第4話 誰かの朝
一月の午前四時は、十一月よりもずっと暗い。
裏口のドアを開けると、吐く息が白く広がった。路地の電柱の明かりの下に、猫はいた。毛を膨らませて、いつもより少し丸くなっている。
「寒いね」
サリが言うと、猫は欠けた耳を一度だけ動かした。
三か月目だった。勝負の、最後の月。
◇
工房から、笑い声が消えていた。
二か月目の結果が貼り出されてから、空気が変わった。差は半分まで縮んでいた。三か月目に入って最初の二週間、楽しく作る派はさらに追い上げた。蜜のパンは、あの年配の女の人の口コミで、少しずつ近所に知られていった。ひなの小さなくまパンは、幼稚園帰りの親子が毎日のように買っていった。
久保田さんも、何も言わずに自分のパンを変えていた。具を減らし、ひとまわり小さくした。サリと目が合うと、ふいと逸らした。
数字派も、黙ってはいなかった。
尾道さんの栗とほうじ茶は、焼き上がりの時間をさらに細かく分けた。村瀬の塩パンは、雨の日と晴れの日で並べる数を変えた。リガヤの朝のパンは、毎朝六十本が、毎朝きっちり売り切れた。
休憩室の壁の紙は、毎週柏木さんが書き換えた。数字が近づくほど、誰も口をきかなくなった。紙コップのコーヒーを黙って飲んで、黙って工房に戻る。
柏木さんだけが、ときどき目を細めていた。
◇
最終週の月曜日、リガヤが来なかった。
午前四時になっても、四時半になっても、成形の台は空いたままだった。リガヤが遅れたことは、二年間で一度もなかった。
五時前、柏木さんが工房に入ってきた。
「リガヤは、しばらく休む」
みんなの手が止まった。
「お母さんが倒れたそうだ。昨日の夜、向こうから連絡があって、今朝の飛行機で帰った。命に別状はないらしい。ただ、いつ戻れるかは分からない」
誰も、何も言わなかった。
オーブンの低いうなりだけが、工房に響いていた。
◇
休憩時間、村瀬がノートを開いていた。
サリは、のぞくつもりはなかった。でも、目に入ってしまった。
リガヤの朝のパンが、最終週に棚から消えた場合の数字。それを差し引いた、数字派の合計。楽しく作る派の合計。
村瀬は、サリの視線に気づいて、ノートを閉じた。
「……計算しただけです。僕の癖なんで」
言わなくても、分かっていた。
リガヤのパンがなければ、楽しく作る派の勝ちは、ほぼ決まる。
誰も口にしなかった。でも、休憩室の全員が、同じことを考えていた。
ひなが、うつむいていた。久保田さんは、窓の外を見ていた。尾道さんは、紙コップを両手で包んだまま、動かなかった。
サリは、立ち上がった。
「店長」
工房の奥の柏木さんのところへ行って、頭を下げた。
「リガヤの朝のパン、私が焼いてもいいですか」
◇
柏木さんは、しばらくサリの顔を見ていた。
「あれは、数字派のパンだぞ」
「分かってます」
「お前が焼いたら、お前たちの勝ちが遠のく」
「分かってます」
サリは、顔を上げた。
「でも、あのパンを毎朝買いに来る人がいます。リガヤがいないから今週はありません、って言いたくないんです」
柏木さんは、何も言わなかった。ただ、少しだけ口の端を上げて、うなずいた。
その夜、サリは夜の店に電話をかけた。一週間、休ませてほしい。理由を聞かれて、うまく説明できなかった。パンを焼くからです、とだけ言った。
電話を切ってから、通帳を開いた。夢のために貯めてきた数字。試作で少し減って、今週休めば、また止まる。
日本で店を開く日が、少し遠くなる。
サリは、通帳を閉じた。
◇
リガヤの朝のパンは、思っていたよりずっと難しかった。
ベーコンと卵を巻き込んだ、細長い成形。リガヤはそれを、誰より速く、誰よりきれいに、毎朝六十本作っていた。
サリがやると、一本目から形が崩れた。巻きの強さが均一にならない。端が太くなり、真ん中がへこむ。焼き上がると、一本ずつ長さが違った。
二十本作ったところで、もう開店まで時間がなかった。
「サリ」
後ろから、声がした。
尾道さんだった。何も聞かずに、サリの隣の台に生地を置いた。
