第5話 勝者の言葉
最終日の朝、工房には五人が並んでいた。
サリ、尾道さん、村瀬、ひな、久保田さん。誰も勝負の話をしなかった。
蜜のパン、栗とほうじ茶、塩パン、くまパン、惣菜パン。そして、リガヤの朝のパン。六つのパンを、五人で焼いた。
四日目にもなると、サリの巻きもだいぶ揃うようになっていた。手のひらの付け根で押す。尾道さんに言われたとおりに。リガヤほど速くはない。でも、もう形は崩れない。
開店の十分前、四十本が棚に並んだ。
七時三十八分、最後の一本が売れた。
今日も、三十人の朝は、ちゃんと始まった。
◇
昼過ぎ、店の裏口が開いた。
スーツケースを引いた、リガヤだった。
空港から、そのまま来たらしかった。髪が乱れて、目の下に濃い影ができている。一週間で、少し痩せたように見えた。
「リガヤ」
サリが駆け寄ると、リガヤは小さく笑った。
「ただいま。お母さん、大丈夫だった。もう歩けるようになって、叔母さんがしばらく看てくれるって」
「よかった……」
「みんなに、迷惑かけたね」
リガヤは、工房を見回した。それから、ふと、店の正面に続くドアのほうへ目をやった。ガラス越しに、売り場の棚が見える。
リガヤの足が止まった。
朝のパンの棚に、売り切れの札が下がっていた。今朝も、ちゃんと並んで、ちゃんと売り切れた証だった。
リガヤは、しばらくその札を見ていた。
「……誰が焼いたの」
誰も答えなかった。
リガヤは、サリを見た。
「サリさん?」
「みんなで」
サリが言うと、リガヤの顔から、笑みが消えた。
◇
「頼んでない」
低い声だった。リガヤのそんな声を、サリは初めて聞いた。
「私、そんなこと頼んでない」
「リガヤ――」
「サリさんたち、勝ってたんでしょ。私のパンがなかったら、勝ちは決まってた。なのに、なんで焼いたの」
リガヤの声が、少しずつ大きくなった。
「私に勝たせて、何がしたいの。かわいそうだと思った? お母さんが倒れた、かわいそうな子だから、助けてあげようって?」
「違う」
「何が違うの」
リガヤの目に、涙がにじんでいた。でも、こぼれなかった。こぼすまいとしているのが分かった。
「私は、自分で勝ちたかった。負けるなら、自分で負けたかった。助けられて勝つのも、助けられて負けるのも、どっちも嫌」
工房が、しんと静まった。
サリは、少しだけ考えてから、口を開いた。
「月曜日の朝、七時二分に、制服の男の子が来た。二本買っていった。部活の朝練の前なんだって」
リガヤが、まばたきをした。
「七時十一分に、看護師さん。夜勤明けで、一本だけ。手に取ったとき、ほっとした顔をしてた」
「……知ってる」
「七時十五分を過ぎたら、駅に向かう人がたくさん来た。みんな、迷わずにリガヤのパンの棚に行った。レジの子が言ってた。ほぼ毎日、同じ時間に、同じパンを買う人たちだって」
サリは、リガヤの目をまっすぐ見た。
「リガヤのためじゃない。あの人たちの朝のために焼いたの。リガヤがいないから今週はありません、なんて、言いたくなかった」
リガヤは、何も言わなかった。
唇を噛んで、うつむいた。スーツケースの取っ手を握る手が、白くなっていた。
やがて、小さな声で言った。
「……巻き、崩れてなかった?」
「最初の日は、ぐちゃぐちゃだった」
リガヤが、顔を上げた。
「尾道さんが教えてくれた。手のひらの付け根で押すって。リガヤの手、二年見てたって」
リガヤは、尾道さんのほうを見た。尾道さんは、何も言わずに自分の生地をこねていた。
リガヤの目から、とうとう一粒だけ、涙が落ちた。
◇
閉店後の休憩室に、六人が集まった。
柏木さんが、最後の紙を壁に貼った。三か月分の合計。派閥ごとの数字。
