32夜 善きサマリア人
何か間を繋ぐ話題はないかと、脳内で神経が記憶や経験を引っ掻き回して、ひねり出そうとする。
ふと、セニョール・アティリオに言われたことが掘り返されて、情景反射で話題を投下。
「君のお父さんが病院で言っていた、えーと、善き……さんまさん?」
「善きサマリア人?」
「ああ、それだ! バイ・スタンダーと同じような意味で聞いたことあるんだけど、よく知らなくて」
彼女は、そんなことも知らないのか? と言いたげに呆れた顔で見つめていた。
「日本に聖書はないの?」
「あるにはあるけど、日本は無宗教の人が多いし、そもそも俺はキリスト教徒じゃないから」
彼女は眼下に広がる町を眺めながら「そうね……」と、脳内に蓄えた知識にアクセスしている素振りを見せた後、解説を始めた。
「新約聖書に出てくる例え話よ。内容を簡単に言うと、とある法律学者がイエス・キリストに尋ねた。『善き隣人とは何か?』するとイエスは答える『暴漢に襲われた人がいて、それを見た祭司は通りすぎ、レビ人も同じように通りすぎた。だが、旅をしていたサマリア人だけは彼を介抱して、療養する為に宿の代金まで支払った。祭司、レビ人、サマリア人。この中で傷ついた人の隣人になった者は誰か?』すると学者は答えた『介抱したサマリア人です』大体、こんな話ね」
「話を聞いてもよくわからないな……祭司は司祭とは違うの? その、レビびと? サマリアびと? 何が違うの?」
「祭司は神と人をつなげる仕事。いろんな宗教に存在する。司祭はキリスト教を布教する仕事。つまり神父さん」
「わかりやすい」
「レビ人は神に使える人々の末裔で、神こそが財産として家もお金も持たなかった人達のことよ。基本は神に使える仕事が役割で、祭司の手助けをしていたわ」
「神聖な役割を持った人達なのか」
「ただ、神聖だからこそ、話の例えに皮肉として出てくるわ。彼らは儀式や神事を行う為に汚れをまとってはいけないとされている。悪い物を取り込まないように断食をするし、神聖さを維持する為に服を汚してはならないとされている」
「それが皮肉になるの?」
「例え話に出てくる暴漢に襲われた怪我人は、体から血を流していた。祭司は神聖な存在だから、その血に触れると汚れて神聖さが失われるから、怪我人に近づくこともなく無視して通り過ぎた。祭司の手伝いをするレビ人も同じで、血で汚れれば神聖な仕事に関われなくなる」
なんとなく話の情景が見えてきた。
アーシーは話の続きを語る。
「祭司とレビ人が怪我人を無視したのは、そういう理由だけど、これには批判も兼ねているのよ。当時、祭司は神に近しい存在。対して怪我人は貧乏人で、もしかしたら暴漢に全財産を奪われたかもしれない。これはカーストの上位と最底辺を現した例えなの。祭司の手伝いをするレビ人も、カーストの上位ではないものの、神に使えているというプライドから、怪我人に手を差し伸べなかった」
「聖書にまで格差社会の話が出てくるなんて、いつの時代も変わらないものだね?」
「そこで最後に登場するのがサマリア人。当時のサマリア人は裕福とは言えず、宗教的な迫害も受けていた。要は社会から差別されていたのよ。そんなサマリア人が人目をはばかることもなければ、血で汚れることも気にせず怪我人へ手を差し伸べた。サマリア人は怪我人を、助けを求める一つの命として見ていた」
「なんとなく言いたいことは解った気がする。つまり、善きサマリア人は人種、社会的立場や地位も関係なく人助けをする存在の例えなのか」
「そういうこと」
アーシーの解説を聞いた上で、セニョール・アティリオと遭遇した夜を思い出す。
金も身分証も無くした俺は、ただのアジア人というだけで、何者でもない存在となった。
そんな俺の前に現れた熊のような大男アティリオ。
運良く英語が通じるだけで、互いに何者なのかは一切、知り得なかった。
肉体の苦痛と極度の疲労から精神状態が朦朧とし、その中で突然現れた怪我人を見て、救急隊をしていた時の感覚が呼び覚まされ、反射的に手当てをして肩を支えて病院まで運んだ。
アティリオからすれば、それこそ善きサマリア人なのかもしれない。
けど、それより前に俺は瀕死の少女を見捨て、重傷のアティリオを危険人物とみなして、その場を去ろうとした。
善きサマリア人なんて相応しくない、恥ずべき人間だ。
+++
イスタパラパ地区にあるティソナ家のアパートへ戻って早々、父のアティリオが出迎えて言う。
「ハポネス! 早速、仕事をしてもらうぞ。働かざる者、食うべからずってな」
日本から一万キロも離れた土地で、まさか救命士として再び人命救助の現場へ出向くとは、夢にも思っていなかった。




