第1話 棚のいちばん上
午前四時の工房は、まだ夜の続きの色をしている。
けれどオーブンに火が入ると、その色は少しずつ溶けていく。鉄の扉の奥で熱がうなり、粉の匂いが空気に混ざる。サリはこの瞬間が好きだった。眠っている街のなかで、自分たちだけが先に朝を作っている気がするから。
「サリ、クロワッサン、三番の台ね」
「はーい」
返事をして、冷蔵庫から生地を出す。一晩寝かせたバターの層が、薄い板のなかで静かに重なっている。めん棒で伸ばし、細長い二等辺三角形に切り分ける。底辺に小さく切れ込みを入れて、両手のひらで転がすように巻いていく。
くるり、くるり。
巻き終わりを下にして天板に並べると、小さな三日月が一つ増える。サリはこの工程を、店に入って三年目でようやく任された。最初の一年は、ひたすら計量と洗い物だった。二年目に丸めと仕込みを教わって、三年目に成形の台に立った。今では生地の仕込みからオーブンの火加減まで、一通りは任せてもらえる。それでも、いちばん好きで、いちばん得意なのは、この成形だった。
インドネシアから来た、日本語もたどたどしかった自分に、ここの人たちは何も省かずに教えてくれた。
ベーカリー麦穂。目黒川沿いで四十年続く、雑誌に何度も載った店だ。朝七時の開店前から行列ができる日もある。それでも店主の柏木さんは、面接で一つしか聞かない。
――パン、好きですか。
サリは「好きです」と答えた。それだけで採用された。
「サリさん、角度、少し寝てる」
隣の台から、明るい声が飛んでくる。
リガヤだった。フィリピンから来て二年目の、サリより四つ年下の女の子。彼女はサリの天板をちらりと見て、自分の生地を巻きながら笑った。
「切れ込みの角度。あと二度くらい立てると、焼いたとき、もっと膨らむよ」
「二度って。分度器持ってきてる?」
「目で分かるでしょ」
そう言うリガヤの手元を、サリは見てしまう。
速い。そして、きれいだった。彼女の巻いたクロワッサンは、どれも同じ高さ、同じ巻き数、同じ傾きで並んでいる。まるで機械で作ったみたいなのに、ちゃんと手で作った温かさがある。
サリは、自分の手が器用だと思っていた。子どもの頃から、母の手伝いで葉っぱを編んで籠を作り、祭りの飾りを誰より早く仕上げた。この店に来てからも、成形は得意な仕事のはずだった。
でも、リガヤが来てから、それは「得意」から「普通」になった。
悔しい。
なのに、見とれてしまう。それがもっと悔しかった。
「……ありがと。二度ね」
「うん。サリさんのは、巻きがやわらかいから、食べるとおいしいんだよ。形だけ整えたら最強」
リガヤは本気でそう言っている。そういう子だった。若くて、頭がよくて、明るくて、誰にでも優しい。スタイルもよくて、笑うと店の空気が軽くなる。
ただ一つ、数字の話になると、彼女の目は変わる。
◇
その日の昼過ぎ、柏木さんが工房の全員を集めた。
白い髭を短く整えた、七十近い店主は、粉で白くなった手を前掛けで拭きながら言った。
「来年、店が四十周年になる。それに合わせて、看板のパンを一つ新しく作りたい」
ざわ、と空気が動いた。
「希望者は一品ずつ考えてくれ。来月から三か月、店頭に並べる。毎月の売上で比べて、いちばん売れたものを看板にする」
柏木さんは、店の正面の棚を指さした。ガラス越しに見える、いちばん上の段の真ん中。今は、創業から変わらない食パンが置かれている場所だ。
「勝ったパンは、あそこに置く。プライスカードには、作った人の名前を入れる」
サリは息をのんだ。
あの棚に、名前が載る。
この店のパンには、作った人の名前は書かれない。全部が「麦穂のパン」だ。それが例外になる。四十年で初めて。
「やります」
サリは、自分でも驚くほど早く手を挙げていた。
◇
休憩室は、オーブンの熱が届かない分、少しだけ肌寒い。
「楽しく作ったパンは、ちゃんとお客さんに伝わると思うんです」
サリがそう言ったのは、紙コップのコーヒーを手に、みんなで新作の話をしていたときだった。
「作ってる人が楽しいと、パンも楽しい顔になる。そういうのって、売上にもちゃんと出ますよ」
「出ないよ」
静かな声だった。
尾道紗矢香さん。この店で二十年パンを焼いている、製造の柱。四十代半ばで、口数は少なく、手は誰よりも確かだ。サリに丸めを一から教えてくれたのも、この人だった。
