38夜 プリンシピオ 始まり
「時は一九八五年。メキシコシティで大地震が起きた。その時、街にある救急車が足りなくなる。そこで北米、南米などの支援国は、自国の救急車をメキシコ政府へ寄贈した」
世紀末伝説を聞いてる気分になった。
よく喋るオジサンだなと思いながら、民間救急車の歴史を、セニョール・アティリオから学んでいた。
イスタパラパの上層から下層に移動する為、大きな救急車は長い下り坂を走っていた。
勾配な坂も通るので走ってるというよりは、滑り落ちている感覚になり、冷や汗が出てしまう。
機関員を勤めるアティリオは慣れているのか、路上駐車で狭くなった坂を、華麗なハンドル捌きで難なく滑走して行く。
父のアティリオは軽妙な運転に合わせて解説を続けた。
「けどな、支援国は重要なことを見落としていた」
「なんですか?」
「メキシコには救急車を運転できる人間が足りなかった」
「そんなことがあるのですか?」
「あったんだなぁ、これが。八〇年代のメキシコは不景気の真っ只中だった。んで、政治改革の転換期でもあった。おかげで、お役所の仕事はろくに回らず、公務員の腐敗が進んだ」
「複雑な事情ですね」
「そこに来ての大地震だ。地震で病院や行政施設が軒並み倒壊して、セーフティネットが機能しなくなった。で、運転できる人間がいなくなり、救急車は動かない赤い箱になっちまった」
「かなり特殊ケースだ」
「放置してたら、いつの間にか近所の人間が救急車へ勝手に乗って、勝手に怪我人を運ぶようになった。それが、この国の民間救急車の始まりだ」
「正直、話を聞いても信じられないエピソードです」
「まぁ、実のところは解らん。気がついたら民間救急車が街を走り回ってた」
一時、世話になるつもりで、この救急車へ乗り込んだが、これはこれで興味が湧く話だ。
ティソナ・ファミリーが所有する民間救急車、ルナティコ。
運転する父のアティリオ。
助手席に十歳の息子エリオ。
後部座席には十八歳の娘、アルセリアことアーシー。
同じく後部座席にいて臨時で雇われた俺、漣・琉生人。
この家族にはスペイン語の日本人と呼ばれている。
車内はこの四人が乗り込んでいる。
一般的な救急車は大抵、運転を担当する機関員。現場の司令塔となる隊長。傷病者の容態を確認する隊員。
三人一組のチームで構成され、助手席は隊長の持ち場だ。
この家族に当てはめると、助手席に座る末っ子エリオは、救急車ルナティコの隊長だろうか?
そう見ると、なんだか微笑ましく思えてきた。
ゴン、ゴン、ゴン。
「い、痛い……」
車体が揺れる度、俺の後頭部は天井の壁際に設置された、カーボン製らしき箱に当たる。
大した痛さではないが、何度もぶつけるうちに後頭部がヒリついてきた。
何故だか解らないが、俺が座る位置の箱だけ一際デカイ。
箱を避ける余白がなかった。
何が入っているんだ?
箱から頭を離すつもりで前屈みになり、運転席を覗いて、どういう設備が並んでいるか確認した。
ダッシュボードの中央に標準的なカーオーディオと、その上に緊急走行を知らせるサイレンのスイッチが取り付けられ、事件事故の連絡を受信する無線機が搭載されている。
大きさはレコーダーほどの大きさで、コードで繋がれた卵型に近いマイクが、フックにかけられていた。
ダイヤルやボタン、チャンネルを表示するパネル、日本と変わらない無線機だった。
気になることと言えば、日本では当たり前のカーナビゲーションが搭載されていない。
街の地図は運転を担当するアティリオの頭の中にあるのだろうか?
メキシコの住人である彼なら道は知っていても不思議ではない。
だが、助手席が視界の端に入ると、息子のエリオが持っているパソコンに目が止まる。
その画面を盗み見ると画面にはメキシコの地図が映され、GPSで追っているであろうポインターが西へ進んでいた。
なるほど、末っ子のエリオが言っていた『僕はこの救急車のナビゲーターだからね』と言う意味が理解できた。
十歳の少年がカーナビの役割を果たしている。
狭い車道が開け白線で道が二つに別れると、救急車は右側の道を走行する。
海外の道路は右側通行なのだと改めて認識した。
救急車が平行に走り始めると、住宅が密集する丘を抜けたのだと解った。




