39夜 九〇〇万の危機と四十五の足りない手
帰宅ラッシュなのか道路は鈍足で、進んでは止まり、また進んでは止まりを繰り返す。
時間をもて余す間、セニョール・アティリオのメキシコ流救命講座を聞いていた。
「人が密集する場所は事故も多くなる。街の中心地は住民、ビジネスマン、観光客と、とにかく人が多い。救急車は必要になる所だ。だが中心地には、国の救急車がすでに走り回っている。俺らのような民間救急車は入りにくい。おまけに住んでる場所も不利でな」
「不利?」
「俺たち家族が住んでる地域から街の中心地までは遠すぎる。家から中心地まで出向く交通費。傷病者を病院まで搬送するガソリン代。仕事が終わってから帰るまでの費用。仕事するだけでもカネは飛んで行く。だから、中心地の周辺で、家からさほど走行距離のかからない、市街地の隅っこで緊急連絡を待つ」
「なかなか世知辛ですね」
「つーてもな、街を走ってるうちに救護の連絡は、いつの間にか来るんだがな」
「そこは日本の救命現場と同じです」
鈍行の救急車の窓に視線を移し、夜の景色を眺めた。
市場は街灯や店の蛍光灯で昼間とは違う装いを見せていた。
暗くなっても人の活気は衰えず、商店街や露店は客でゴッタがえし、すでに酒を嗜んできる人達もいるのか、店の所々で大笑いが聞こえてきた。
かと思えば一ブロック過ぎただけで味気ない風景に切り替わる。
観光地を巡っていた時にも感じたが、メキシコの街は静と動の落差が激しい。
飲み屋を歩く客も、あえて静の場所には近寄らないようにしているのだろうか?
「エリオ君。今は何時?」
「夜八時だよ」
ティソナ・ファミリーの家を出発して、約三〇分くらい過ぎた。
「セニョール・アティリオ。ここはどこですか? かなり閑散としています」
「サン・ロレンツ通りだ。イスタパラパ地区の西側、ルイス・エチェベリア公園の前にいる。まぁ、夜になると出歩く人間も減るからな。昼間は人通りも多いぞ」
「貴方が昨日、ロープウェイで話していた公園ですね。確か、五十、何年かに一度、儀式を模したイベントがあるとか?」
「そりゃ、隣にあるセロ・デ・ラ・エストレジャ公園だ。直訳すると星の丘公園だ」
「隣の公園か……ガレージから、かなり走った気がしますが、まだイスタパラパの中なのですね」
「この地区がシティで一番、デケェって解るだろ?」
「えぇ」
親切にも息子のエリオがパソコン画面をこちらへ向け、マップを見せてくれた。
東にあるティソナ家のアパートから西へ進み、蜘蛛の巣のように張り巡らした道を横切り、途中にあるハイウェイらしき太線を越えた先に、金槌の頭に似た公園がある。
画面のポインターは金槌の先細りした当たりに止まっていた。
父のアティリオが一声かける。
「ほんじゃ、まぁ、今日はここで搬送の連絡を待つか」
救急車は大通りの路肩に寄せて駐車すると、エンジンをかけたままにしながら、アティリオが無線機のスイッチを入れた。
スペイン語は理解できなくとも、無線機から聞こえる脈絡の無い声のトーンは、日本の緊急無線と変わらない。
俺はアティリオに少し踏み込んだ質問を投げる。
「これは、どこからの無線ですか?」
「消防署が発信している無線だ」
「国の緊急無線を受信しているのですか?」
「まぁ、救急車だからな。消防の無線は受信できるぞ」
「違法な傍受とかではないですよね?」
「おいおいおいおいおい。全ての日本人はお前みたいに細かいことを気にするのか?」
「い、いえ。民間救急車の実情を知らないので、いろいろ知っておきたかっただけです」
「と言っても、俺だって日本の救急車のことは、よく知らん。なぁ、ハポネス。メキシコシティの人口がどれくらい居るか、知ってるか?」
「いえ、わかりません」
「九〇〇万人だ」
「…………そうですか」
東京に比べれば少ないが、大都市としては驚くほどの数ではなかった。
アティリオは話を付け足す。
「人口、九〇〇万人に対してメキシコ州が運営している救急車の数は、四十五台だ」
「え? 少ないですね」
「実際はもっと少ない」




