第15話 偽りの血は、証明できなければ真実にならない
血鑑定の依頼は、思いがけない形で舞い込んだ。
初夏、五月も下旬に入り、風は日ごとに湿りを帯びていた。調香院の血鑑定室に、ある案件が持ち込まれた。近ごろ宮廷に現れた新興の令嬢の、血の正統性を確かめてほしい、との依頼だった。名家との縁組を前に、その血が本当に名乗る家のものかを、公式に鑑定する。血統至上のこの国では、珍しくない手続きだった。
鑑定そのものは、恙なく進んだ。依頼された令嬢の血は、名乗る家のものと確かに繋がっていた。近い血が分かち持つ、あの独特の響き。母と子、祖と孫を貫く、匂いの糸。それを一つずつ確かめ、アニエスは「正統」と判じた。バルテルミーが手順を追認し、鑑定は成立する。血を読む鼻が、制度の場で、公式の効力を持つ瞬間だった。
けれど、鑑定にあたりながら、アニエスの鼻は、別のことに引き寄せられていた。この案件の周辺に、リゼットの名が、影のように漂っている。新興の令嬢たちの後ろ盾を辿ると、どこかでリゼットの人脈と交わるのだ。まるで、同じ手が、あちこちに偽りの血を配って回っているかのように。
鑑定の合間、廊下ですれ違ったリゼットの、その血の匂いを、アニエスは改めて確かめた。回復した鼻で、無風の廊下で、近い距離で。
やはり、違う。
オルネ男爵家。リゼットが名乗る、その家の血ではない。乾いた、遠い土地の匂い。この国の南の、痩せた土地に育つ者に特有の、あの匂い。オルネ家は、北の湿った領地の家系だ。血の匂いが、まるで噛み合わない。
リゼット・オルネは、オルネ男爵家の娘ではない。断言できる。母から受け継いだこの鼻が、はっきりと告げている。
「主席」鑑定室に戻り、アニエスは声を潜めた。「リゼット・オルネの血は、オルネ男爵家のものではありません。あの方は、詐称された血で、宮廷に入っています」
バルテルミーの表情が、険しくなった。
「確かか」
「確かです。けれど……」アニエスは、唇を噛んだ。「証明できません。本人の同意なく、公式の手順を踏まずに嗅いだ匂いは、鑑定として無効です。わたくしが『違う』と言っても、それは『令嬢の鼻の主張』にすぎない」
制度の壁だった。真実は、見えている。けれど、それを証明する道が、閉ざされている。血の鑑定は、本人を立会の場に立たせ、複数の調香師が手順を踏んで初めて、公式の効力を持つ。リゼットを、その場に引き出す力が、今のアニエスには、ない。
その夜、アニエスは母の技法メモを、灯りの下で読み返した。血の匂いの図。近い血が分かち持つ、匂いの響き。母は、詐称された血を、どうやって見破っていたのか。
メモの隅に、母の走り書きがあった。『詐称は、消せぬ。ただ、隠せるだけ。真の血筋は、必ず、どこかの家に繋がる』。
アニエスは、はっとした。リゼットの血が、オルネ家のものでないなら、では、どこの血なのか。乾いた、南の土地の匂い。その特徴を持つ血筋を、宮廷の家系のどこかに、辿れないか。
母の手帳には、宮廷の主だった家系の「血の匂いの図」が、丹念に記されていた。どの家が、どんな匂いの響きを持つか。母は、それを一つずつ嗅ぎ集め、記録していたのだ。血を読む家の、地道な仕事。その図を頼りに、リゼットの血に近い家筋を探せば、詐称の「元の血」に、辿り着けるかもしれない。真の血筋さえ分かれば、詐称は、逃げ場を失う。
誰かが、リゼットの血を偽って、宮廷に潜り込ませた。ただの寵姫としてではない。何か、もっと大きな目的のために。血統を偽って高位に食い込ませる。それは、継承の血に、偽りを混ぜ込むための、布石ではないか。
もし、詐称した血の者を、継承の系譜に食い込ませることができたら。そして、それを見抜くはずの血の鑑定を、握りつぶすか、無力化できたら。血統至上のこの国では、血さえ「正統」と認められれば、王の座さえ、偽りの血で簒える。制度の急所を、制度そのものを操ることで、突く。恐ろしいほど冷徹な、合理だった。
だからこそ、血を読む鼻は、邪魔なのだ。母が消され、自分が狙われる理由が、ここでも同じ一点を指している。詐称を見抜く目は、簒奪者にとって、何よりの脅威。
背筋が、ぞくりとした。婚約破棄も、毒も、そしてこの血統詐称も。すべてが、継承という一点に、収束していく。ばらばらに見えた事件は、一つの大きな絵の、断片だったのだ。
翌日、王城の回廊で、アニエスはアルヴィスにすべてを共有した。
「リゼットの血は、詐称です。誰かが、偽りの血を、宮廷の高位へ潜り込ませようとしている。継承に、偽りの血を混ぜるために」
アルヴィスの灰色の瞳が、鋭くなった。
「証明は」
「できません」アニエスは、拳を握った。「詐称を暴くには、公式の血鑑定が要ります。リゼットを、複数の調香師の立会の場に、引き出さなければ。……ですが、今のわたくしには、その場を開く力がありません。令嬢の鼻の主張では、宮廷は動かない」
真実を握っているのに、証明できない。婚約破棄のときは、手巾も、空瓶も、工房の記録もあった。物が、真実を裏づけてくれた。けれど今度は、匂いしかない。血の詐称は、目に見えない。手に取れない。アニエスの鼻の中にしか、存在しない真実だった。
それを証明するには、リゼット自身を、公式の鑑定の場に立たせるしかない。複数の調香師が居並び、王族が立会い、手順を踏んで血を確かめる、あの場所に。けれど、詐称を仕組んだ者が、みすみす駒をその場に差し出すはずがない。制度の急所を突くには、制度そのものの、公式の場を、こじ開けるほかない。無力感が、じわりと胸に広がった。
「その場は、私が開く」アルヴィスが、静かに言った。「まだ、力は足りん。だが、必ず、そなたが嗅いだ真実を、公の場に引き出す。血の鑑定で、詐称を、白日の下に晒す」
その言葉が、閉ざされた道の先に、細い光を灯した。
けれど、真実に近づけば近づくほど、それを黙らせようとする力もまた、確実に、牙を剥き始めていた。詐称の露見を、最も恐れる者が。優雅な微笑みの下で、次の手を、もう動かし始めていた。




