3夜 パラメディコ 救急救命士
一ヶ月前。
メキシコの遥か海の向こう、比較的、治安の安定した日本で暮らす俺には、飛び交う銃弾も犯罪組織の追撃も想像が出来ない世界だった。
裏社会とは無縁の生活を送っていた。
「漣!」
通路で背中に投げかれられた声に俺は振り向いた。
少しよれた救命隊員のユニフォームを着る、同期の仲間が輝かしく見え、引け目を感じつつも笑顔を作り挨拶を返す。
「よぉ!」
「おい、漣! やっぱり辞めるのか?」
「悪い。人手不足なのにシワ寄せが皆のところに行くよな?」
「考え直さねぇか? 内勤に回るとか、他の選択肢があるだろ?」
「んー、それも考えた。でも、やっぱり、居ると嫌なことを思い出すから」
「また数少ない同期がいなくなるのか……」
「ホントーに、悪い!」
「ホントーに、そう思ってるのか?」
俺は人差し指と親指で輪っかを作り、指先に隙間を作ると、同期と二人で吹いた。
同期は「コイツ!」と言いながら、こちらの肩へ拳を軽くぶつける。
かつての職場となった消防署は緊急事案が落ち着き、凪の暇を見せていたので、同期との雑談が許される空気になった。
通路のソファーへ座ると同期は聞いた。
「で、次の仕事は?」
「決めてない」
「バカだなー!」
「いいだろ? しばらく休めなかったんだ。長い夏休みが欲しいんだよ」
「そんなに休んで何すんだよ?」
「そうだなー、旅行に行きたい。海外旅行」
「お前も好きだなぁ。ヒマ見つけては海外旅行に行ってるだろ?」
「仕事でずっと行ってない。それに海外旅行は趣味だし」
「さすが、英語対応救急隊!」
羨望の声に鼻が高くなる。
英語対応救急隊とは。
ニ〇ニ〇年の東京オリンピック開催時に海外からの観光客が増えることを踏まえ、ニ〇一四年に創設された部署である。
創設当初は限られた消防署に一人在中していたが、今ではその数は倍近く拡充され、今後も増える予定だ。
隊員は志願することで研修を受けられるが、TOEICで一定の成績が必要とされ、単に英語が話せるだけでは務まらず、傷病者の文化や宗教を学び、それらに寄り添う姿勢が重要とされる。
俺は同期の興味に答えてやる。
「英語が得意だと、いろいろ行けていいなぁ。どこ行くの?」
「アメリカ。やっぱり日本と違う文化があって全部が新鮮だよ。ブラジルも行きたいな。サッカーの本場を見てみたい。で、メキシコかな? 最近、メキシコの映画を観たら、行ってみたくなった」
「ブラジルとメキシコって英語は通じるのか?」
「ブラジルはポルトガル語だから、あまり通じないかな。メキシコはスペイン語が公用語だけど、アメリカの隣だから英語は通じる」
「いいねー。俺も行ってみてぇわ」
それを聞いて職場を去ることに申し訳ない気持ちがわき出て、つい「ごめん」と返す。
同期は再び、肩に軽く拳をぶつけながら言う。
「もう、いいって! 早く日本から出てけ!」
そして同期と二人で笑った。
こうして漣・琉生人消防士、二十四歳は二年勤めた消防署を後にし、この先に起こる災難も知らずに日本を旅立った。
※消防士→消防隊員、救命隊員が最初に拝命される階級。
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救命隊員を辞めてからの一週間。
職場の送別会で見送られた後は消防署の寮、単身待機宿舎を退去し、渡航に必要ない荷物は実家に送り預かってもらった。
救命隊員の生活では、まとまった休みが取れず、海外旅行へ行くこともなかった。
お盆と正月休みも緊急出動に備えて消防署で待機していた。
大学を卒業した記念で渡航したっきりなので、それから数えるとニ年は日本から出ていない。
部屋の影に寝かせていたパスポートを引っ張り出して、証明写真の写りの悪さに、身悶えに似た恥ずかしさが込み上げてくる。
救命隊員になる前の大学時代はホームステイで海外へ行きはしたものの、一つの地域しか滞在できず、広く、その国について知ることは出来なかった。
その頃から世界の国々を渡り歩く旅に憧れていた。
学生時代は旅費も足りず、すぐに帰国したが、いつか世界一周旅行を夢見てコツコツと資金を貯めていた。
消防署で働いてからは、家賃の安い寮生活で節約しながら、貯金の額を増やしていった。
退職を機に世界一周とまではいかないが、海外で旅をするという目標達成にいたったのだ。




