第3話 楽しいの在りか
午前四時の裏口に、今朝も猫は座っていた。
欠けた片耳を少しだけ動かして、サリを見上げる。
「おはよう」
声は、ちゃんと出た。
猫はゆっくり瞬きをして、それから、珍しく一度だけ伸びをした。前足を地面に突っ張って、背中を弓なりにして、大きなあくびをする。
「あんたは、いつも楽しそうだね」
サリは笑って、工房のドアを開けた。
◇
あの「パンの人」が、二度目に夜の店に来たのは、十二月の初めだった。
今度は一人だった。カウンターの端に座って、薄めの酒を頼んだ。
「勝負、どうなった」
サリは、グラスを拭く手を止めた。
「覚えてたんですか」
「気になってね。この前は、連れに付き合わされて来ただけだったんだけど。麦穂って聞いて、どうにも頭から離れなくて」
一か月目の結果を話すと、彼は黙ってうなずいた。それから、グラスを両手で包むようにして、少しだけ笑った。
「俺も昔、麦穂にいたんだよ」
サリは、拭いていたグラスを落としそうになった。
「十年前に辞めた。岸本っていうんだ。岸本透」
その名前を、サリは知らなかった。麦穂では、辞めた人の話をする人はほとんどいない。みんな「巣立った」と言うだけで、名前までは出てこない。
「辞めたって……」
「勝負に負けてね。君らと同じような勝負に」
岸本さんは、それ以上は話さなかった。ただ、帰り際に一枚の紙ナプキンを裏返して、ペンで何か書いた。
店の名前と、駅の名前だった。
「休みの日にでも、おいで」
それから、ふと思い出したように付け加えた。
「柏木さんには、頭が上がらないんだよ。あの人がいなかったら、俺は今、パンを焼いてない」
意味を聞く前に、岸本さんは店を出ていった。
◇
紙ナプキンに書かれた駅は、目黒から電車で二十分ほどの、小さな商店街のある町だった。
午前だけのシフトの日、サリは午後の眠りを諦めて、電車に乗った。今夜も夜の店がある。眠らずに行けば、明日の朝四時がきつくなる。分かっていたけれど、行かずにはいられなかった。
商店街の端に、その店はあった。
間口が狭くて、木の扉が少し傾いている。ガラス窓の向こうに、パンが並んだ棚が見えた。麦穂の十分の一もない、本当に小さな店。
でも、扉の前に、小学生が三人並んでいた。
「おじさん、今日の顔パンある?」
「あるぞー。今日は怒ってる顔」
「えー、なんで怒ってんの」
「おじさんの朝ごはんを猫に取られたから」
子どもたちが笑った。岸本さんも笑った。
サリは扉の脇に立ったまま、その様子を見ていた。
岸本さんの店のパンは、どれも少しずつ形が違った。顔のパンは一つひとつ表情が違うし、食パンの焼き色もまちまちだ。麦穂のパンのように、どれも同じ高さ、同じ焼き色で揃ってはいない。
でも、棚の前に立つお客さんは、みんな楽しそうだった。
おばあさんが「今日はどれがおすすめ?」と聞くと、岸本さんは「膝の調子どう?」と聞き返す。「よくないねえ」と言われると、「じゃあ、やわらかいのにしよう」と、ちぎりパンを袋に入れる。
サラリーマン風の男の人には、何も聞かずにカレーパンを二つ渡す。男の人は、毎日同じものを買っていくらしかった。
子どもたちが帰ったあと、岸本さんがサリに気づいた。
「おう、来たか。入って」
◇
店の奥の、小さな作業台の前で、岸本さんはコーヒーを淹れてくれた。
「見てただろ。どう思った」
「……楽しそうでした。お客さんが」
「そう」
岸本さんは、うなずいた。
「十年前、俺は楽しく作れば売れると思ってた。自分が楽しいパンを作って、負けた。そりゃそうだよな。お客さんのことなんか、何も見てなかったんだから」
サリは、自分のことを言われている気がした。
「この前、君に言ったこと。あれが分かるまで、ここで毎日お客さんの顔を見て、十年かかった」
