのは、冷ややかな失笑だった。
「ラフォンテーヌ嬢。証拠は、おありか」年配の官吏が、扇を弄びながら言った。「まさか、また『匂いがそう言っている』とでも?」
「わたくしの鼻は――」
「破談で名を落とされた令嬢が、今度は寵姫の血を疑うとは」別の貴族が、遮った。「逆恨みと取られても、仕方ありますまい。オルネ男爵家への、名誉の毀損になりかねませんぞ」
婚約破棄の件を、蒸し返された。あの偽装をアニエスが暴いたことは、都合よく忘れられ、「醜聞で名を落とした令嬢」という札だけが、繰り返し貼り直される。物証のない「鼻の主張」は、この場では、一片の重みも持たない。制度の壁と、女の職能への蔑視。二重の壁が、冷たくそびえていた。
「血の詐称というなら、公式の血鑑定を経てからおっしゃることだ」官吏は、話を切り上げにかかった。「本人の同意も、手順も踏まぬ嗅ぎ分けなど、噂話と変わらぬ。それを根拠に高貴な家名を汚せば、罰せられるのは、あなたのほうですぞ」
正論だった。だからこそ、逃げ場がない。詐称を暴くには公式の鑑定が要る。けれど、その鑑定の場を開くには、まず疑いを認めさせねばならない。疑いを認めさせるには、証拠が要る。証拠を得るには、鑑定が要る。堂々巡りの輪の中に、アニエスは閉じ込められていた。制度は、正しい者ではなく、手順を握る者を守る。バルテルミーの言葉が、いま骨身に沁みた。
孤立の中で、アニエスが唇を噛んだ、そのときだった。
「まあまあ、皆さま。そう、令嬢をお責めになるものではありません」
柔らかな、よく通る声が、部屋に流れ込んだ。一同が、さっと居住まいを正す。
現れたのは、五十がらみの、堂々たる体躯の男だった。仕立ての良い衣、鷹揚な物腰、口元には終始、穏やかな微笑み。王弟オーギュスト大公。国王の弟にして、第一王子派の後ろ盾。宮廷の頂に、最も近い場所に立つ人物だった。
この場に、なぜ王弟が。上申の場に、これほど高位の者が顔を出すことは、まずない。まるで、アニエスがこの訴えを起こすことを、あらかじめ知っていたかのように。その違和感が、ちりりと鼻の奥を刺した。
「ラフォンテーヌ嬢の鼻が、時に見事な働きをすることは、私もよく存じておりますよ」大公は、鷹揚に微笑んだ。「婚約破棄の偽装を暴かれたとか。実に、あっぱれ。だからこそ、心配なのです。優れた才は、時に、見えぬものまで見た気にさせる。過ぎた自信は、身を滅ぼしますからな」
穏やかな言葉。けれど、その一つひとつが、絹に包んだ刃のように、アニエスの主張を封じていく。誰も声を荒げない。ただ、大公が微笑むだけで、居並ぶ官吏たちは安堵の色を浮かべ、アニエスの言葉は「行き過ぎた令嬢の思い込み」へと、優雅に落とし込まれていった。反論しようと口を開いても、その先を、柔らかな相槌が、やんわりと塞いでしまう。力で捻じ伏せるのではない。抗う隙すら与えず、真綿で包み込むように、黙らせる。それが、この男の恐ろしさだった。
大公が、アニエスの傍らを通り過ぎる。その瞬間だった。
アニエスの鼻が、はっきりと、それを捉えた。
大公の纏う、格の高い定紋香。花と樹脂の練り。手巾の使いが纏っていた、あの香と、同じだった。婚約破棄の偽装を発注した、宮廷筋の香。薫街の工房主が「上つ方の紋が焚き込められた、上等なやつ」と怯えながら語った、あの香。それが今、目の前の男の衣から、まぎれもなく立ちのぼっている。
それだけではない。香の、そのずっと奥。人の肌が放つ、体臭の底。そこに、ぞっとするほどの冷たさが沈んでいた。感情の揺れを、後ろめたさを、一切漏らさない。まるで、あの遅効性の毒のように、静かで、無味で、底が知れない。人を虫のように潰しても、指先ひとつ、匂いを乱さない者の冷たさ。
背筋が、凍りついた。
この人だ。
確信ではない。証拠は、何もない。けれど、鼻が告げていた。婚約破棄を仕組み、毒を握り、血を偽り、そして母を――この人が、すべての糸を握る手の、持ち主なのだと。
「顔色が優れませんな、令嬢」大公が、振り返って微笑んだ。その目だけが、笑っていなかった。「あまり、根を詰めぬことです。若い身空で、身を損なっては、母君も悲しまれましょう」
母君、という一言に、アニエスの心臓が、跳ねた。
なぜ、この人が、母のことを。ただの社交辞令かもしれない。けれど、あの底の知れない冷たさを湛えた男の口から出ると、それは、明白な警告に聞こえた。お前の母がどうなったか、忘れたか。次はお前だ。そう告げているように。
「ご自愛を」大公は、優雅に一礼し、悠然と去っていった。
言葉は、労り。けれど、匂いは、脅しだった。
アニエスは、辛うじて一礼を返し、部屋を辞した。回廊に出ると、膝が、わずかに震えていた。壁に手をつき、荒くなった呼吸を整える。
黒幕は、王弟オーギュスト大公。宮廷の頂に立つ、優雅な怪物。けれど、相手は王弟だ。物証のない鼻の主張など、届くはずもない。動かぬ証拠と、届かぬ相手。その二つの絶望を前に、アニエスは初めて、本当の恐怖を味わっていた。
そして、悟った。婚約破棄から、毒から、追放の噂から。すべては、とうに、この人の手のひらの上だったのだと。自分は、ずっと前から、この怪物の、標的だったのだと。
けれど、と、震える膝を叱咤しながら、アニエスは思った。恐れて退けば、母の死も、側妃の死も、闇に葬られたまま。自分もいつか、病に見せかけて消される。逃げても、助からない。ならば、進むしかない。この鼻が捉えた冷たさを、いつか必ず、動かぬ証拠に変えてみせる。
優雅な怪物の背中を、アニエスは、去りゆく方向へ、静かに見送った。恐怖は、確かにあった。けれど、その底で、別の火が、小さく灯り始めていた。