楽しく作る派のほうが、上だった。
村瀬が、ノートを開いた。
「念のため、計算し直します」
誰も止めなかった。村瀬は、ペンを走らせた。最終週にサリたちが焼いたリガヤのパン。その売上を、一本残らず数字派に足していく。もともと、リガヤのパンは数字派のものだ。誰が焼いたとしても。
ペンが止まった。
村瀬は、しばらくノートを見つめていた。それから、静かに閉じた。
「僕の数字でも、サリさんたちの勝ちです」
誰も、声を上げなかった。
村瀬は、ノートの表紙を指でなぞっていた。数字だけを信じてきた人が、数字で負けを認めた。その指が、少し震えていた。
勝った。
サリは、その言葉を胸のなかで転がした。
三か月、この瞬間のために走ってきた。棚のいちばん上に、名前を刻むために。
でも、嬉しくなかった。少しも。
◇
「この勝負、なしにしよう」
サリが言うと、休憩室の空気が止まった。
「店長が言ってました。辞めるかどうかは、勝ったほうが決めればいいって。だから、私たちが決めます」
サリは、ひなと久保田さんを見た。ひなは、泣きそうな顔でうなずいた。久保田さんは、腕を組んだまま、目を閉じて、一度だけうなずいた。
「誰も辞めない。勝負は、なしにする」
「だめ」
尾道さんだった。
立ち上がって、サリをまっすぐ見ていた。その目は、怒っているように見えた。でも、サリには、それが怒りだけではないことが分かった。
「勝ったなら、勝ちを受け取りなさい。情けで勝ちを手放すのは、相手に失礼よ」
「情けじゃありません」
「同じことよ」
尾道さんの声が、かすかに揺れた。
「十年前、私も勝ったの。岸本に」
休憩室が、静まり返った。
「同期だった。あいつは、楽しく作ればいいって、いつも言ってた。今のサリと同じことを。私は、それが言い訳だと思ってた。だから、数字で勝ってやろうと思った。そして、勝った」
尾道さんは、壁の紙を見た。
「辞めるなんて約束、してなかった。なのに、あいつは辞めた。何も言わずに、いなくなった」
尾道さんの手が、テーブルの端をつかんでいた。
「勝ったのは私なのに、置いていかれたのも、私だった。十年、ずっとそうだった。勝ちを喜んだことなんて、一度もない」
誰も、何も言えなかった。
「だから、サリ。あなたは勝ちを受け取って。私みたいに、勝ったのに何も残らないなんてこと、しないで」
◇
サリは、少しのあいだ、黙っていた。
岸本さんの店を思い出した。傾いた木の扉。子どもたちの笑い声。「あいつ、元気にしてる?」と聞いたときの、少し寂しそうな顔。
尾道さんは知らない。岸本さんが今、どんな顔でパンを焼いているか。
でも、それは今、サリが言うことじゃない気がした。
「尾道さん。私、勝ちは受け取ります」
尾道さんの目が、少しだけ見開かれた。
「三か月、本気で戦って、勝ちました。それは、ちゃんと受け取ります。嬉しいです」
サリは、一人ずつ、顔を見た。尾道さん。村瀬。リガヤ。
「でも、だからこそ、なしにしたいんです」
サリの声が、少し震えた。
それ以上は、説明しなかった。かわりに、リガヤを見た。
「あなたたちがいないと、来月、誰と競えばいいの」
リガヤが、顔を上げた。
「勝負は、終わりにしない。なしにして、続けたい。来月も、その次も」
長い沈黙があった。
最初に口を開いたのは、柏木さんだった。
「勝ったほうが、そう決めた」
柏木さんは、湯のみのお茶を一口すすって、それだけ言った。
尾道さんは、しばらくサリを見ていた。それから、ゆっくり椅子に座った。
「……本当に、岸本みたいなこと言うのね」
その声は、もう震えていなかった。
柏木さんは、壁の紙のいちばん上を指でたどった。個人の売上の欄だった。
