エピローグ 頂点
翌朝、開店の一時間前に、柏木さんが六人を売り場に呼んだ。
まだ照明の半分しか点いていない売り場は、工房よりずっと静かだった。ガラスの向こうの目黒川沿いは、まだ暗い。
柏木さんは、正面の棚の前に立っていた。いちばん上の段の真ん中には、創業から変わらない食パンが置かれている。
柏木さんは、その食パンを下ろした。それから、棚の最上段の板に両手をかけて、ゆっくり持ち上げた。
板は、思ったより簡単に外れた。
柏木さんは、それを裏返して、六人の前の作業台に置いた。
誰も、声を出さなかった。
板の裏には、小さな字が、びっしりと彫られていた。
名前だった。何十もの名前。一つひとつの横に、年と月が添えられている。いちばん古いものは、字が浅くなって、指でなぞらないと読めないほどだった。
「巣立っていった連中の名前だ」
柏木さんが言った。
「この店を出て、自分の店を持ったやつ。よその店で腕を振るってるやつ。パンをやめて、別の道に行ったやつもいる。ここを出ていく日に、一人ずつ呼んで、これを見せて、目の前で彫った。見せられたやつは、誰にも言わない。それが決まりだ」
尾道さんが、板を見下ろしていた。その顔から、血の気が引いていた。
「……知りませんでした。二十年いて、一度も」
「そりゃそうだ。お前は、一度も出ていかなかったからな」
柏木さんは、少しだけ笑った。
◇
「頂点ってのはな」
柏木さんは、板の表を指でとんとんと叩いた。毎朝、創業の食パンが置かれている場所だ。
「上に立つことじゃない。ここに名前を残すことだ。表には、パンが載る。裏には、そのパンを焼いてきたやつの名前がある。この店の頂点は、四十年、ずっと裏側にあった」
サリは、板の裏の名前を、一つずつ目で追っていた。
その中ほどで、目が止まった。
岸本透。
十年前の、冬の日付。
尾道さんも、同じ名前を見ていた。手を伸ばして、その字を指先でなぞった。
「……岸本」
「あいつはな、負けて逃げたんじゃない」
柏木さんの声は、静かだった。
「勝負のあと、あいつは辞めると言いに来た。負けたからじゃない。お前の焼くパンを見て、自分はここにいたら一生お前の後ろだと思ったんだと。だから俺は言った。後ろにいるのが嫌なら、自分の店を出せ。お前の楽しいは、お客さんの顔が見える小さな店で生きるって」
尾道さんの指が、名前の上で止まった。
「あいつは、そうした。それだけだ。お前に置いていかれたんじゃない。お前に背中を押されて、巣立っていったんだ」
尾道さんは、何も言わなかった。
名前の上に指を置いたまま、長いあいだ、動かなかった。
サリは、その横顔を見ないようにした。見てはいけない気がした。
◇
柏木さんは、前掛けのポケットから、小さな布の包みを取り出した。
開くと、古い彫刻刀が一本入っていた。柄の木が、手の脂で黒く光っている。
柏木さんは、それを尾道さんの前に置いた。
「これからは、お前が彫れ」
尾道さんが、顔を上げた。
「俺はまだ店に立つ。オーブンの前からどくつもりはない。だがな、これはもう、お前の仕事だ」
尾道さんは、彫刻刀を見つめていた。
「負けたほうが辞める、ってのを聞いたとき、止めようかとも思った」
柏木さんは、六人の顔を順に見た。
「だがな、辞めると言い出したやつを、本当に追い出す気なんか、ここの誰にもないのは分かってた。十年前と同じだ。怖いのは負けることじゃない。勝ったあと、どうするかだ。それを、お前たちに自分で決めてほしかった」
「もし、本当に誰かが辞めると言ったら?」
村瀬が聞いた。
「そのときは、俺がこの板を見せて、名前を彫ってやるつもりだった。追い出すんじゃない。送り出すんだ」
柏木さんは、少しだけ目を伏せた。
「……正直に言うとな、リガヤの母親のことは計算外だった。サリが夜を休んでまで焼くとも思ってなかった。あれを見て、止めなかったのが正しかったのか、今でも分からん」
「最初の仕事だ」