「楽しいかどうかは、お客さんには関係ない。原価と、焼き上がりの時間と、何時にどれだけ並べるか。売れるパンは、そこで決まる」
「でも、尾道さんだって、楽しいからパン焼いてるんですよね」
「楽しいのは、私の勝手」
尾道さんは紙コップを置いた。
「サリ。楽しく作れば売れる、っていうのは、売れなかったときの言い訳になるよ」
胸の奥に、細い針が刺さった気がした。
言い返そうとして、言葉が出てこない。そのすきまに、ほかの若手が口を挟む。楽しく作る派の子たちと、尾道さんの考えに近い子たち。話はいつの間にか、パンのことから、店での立ち位置や、誰が誰を認めていないかという話に広がっていった。
「ねえ、やめよう」
リガヤが、両手を軽く上げて間に入った。
「みんな、いいパン作りたいだけでしょ。ケンカしなくても――」
「リガヤは、どっちなの」
誰かが聞いた。
リガヤは少しだけ黙って、それから、困ったように笑った。
「私は、数字だと思う。ごめん、サリさん」
それで決まってしまった。
言葉は坂道を転がるように速くなって、最後には、誰が言い出したのかも分からない約束が、テーブルの上に置かれていた。
――負けたほうは、この店を辞める。
冗談で終わるはずだった。誰かが笑って取り消せば、それで済んだ。
でも、誰も笑わなかった。
みんな、ここに稼ぎに来ている。夢を持って来ている。負けたから別の店で働きます、と言えるほど、ここに賭けた時間は軽くなかった。
◇
午前だけのシフトを終えて、サリはアパートに帰った。
大崎の、駅から少し歩いた古い二階建て。サリの部屋は一階だ。
廊下の奥から、男の人が歩いてくる。同じ一階に住んでいる人だった。三十代くらいで、いつも同じような灰色の上着を着ている。名前は知らない。
「こんにちは」
サリが言うと、男の人は小さく会釈した。
「こんにちは」
それだけ。すれ違ったあと、男の人が一瞬だけこちらを振り返った気配がした。サリの顔に、何か出ていたのかもしれない。でも、男の人は何も聞かずに外へ出ていった。
サリはそれが、少しだけありがたかった。
部屋に入って、カーテンを閉める。午後は眠る時間だ。夜の仕事の前に、ここで体を休めておかないと、明日の朝四時に起きられない。
けれど、目を閉じても、尾道さんの声が耳の奥で鳴っていた。
――売れなかったときの言い訳になるよ。
サリは、寝返りを打った。
◇
夜の店は、昼の工房とは逆に、街が眠る頃にいちばん明るくなる。
サリはここで、週に四日働いている。お酒を出して、話を聞いて、笑う。それが仕事だ。
その夜、カウンターの端に座った年配のお客さんが、グラスを傾けながらぽつりと言った。
「サリちゃんの国にも、甘いお菓子ってあるの」
「ありますよ。いっぱい」
「そうか。俺は、田舎のばあちゃんが焼いた、黒砂糖の蒸しパンが好きでさ。もう誰も作ってくれないけどな」
お客さんは、何でもないことのように笑った。
サリは「そうなんですね」と返しながら、胸のどこかが小さく動くのを感じた。何かが、形になりかけた。でも、それが何なのか、まだ分からなかった。
◇
店が閉まったのは、深夜一時を回った頃だった。
アパートに戻ると、廊下の明かりが一つだけ点いている。郵便受けの前で、サリは足を止めた。
金属の小さな扉に、白いシールが一枚。そこに、自分で書いた名前がある。
SARI。
四文字だけ。名字はない。ジャワでは珍しいことじゃないのに、日本に来てから、書類のたびに「名字の欄は」と聞かれてきた。そのたびに、自分の名前が半分しかないような気がした。
サリという名前には、「精髄」とか「花の蜜」という意味がある。母がつけてくれた名前だ。
日本で、自分のパン屋を開く。そこで大きくなって、いつか故郷に帰って、もう一つ店を開く。母に、村のみんなに、日本で学んだパンを食べてもらう。
そのために、昼も夜も働いている。そのために、お金を貯めている。
麦穂を辞めたら、その夢から一歩遠ざかる。ここで学べることは、まだたくさんある。尾道さんからも、リガヤからも。
サリは、郵便受けの名前を指でなぞった。
この名前を、あの棚のいちばん上に。
誰にも聞こえない声で、そう言った。
(第1話 了)