「店の勝負のほうも、決めとかなきゃならんな」
三か月通して、いちばん売れたのはリガヤの朝のパンだった。一か月目から、一度も首位を譲らなかった。
「本当なら、看板はリガヤのパンだ。だがな、最後の一週間、あれを焼いたのはリガヤじゃない。サリたちだ」
リガヤが、うつむいた。
「それに、あのパンが一週間も途切れずに並んだのは、サリが蜜のパンを焼く手を止めて、朝の台に立ったからだ。どっちか一人の名前だけ書くのは、どうも違う気がする」
柏木さんは、少し考えるように髭をなでた。
「看板は、一人では決めない。創業の食パンの両脇に、蜜のパンと朝のパンを置く。カードに名前は入れない」
「名前、入れないんですか」
ひなが、思わず聞いた。四十年で初めて、と言ったのは柏木さん自身だった。
「約束を破るのは悪いと思ってる。だが、名前の置き場所は、ほかにある」
柏木さんはそれだけ言って、誰の問いにも答えなかった。
◇
誰も、帰ろうとしなかった。
最初に話し始めたのは、ひなだった。
「私、ほんとは毎朝、来るのが怖かったです。負けたら辞めなきゃいけないって思ったら、くまの耳が全然うまく作れなくて」
久保田さんが、苦笑いした。
「俺もだよ。サリに突っかかったのはな、本当は分かってたからだ。息子の顔だけ見てたら、それ以上は届かないって。図星を突かれて、腹が立っただけだ」
村瀬が、ノートを膝の上に置いた。
「僕は、親に反対されて職人になったんです。大学まで出て、なんでパン屋なんだって。数字で勝てなかったら、自分の選んだ道まで間違ってたことになる気がして。だから、ずっと数字ばっかり見てました」
リガヤは、窓の外を見ながら言った。
「毎晩、弟たちの学費の計算してた。眠れなかった。お母さんが倒れたって聞いたとき、一瞬だけ、勝負のこと考えたの。最終週なのにって。そんな自分が、すごく嫌だった」
尾道さんは、何も言わなかった。でも、もう十分に話していた。
みんなの目が、サリに向いた。
サリは、少し考えてから言った。
「夢のために貯めてたお金が、減っていくのが怖かった。試作の材料代とか、夜のお仕事を休んだ分とか。日本で自分の店を開くのが、遠くなっていく気がして」
それから、少しだけ笑った。
「でも、楽しかったです。すごく」
◇
尾道さんが、立ち上がった。
工房に行って、戻ってきたとき、その手には大きな木のまな板があった。その上に、今日の売れ残りのパンが、少しずつ載っていた。
蜜のパン。栗とほうじ茶。塩パン。くまパン。惣菜パン。それから、最後の一本だけ取り置かれていた、リガヤの朝のパン。
尾道さんは、黙ってナイフを入れた。一つずつ、六等分に。
「食べなさい。全部」
六人で、少しずつ分け合った。
蜜のパンを食べたリガヤが、目を丸くした。
「これ、おいしい。シナモンと……なに、この甘いの」
「ヤシの砂糖。お母さんのパンなの」
リガヤの朝のパンを食べた久保田さんが、うなった。
「これは、うちの息子にも食わせたいな」
尾道さんの栗とほうじ茶を食べたひなが、小さく言った。
「尾道さんのパン、こんなに優しい味だったんですね」
尾道さんは、聞こえないふりをした。でも、耳が少し赤かった。
村瀬が、くまパンを手に取って、しばらく眺めていた。
「……これ、かわいいですね。数字見てるとき、気づかなかった」
ひなが、声を上げて笑った。
三か月ぶりに、休憩室に笑い声が戻った。
柏木さんは、その様子を戸口から見ていた。それから、誰にも気づかれないように、売り場のほうへ歩いていった。
正面の棚の前で、柏木さんは足を止めた。いちばん上の段を、しばらく見上げていた。
(第5話 了)




