36夜 謎のスイッチ アドレナリン
娘のアーシーに注意され、直に確認するのを断念したが、目線だけは自由が聞く。
ストラクチャーの上座。
つまり傷病者の頭を乗せる箇所に、またまた突起した箱がある。
だが、これだけは他の箱と違いジェラルミンケースくらいの厚みしかない。
他の箱と違うのは、黄色と黒のストライプで配色されたテープが巻かれていることだ。
黄色と黒の箱から一本のケーブルが伸びており、それは運転席のフロントへ繋がっていた。
ケーブルが繋がっていたのは、これもまた黄色と黒のテーピングされたケースなのだが、こっちは非常ベルに似たスイッチだった。
ガラスの蓋らしき物が被せられた赤いボタンは何かの装置なのだろうが、日本の救急車はおろか、海外の救急車でも見たことのないスイッチだ。
そういえば、大分前に観た戦闘機が活躍する映画で、同じような構造のボタンがあった。
赤いボタンを押すと緊急脱出が可能で、戦闘機のコックピットが解放され、座席が直上へ射出――――――――。
まさかね?
あの赤いボタンを押したら救急車の屋根が吹き飛んで、座席やストラクチャーが真上に吹き飛ぶなんて、それこそ、あり得ない。
俺は口角を上げ静かに笑い飛ばした後、救命救急における必要な機材を確認する。
日本で救急隊にいた時の癖みたいなもので、いかなる状況に備えて機材や道具はどこに置いてあるか、把握しておきたい。
ガラスの棚に仕舞われた液体の袋や、ビニール製の薄い袋に密閉された注射器を見た。
「薬剤の濃度を薄める生理食塩液の袋もある。アドレナリンは常備しているのですね。エピペンとボスミン。ボスミンは受容体がαとβがちゃんとある」
「ほぉ、やっぱり解るか? さすが救命士だな」
「"元"ですけど」
「この薬はなんの効果があるんだ?」
「え?」
俺は熊男を探るように聞いた。
「えっと、その……救急車に搭乗する人間なら、知っている薬品ばかりですが?」
「俺は運転が専門でな。そういうのは前に雇っていた救命士に全部任せていた」
「そうでしたか……」
海外の民間救急車は、これが当たり前なのか?
搬送する相手は死線に身を置くかもしれない。
傷病者は、その場に居合わせた救急救命士に命を預ける。
だから救急車に搭乗する者は、専門的な知識を有してなければならないのだが。
日本との温度差を体感するとともに、目の前の大男との接し方も徐々に見えていた。
「説明すると、エピペンとボスミンはアドレナリンの種類で、これは血管などを広げる効果がありまして、エピペンはアナフィラキシーショックなどの病状を緩和させます」
「何? アナル開いたショップ店員だと? おい、それはどこに行けば会える!? 教えろ!」
後部座席へゴリラのように乗り込んで来たアティリオを両手で制止する。
「近い近い近い! そんなに迫らないで!? アナフィラキシーショックです。俺の話、ちゃんと聞いてますか?」
「おぉ、すまん。つい興奮してしまった」
「そしてボスミンですが、これは外界から細胞の表面に結び付く受容体で、タンパク質の一種なのですが、脳から発せられるシグナルと同じ作用が……」
アティリオが白目を向いたまま口を半開きにして、魂がヨダレとして流れていた。
彼の思考におけるキャパを越えたことを反省し、噛み砕いた説明に切り替える。
「簡単に言うと、ボスミンは人の血管や心臓に無理やり『動け!』って、命令する薬です」
アティリオは人間の顔に戻ると、電球のようにパッと明るい顔になった。
「ですが、ボスミンは持続時間が短く、ニ分、長くても三分までしか効果がありません。なので、心肺停止の際は観察も含めて、三分から五分おきに投与しないとならないんです」
「ほぉー、なるほどな」
ここまでレクチャーした後に、もっとも重要なことを説明しなければならないことに気がついた。
「言っておきますが、ボスミンなどの資格が必須な物は使えません。俺は、この国では無資格なので」