柏木さんは、板の右端を指さした。巣立った職人たちの名前の列とは、少し離れた余白。
「ここに、お前たち六人の名前を彫れ。辞めるやつはいない。だから巣立ちの列じゃない。ここで本気で競ったやつの名前として、端に残す」
◇
最初に彫ったのは、尾道さんだった。
自分の名前を、自分の手で。尾道紗矢香。迷いのない、まっすぐな線だった。
それから、彫刻刀を一人ずつに渡した。
村瀬は、名前を彫り終えたあと、その横に小さく数字を彫ろうとして、尾道さんに手をはたかれた。
「数字は要らない」
「……つい、癖で」
ひなは、名前の最後に、こっそり小さなくまの耳を二つ彫った。誰も気づかないくらい小さく。尾道さんは気づいていたが、何も言わなかった。
久保田さんは、彫刻刀を握る手に力が入りすぎて、一画目が深くなりすぎた。
「会社員時代は、ハンコ押すだけだったからな」
そう言って、照れくさそうに笑った。
リガヤの番が来た。
リガヤは、カタカナで自分の名前を彫り始めた。リ、ガ、ヤ。一画ずつ、ゆっくりと。成形と同じくらい、きれいな線だった。
彫りながら、リガヤが、隣のサリにだけ聞こえる声で言った。
「リガヤってね、喜びって意味なんだ」
サリは、リガヤの横顔を見た。
一か月目の結果が出た翌朝、二人きりの工房で、リガヤは言っていた。本当はすごく楽しそうな意味なんだよ、と。
「私の国の言葉で、喜び。お母さんがつけてくれた。なのに、私、ずっと数字ばっかり見てた。名前、裏切ってるなって思ってた」
リガヤは、最後の画を彫り終えた。
「でも、今週、サリさんたちが私のパンを焼いてくれたって聞いて、思ったの。誰かの朝が楽しく始まるなら、私の数字も、喜びだったのかもしれないって」
彫刻刀が、サリの手に渡された。
「サリは?」
リガヤが聞いた。
「サリは、花の蜜。精髄って意味もあるけど、お母さんは、蜜のほうで呼んでた」
「蜜のパンだ」
リガヤが、笑った。いつもの明るい笑顔じゃなかった。少しだけくしゃっとした、子どもみたいな笑い方だった。
サリは、リガヤの名前のすぐ隣に、彫刻刀を当てた。
S、A、R、I。
四文字だけ。名字はない。
日本に来てから、書類のたびに、自分の名前が半分しかないような気がしていた。でも、板の上の四文字は、ちっとも足りなく見えなかった。喜びの隣の、蜜。それで十分だった。
彫り終えて顔を上げると、リガヤがこちらを見ていた。
「ねえ、サリ」
初めて、さんがつかなかった。
「来月の勝負、私が勝つからね」
「負けないよ、リガヤ」
二人は、同時に笑った。
◇
板は、元の場所に戻された。
いちばん上の段の真ん中には、創業の食パン。その両脇に、蜜のパンと、リガヤの朝のパンが並んだ。
プライスカードに、作った人の名前は入らなかった。
柏木さんが、そう決めた。名前は、裏にあるからだ。
◇
数週間が過ぎた。
休憩室の壁には、もう売上の紙は貼られていなかった。かわりに、付箋だらけの紙が一枚。来月の新作の相談メモだった。
ひなの字で「春っぽいの!」。久保田さんの字で「息子が苺がいいって」。村瀬の字で、細かい原価の計算。
その前で、尾道さんと村瀬が、サリの新しい試作の配合表をのぞき込んでいた。
「グラ・ジャワ、もう少し減らせば原価が下がる」
「減らしたら、蜜の味が弱くなります」
「だから、シナモンを増やして、甘さを錯覚させる。……何、その顔」
「尾道さん、楽しそうだなと思って」
尾道さんは、眉をしかめた。でも、口の端が少しだけ上がっていた。
◇
二月の終わりの、晴れた朝だった。
開店から少し経った頃、店の扉が開いた。
入ってきたのは、少し日に焼けた、指の太い男の人だった。
岸本さんだった。
岸本さんは、まっすぐ正面の棚へ歩いていった。いちばん上の段を、しばらく見上げていた。
それから、蜜のパンを一つ、トングで取った。
レジに向かう途中、工房のドアが開いた。
粉だらけの前掛けをした尾道さんが、天板を抱えて出てきた。