「巻くとき、指じゃなくて、手のひらの付け根で押す。リガヤはそうしてる」
尾道さんは、一本巻いてみせた。リガヤほど速くはない。でも、形は揃っていた。
「……見てたんですか、リガヤの手」
「二年、隣で見てた」
尾道さんは、二本目を巻き始めた。
そのとき、反対側の台に、もう一つ生地が置かれた。
村瀬だった。ノートを作業台の端に置いて、袖をまくっていた。
「リガヤさんのパン、七時十五分から七時四十分に三十本はけるんです。開店に四十本並べないと、間に合わない」
それだけ言って、村瀬も巻き始めた。
サリは、何も言えなかった。数字派の二人が、自分たちの勝ちを遠ざけるパンを、黙って巻いていた。
三人で、四十本を並べた。開店の五分前だった。
◇
朝七時、サリはレジの横に立った。
リガヤのパンが棚に並んでいるのを見て、何人ものお客さんが手を伸ばした。
制服姿の高校生が、二本取っていった。部活の朝練の前らしい。
夜勤明けらしい看護師の女の人が、一本を手に取って、ほっとしたように息をついた。
スーツの男の人が、時計を見ながら一本つかんで、小走りに出ていった。
七時十五分を過ぎると、目黒川沿いを駅へ向かう人の流れが、店の前で少しだけ膨らんだ。みんな、迷わずにリガヤのパンの棚へ向かった。
レジの子が、小声でサリに言った。
「この人たち、ほぼ毎日来るんですよ。同じ時間に、同じパン」
サリは、その顔を一つずつ見ていた。
リガヤは、この人たちの朝を作っていた。
七時十五分から七時四十分に三十本。村瀬のノートの数字。リガヤの口癖。あれは、ただの数字じゃなかった。三十人の、急いでいる朝だった。
数字の向こうに、ちゃんとお客さんを見ている。
岸本さんが尾道さんについて言った言葉を、サリは思い出した。リガヤも、同じだったんだ。
七時三十九分、最後の一本が売れた。
◇
火曜日も、水曜日も、三人で焼いた。
水曜日の夜、サリの電話にリガヤからメッセージが一通だけ届いた。
『病院の売店のパン、甘すぎて食べられない。麦穂のが食べたい』
勝負のことは、一言も書いていなかった。
サリは返事を打ちかけて、消した。朝のパンの写真を一枚だけ撮って、送った。
既読はついた。返事は来なかった。
木曜日には、久保田さんも加わった。何も言わずに来て、ベーコンを切り始めた。
「勘違いするなよ。俺の楽しいは変わってない。息子が喜ぶパンを作る。ただ、よその家にも息子がいるって、やっと気づいただけだ」
ひなは、自分のくまパンの成形を早めに終えて、リガヤのパンの卵を準備した。
金曜日、成形の台には五人が並んでいた。楽しく作る派も、数字派も、関係なかった。
サリは、夜の店に行かない夜を、ベッドで過ごした。体は疲れていたのに、眠る前に毎晩、朝のお客さんの顔を思い出した。高校生、看護師、駅へ急ぐ人。
楽しい、と思った。
自分が楽しいんじゃない。あの人たちが、今朝もちゃんと食べて出ていけたことが、楽しかった。
◇
土曜日の朝、裏口の猫は、いつもの場所にいなかった。
サリは路地を見回した。ゴミ置き場の脇にも、電柱の下にも、影はなかった。
少しだけ寂しくなって、ドアを開けようとしたとき、通りの向こうの塀の上に、小さな影が見えた。
猫は、塀の上からこちらを見ていた。それから、ゆっくり瞬きをして、塀の向こうへ降りていった。
「おはよう」
届かないと分かっていて、サリは言った。
工房に入ると、柏木さんがオーブンの前で腕を組んで立っていた。サリを待っていたようだった。
休憩室で交わされた約束のことを、誰かが柏木さんに話したらしかった。
柏木さんは、サリを見て言った。
「負けたほうが辞める、だってな」
サリは、息をのんだ。
柏木さんは、怒ってはいなかった。ただ、静かな目をしていた。
「止めないよ。辞めるかどうかは、勝ったほうが決めればいい」
それだけ言って、柏木さんはオーブンの前へ戻っていった。
勝負は、あと一日で終わる。
リガヤは、まだ戻ってきていなかった。
(第4話 了)