岸本さんは、コーヒーをひと口飲んだ。
「でもな、それが分かったって、すぐ売れるわけじゃない。この店も、最初の二年は赤字だった。お客さんの顔が見えるようになるまで、時間がかかるんだよ」
それから、少しだけ遠くを見るような目をした。
「あいつ、元気にしてる?」
誰のことか、聞かなくても分かった。
「尾道さんですか。……はい。毎日、誰より早く来て、誰より遅く帰ってます」
「そうか」
それだけ言って、岸本さんは笑った。少しだけ寂しそうな、でも、どこか安心したような笑い方だった。
「勝負の相手が尾道なら、手強いぞ。あいつは、数字の向こうにちゃんとお客さんを見てる。ただ、それを口にしないだけでね」
◇
帰りの電車のなかで、サリは窓の外を見ながら考えていた。
食べた人が楽しいパン。
自分は、誰に食べてほしいんだろう。
夜の店で聞いた声を思い出した。おばあさんの黒砂糖の蒸しパンを懐かしむ人。朝を抜いて出ていく人。
それから、母の台所を思い出した。祭りの朝のシナモンの匂い。黒っぽくて、少し固くて、どっしりしたパン。ロティ・ガンバン。
あの匂いを嗅いだとき、自分はどんな顔をしていただろう。
きっと、楽しかった。食べる側として、楽しかった。
サリは、窓ガラスに映る自分の顔を見た。目の下に、うっすらと影が出ていた。
作ってみよう。母のパンを。日本で学んだ技術で。
翌朝、サリが岸本さんの店の名前をうっかり口にすると、尾道さんの手が止まった。
「……どこで聞いたの」
「えっと、知り合いから」
尾道さんはそれ以上聞かなかった。でも、その日のバターの折り込みを、一度だけやり直した。
◇
試作は、思ったよりずっと難しかった。
ヤシの砂糖、グラ・ジャワは、アジアの食材を扱う店で手に入った。黒くて固い塊を削ると、黒砂糖よりも柔らかい、どこか花のような甘い匂いが立つ。
それをシナモンと合わせて、生地に巻き込んでいく。
でも、何度焼いても、生地が重くなった。故郷のパンの、どっしりした食感に引っ張られる。ヤシの砂糖の水分と重さに、生地が負けてしまう。
一週間、毎日焼き直して、毎日失敗した。試作の材料代は、夜の店で稼いだお金から出した。夢のために貯めているお金が、少しずつ減っていった。
八日目の朝、サリは工房の奥で生地の配合表を見ている尾道さんの前に立った。
「尾道さん」
尾道さんが顔を上げた。
「生地を、教えてください。重いものを巻き込んでも、ふわふわのままでいられる生地」
言ってから、サリは頭を下げた。
勝負の相手だった。「辞める」と言い合った相手だった。それでも、この人以上にこの店の生地を知っている人はいない。
尾道さんは、しばらく黙っていた。
「何を巻くの」
「ヤシの砂糖と、シナモンです。母のパンなんです」
尾道さんは、配合表を閉じた。
「教える。でも、条件がある」
「はい」
「教えたからって、私は手を抜かない。あなたが強くなるなら、私はもっと強くなる。それでいいなら」
サリは、顔を上げた。尾道さんの目は、まっすぐだった。
「……それで、いいです」
その日の午後、二人は工房に残った。尾道さんは、粉の配合を変え、水分の量を変え、こね上げの温度を変えて、サリに見せた。何も説明せず、ただ手を動かしてみせた。サリが真似すると、「違う」とだけ言って、もう一度やってみせた。
丸めを教わった三年前と、同じだった。
日が暮れる頃、オーブンから出てきたパンは、ふわりと膨らんでいた。ちぎると、黒っぽい蜜の筋が渦を巻いて、シナモンの匂いが工房いっぱいに広がった。
サリは、ひと口食べた。
母の台所の匂いがした。でも、口のなかでほどける柔らかさは、麦穂のものだった。
「……おいしい」
尾道さんも、ひと切れちぎって口に入れた。
