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第2話 数字は嘘をつかない

午前四時。麦穂の裏口のドアを開けると、冷たい空気が頬に触れた。


十一月の朝は、まだ夜と区別がつかない。路地の電柱の明かりの下、ゴミ置き場の脇に、小さな影が座っていた。


猫だった。


灰色と茶色が混ざったような、くすんだ色の毛並み。片耳の先が、少しだけ欠けている。サリが近づくと、猫は逃げもせず、かといって寄ってくるわけでもなく、ただこちらを見上げた。


「おはよう」


サリが言うと、猫はゆっくり瞬きをした。


この猫が裏口に座るようになったのは、ひと月ほど前からだった。オーブンに火が入る時間になると、どこからか現れる。パンの焼ける匂いに寄ってくるのだろう。でも、誰も餌はやらない。柏木さんが「店の前で野良に食べ物をやるな」と決めているからだ。


だから猫は、匂いだけを食べに来る。


それでも毎朝ちゃんと来るのが、サリには少し可笑しかった。


「今日から勝負なんだよ」


猫は答えなかった。尻尾の先が、一度だけぱたりと動いた。


 ◇


新作の発売日、工房はいつもより少しだけ騒がしかった。


店の勝負は、一人一品。三か月でいちばん売れたパンが、看板になる。けれど休憩室の約束は、それとは別だった。楽しく作る派が三人、数字派が三人。派閥ごとに、三か月の売上を合計して比べる。負けた派閥は、店を辞める。柏木さんは、その約束を知らない。


楽しく作る派のもう二人は、サリの仲間だった。


小森ひなは、製菓学校を出て一年目の二十二歳。くまの顔をしたチョコレートのパンを作った。耳の形を整えるのに、毎朝誰より早く来て練習している。


「だって、見た瞬間に『かわいい』って言ってもらえたら、それだけで勝ちじゃないですか」


久保田達也さんは、三十代後半の転職組だ。会社員を辞めて、この店で一から教わった。作ったのは、ソーセージを巻いた、具の多い惣菜パン。


「うちの息子が、これなら朝飯に二個食うんだよ。子どもが喜ぶもんは、大人も喜ぶ」


サリが作ったのは、色とりどりのパンだった。


ピンク、黄色、緑。ビーツやかぼちゃ、ほうれん草の粉を生地に練り込んで、三色の生地を編み込んだ丸いパン。断面を切ると、虹みたいな渦巻きが出てくる。


見ているだけで楽しくなる。作っているあいだ、サリはずっと笑っていた。


数字派の三人は、まるで別の場所で戦っていた。


尾道さんは、店の売上記録を十年分さかのぼって、季節ごとの売れ筋を洗い出した。作ったのは、栗とほうじ茶の小さなパン。原価が低く、焼き時間が短く、一度に多く並べられる。


村瀬航は、大学で統計を学んでから職人に転じた二十代半ばの若手だ。尾道さんの右腕で、売上データを見ているときがいちばん楽しそうな顔をする。作ったのは、何時にどれだけ並べれば売り切れるかまで計算した、シンプルな塩パン。


そしてリガヤは、朝の通勤客を狙った。


目黒川沿いを駅へ向かう人たちが、片手で持って、歩きながら食べられるパン。中にベーコンと卵を巻き込んだ、細長い成形。誰より速く、誰よりきれいに、毎朝六十本を並べた。