二人の目が、合った。
十年ぶりだった。
売り場の空気が、一瞬だけ止まった気がした。サリは、工房の奥から、その様子をのぞいていた。
岸本さんが、先に口を開いた。
「元気そうだな」
「そっちこそ」
それだけだった。
尾道さんは、天板の上のパンを棚に並べ始めた。岸本さんは、レジで蜜のパンの代金を払った。
扉に手をかけたところで、背中に声がかかった。
「岸本」
岸本さんが、振り返った。
尾道さんは、パンを並べる手を止めずに言った。
「また来なさいよ。新作、出すから」
岸本さんは、少しだけ目を見開いた。それから、十年分を全部ほどくみたいに、笑った。
「おう。食いに来る」
扉が閉まった。
尾道さんは、しばらく棚に向かったまま動かなかった。それから、天板を抱えて、何も言わずに工房へ戻っていった。
◇
昼の休憩の少し前、工房で生地を丸めていると、隣の台に尾道さんが立った。
「サリ」
「はい」
「あいつ、なんで蜜のパンを知ってたの」
手が止まった。
尾道さんは、こちらを見ずに生地をこねていた。でも、答えを待っているのは分かった。
サリは、少しだけ迷った。それから、正直に話すことにした。
「私、夜は別のお店で働いてるんです。お酒を出すお店で。そこに、岸本さんが来たことがあって」
尾道さんの手が、一瞬だけ止まった。
「最初は、知り合いの人に連れられて来てて。私が麦穂で働いてるって言ったら、それで。勝負の話も、そこで聞いてもらいました。お店にも、一度行きました」
尾道さんは、しばらく黙っていた。
それから、生地をこね直しながら、ぽつりと言った。
「……岸本、そういう店に行くのね」
声の温度が、ほんの少しだけ低かった。
サリは、慌てて付け足した。
「あの、連れられて来ただけで。二回目は一人でしたけど、勝負のことが気になったって。ずっと、尾道さんの話ばっかりで」
言ってから、余計なことを言ったと気づいた。
尾道さんの手が、また止まった。
「……私の話?」
「あ、いえ、その。元気にしてるかって。それだけです」
尾道さんは、何も言わなかった。生地を丸める手が、さっきより少しだけ雑になった。耳の先が、ほんのり赤かった。
サリは、見なかったことにした。
しばらくして、尾道さんがまた口を開いた。今度は、さっきとは違う、静かな声だった。
「夜も働いてるのは、何のため」
「自分の店を開くためです。日本で。それで、いつか国でも、もう一つ」
尾道さんは「そう」とだけ言って、丸め終えた生地を天板に並べた。
それきり、その話はしなかった。
次の朝、サリの作業台の上に、一枚の紙が置かれていた。
手書きの配合表だった。麦穂の食パンの。粉の銘柄、水の温度、こね上げの時間、発酵の見極め方。余白には、細かい字で書き込みがびっしりあった。何年もかけて、少しずつ足していったような字だった。
名前は書いていなかった。でも、誰の字かは、すぐに分かった。
工房の奥で、尾道さんは、何事もなかったようにオーブンの火を見ていた。
◇
それから何日かたった朝、午前四時。
裏口のドアを開けると、冷たい空気が頬に触れた。でも、一月ほどの鋭さはもうなかった。どこかで、春の気配がしていた。
路地の電柱の明かりの下に、小さな影が座っていた。
欠けた片耳。くすんだ色の毛並み。
「おはよう」
サリが言うと、猫はゆっくり瞬きをした。
それから、立ち上がった。尻尾を一度だけ揺らして、路地の奥へ歩き出した。
いつもなら、オーブンに火が入るまでここに座っているのに。今朝は、どこかへ行くらしかった。
猫は、一度も振り返らなかった。電柱の明かりの外に出て、まだ暗い街のなかへ、ゆっくりと消えていった。
どこへ行くのかは、誰も知らない。
サリは、その背中が見えなくなるまで見送って、工房のドアを開けた。
オーブンに火が入る。粉の匂いが、空気に混ざる。
眠っている街のなかで、また、朝を作り始める。
(了)