何も言わなかった。それから、自分の作業台に戻って、栗とほうじ茶のパンの配合表を開いた。ペンで、何か所も線を引き始めた。
サリは、その背中を見て、少しだけ怖くなった。
◇
蜜のパンが棚に並んだのは、二か月目の初めだった。
サリは、片手で持てる大きさにした。朝を抜いて出ていく人が、歩きながらでも食べられるように。黒砂糖の蒸しパンを懐かしむ人が、一つだけ買って帰れるように。
でも、最初の一週間、蜜のパンはほとんど売れなかった。
黒っぽい見た目のせいだった。お客さんは手に取って、首をかしげて、棚に戻す。焦げているのか、と聞かれたこともあった。ヤシの砂糖と言っても、ぴんとくる人はいなかった。
夕方、売れ残った蜜のパンを、サリは一つずつ袋に詰めた。廃棄の箱に入れるたびに、胸の奥が少しずつ削れていった。
「サリさん、それ、見た目で損してるよ」
リガヤが、隣で言った。悪気のない、まっすぐな声だった。
「中を見せないと。ちぎった断面の写真を、カードに貼るとか」
敵に助言されている。サリは、それがおかしくて、悔しくて、少しだけ嬉しかった。
「……ありがと」
八日目、年配の女の人が、蜜のパンを手に取って、匂いを嗅いだ。
「あら。なんだか、懐かしい匂い」
その人は、一つだけ買っていった。
次の週、同じ人がまた来た。今度は四つ買っていった。孫に食べさせたら、喜んだのだという。その次の週、その人は、友だちを二人連れてきた。
少しずつ、ほんの少しずつ、蜜のパンは棚から減るようになった。
◇
楽しく作る派の三人も、一枚岩ではなかった。
ひなは、サリの話を聞いて、くまパンの顔を小さくした。子どもが一口で食べられる大きさにして、値段も下げた。
でも、久保田さんは変えなかった。
「俺は、息子が喜ぶパンを作る。それが俺の楽しいだ。サリの言う『食べた人の楽しい』ってのは、結局、数字派の言ってることと同じじゃないのか」
休憩室で、久保田さんはそう言った。
「違います。私は――」
「何が違うんだよ。売れるパンを作れってことだろ」
サリは、言い返せなかった。自分でも、まだうまく言葉にできなかった。
久保田さんは、紙コップを握りつぶして、工房に戻っていった。ひなが、困った顔でサリを見た。
久保田さんのパンは、売れていないわけではなかった。息子と同じ年頃の子を連れた親が、毎朝のように買っていく。ただ、その数が、それ以上増えなかった。
同じ派閥のなかで、同じ「楽しい」を信じていたはずなのに、その中身はばらばらだった。
◇
二か月目の結果が、休憩室の壁に貼り出された。
いちばん上は、やはりリガヤの朝のパンだった。
その次に、尾道さんの栗とほうじ茶が上がっていた。配合を変えて、ひとまわり小さくして、焼き上がりの時間を朝と夕方の二回に分けていた。一か月目より、ずっと売れていた。
三番目に、サリの蜜のパンがあった。
派閥の合計では、まだ数字派が上だった。けれど、一か月目にはほぼ倍あった差が、半分ほどまで縮まっていた。
「すごいじゃん、サリさん」
リガヤが、自分のことのように笑った。
村瀬は、紙を見て、手元のノートに何かを書き込んでいた。それから、小さくつぶやいた。
「このペースだと、三か月目、分からないな」
久保田さんは、紙を一瞥しただけで、何も言わなかった。
尾道さんは、紙の前で長く立ち止まっていた。
サリの蜜のパンの数字を、じっと見ていた。その横顔は、喜んでいるようにも、何かを思い出しているようにも見えた。
やがて尾道さんは、何も言わずに工房へ戻っていった。
その背中を見送りながら、サリは思った。
岸本さんが言っていた。尾道さんは、数字の向こうにちゃんとお客さんを見ている、と。
あの人は今、数字の向こうに、誰を見ていたんだろう。
(第3話 了)