「七時十五分から七時四十分のあいだに、三十本はけるはず」


リガヤは開店前、棚を見ながらそう言った。


その日、リガヤのパンは七時三十八分に三十本目が売れた。


 ◇


柏木さんは、その様子を、工房の奥からいつも見ていた。


若手たちが朝早く来て練習し、休憩室で互いの数字をちらちら見て、ときどき言い合いになる。そのたびに、柏木さんは何も言わず、ただ少し嬉しそうに目を細めた。


「店長、止めないんですか」


一度、久保田さんが聞いた。休憩室で、尾道さんとひなが声を荒げたあとだった。


「止めないよ」


柏木さんは、湯のみのお茶をすすった。


「職人はな、張り合ってるうちが一番伸びる。仲良くするのは、腕がついてからでいい」


それだけ言って、工房に戻っていった。


 ◇


一か月目の結果は、休憩室の壁に貼り出された。


柏木さんの手書きの紙だった。六つのパンの名前と、ひと月の売上個数が並んでいる。


いちばん上は、リガヤの朝のパン。次に村瀬の塩パン。三番目に尾道さんの栗とほうじ茶。


その下に、久保田さんの惣菜パン、ひなのくまパン。


そして、いちばん下に、サリの虹のパン。


派閥の合計では、数字派が楽しく作る派のほぼ倍だった。


「……まあ、一か月目だし」


久保田さんが、誰に言うでもなくつぶやいた。ひなは唇を噛んで、紙を見つめていた。


サリは、自分のパンの数字から目が離せなかった。


虹のパンは、見た人がみんな「きれい」と言ってくれた。写真を撮っていく人もいた。それなのに、買われなかった。手に取って、眺めて、棚に戻す人が多かった。


色が派手すぎて、何味か分からない。値段のわりに、お腹がふくれない。


そんな声を、レジの子から聞いていた。


「数字は嘘をつかないね」


村瀬が、悪気なさそうに言った。尾道さんは何も言わなかった。ただ、紙の前で立ち尽くすサリを、一度だけ見た。


その目が、責めているようには見えなかった。


だから、余計につらかった。


休憩室を出るとき、尾道さんが壁の端に貼られた古い写真の前で一瞬足を止めた。十年前の日付が入った一枚。若い職人が二人、粉だらけで笑っていた。


 ◇


その日の午後、サリは眠れなかった。


カーテンを閉めた部屋で、布団にくるまって、天井を見ていた。


楽しく作れば、結果はついてくる。


ずっとそう信じてきた。でも、虹のパンを作っているあいだ、楽しかったのは誰だったのだろう。


自分だ。


お客さんじゃなかった。


――楽しく作れば売れる、っていうのは、売れなかったときの言い訳になるよ。


尾道さんの声が、また聞こえた。


サリは、布団を頭までかぶった。


 ◇


翌朝、裏口の猫はいつもの場所にいた。


サリは「おはよう」と言いかけて、やめた。今日は、言葉が出てこなかった。猫はそれでも、いつもと同じようにゆっくり瞬きをした。


工房に入ると、先に来ていたリガヤが、生地を伸ばしていた。


二人きりだった。オーブンが温まる音だけが響いている。


「サリさん」


リガヤが、手を止めずに言った。


「昨日の、ごめんね。数字の話」


「リガヤが謝ることじゃないよ。勝ったんだから」


「うん。でも」


リガヤは、めん棒を置いた。


「私、負けられないの。お母さんと、弟が三人いて。私が送るお金で、弟たちが学校に行ってる。一番下の弟、来年から大学なんだ」


サリは、何も言えなかった。


「ここを辞めたら、次の店で一から信用を作らなきゃいけない。その間、仕送りが減る。だから、絶対に負けられない」


リガヤは、また笑った。いつもの、明るい笑顔だった。


「私の名前ね、本当はすごく楽しそうな意味なんだよ。なのに、私、ずっと数字ばっかり見てる。変だよね」


意味を聞こうとして、サリはやめた。リガヤが、それ以上話したくなさそうに見えたからだ。


リガヤは生地に戻った。誰より速く、誰よりきれいに。


サリは、自分の台に立った。


リガヤも、稼ぎに来ている。家族のために。


自分と同じだった。そして、自分よりずっと重いものを背負っていた。


 ◇


夜の店に、その日はなじみのない客が来た。


知人らしい男の人に連れられてきた、四十代半ばくらいの人。少し日に焼けていて、指が太く、爪の間に、洗っても落ちきらない白い粉のようなものが残っていた。


サリは、その指を見て、すぐに分かった。


この人、パンを焼く人だ。


「お姉さん、昼は何してるの」


連れの男の人が聞いた。


「パン屋です。成形をしてます」


「へえ。どこの店?」


「麦穂です。目黒川の」


その瞬間、パンの人の手が、グラスの上で少しだけ止まった。


それから、何でもないように、また酒を口に運んだ。


「いい店だね」


それだけだった。


知人の男の人が席を外したとき、サリは、つい勝負の話をこぼしてしまった。虹のパンのこと。最下位だったこと。楽しく作れば売れると思っていたこと。


パンの人は、黙って聞いていた。


それから、グラスを置いて、静かに笑った。


「楽しいっていうのはね、自分が楽しいことじゃないんだよ」


サリが顔を上げると、パンの人はもう、別の話をしていた。故郷の話。サリの生まれた町では、どんなお菓子を食べるのか。


サリは、少し考えてから答えた。


「茶色いパンがあります。ヤシの砂糖と、シナモンの。お母さんが、よく焼いてくれた」


言いながら、口のなかに、あの甘さがふっとよみがえった。黒っぽくて、少し固くて、どっしりしたパン。祭りの朝、台所いっぱいにシナモンの匂いが広がった。


「いいね。それ、食べてみたいな」


パンの人は、名前を言わずに帰っていった。


閉店後、サリは店の裏口に出て、夜の空気を吸った。


ヤシの砂糖と、シナモン。


その匂いを、まだ口のなかに探していた。


(第2話 了)

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