第9話
ランバート男爵として胸を張っていた頃の面影は、目の前の男のどこにも残っていなかった。
外套の裾は泥にまみれ、伸び放題の髭がこけた頬を覆っている。熱に浮かされたような目だけが、ヴィヴィアンをとらえて離さない。
「頼む、逃げないでくれ」
ジュリアンは震える手を差し出し、すがるように一歩踏み出してきた。握りしめた拳の中に、石段で拾ったあの銀の指輪が見えた。
「全部、君の言うとおりだった。イレーヌは私を騙していたんだ。私の気持ちを利用して金を引き出して、他の男に乗り換えようとしていた。あの女は、私のことなど少しも考えていなかった!」
ちょうど外乗から戻ってきた会員たちが、馬を引いたまま足を止めた。顔見知りの子爵夫人が、扇の陰で連れの夫人に何か耳打ちしている。
ジュリアンは気づかないのか、気づいても構っていられないのか、言葉を継いだ。
「君が出ていってから、屋敷は冷え切ったままだ。料理番も従僕も辞めた。財務局からは、もう来なくていいと言われた。持参金を返すために、町屋敷も手放すことになる。馬車も、もうない。社交界では、妻の形見を初恋の女に貢いだ男だと笑われて、どこの屋敷の門も開かない」
ジュリアンの声が上ずった。
「君がどれほど私のためにしてくれていたか、失って初めて分かったんだ。ショールも質屋から戻ったんだろう? だったら、もう怒る理由はないはずだ。戻ってきてくれ! 今度こそ、君を本当の妻として愛してやる。白い結婚も終わりにしてやる。一からやり直そう!」
会員たちのあいだに、失笑とも溜め息ともつかないざわめきが走った。
ヴィヴィアンは、その必死の叫びを黙って聞いていた。
怒りも憎しみも、湧いてこない。あれほど自分を縛り、息を詰まらせていた男が、今はひどく小さく見えた。
「ジュリアン様」
冬の水のように、静かな声が出た。
「あなたは今でも、私を見ていらっしゃらないのですね」
「な、何を言う。見ている! こうして君だけを迎えに来たじゃないか!」
「いいえ。あなたが欲しいのは、私ではありません」
ヴィヴィアンは首を横に振った。
「火の消えた屋敷。辞めていった使用人。閉ざされた門。今あなたが並べたのは、全部、あなたがなくしたものの話です。私が何をなくしたかは、ひとつもおっしゃらなかった」
ジュリアンの口が、ぽかんと開いた。
「あなたが取り戻したいのは、文句も言わずに家を回してくれた、便利な妻という役目です。それに『愛してやる』『終わりにしてやる』。愛は上から施してやるものだと、今でも信じて疑っていらっしゃらない。その傲慢さに、私はもう付き合えません」
「ち、違う! 私は君を愛そうと」
「ショールが戻ったのだから、怒る理由はない。そうおっしゃいましたね」
ヴィヴィアンは、元夫の目をまっすぐに見た。
「戻ってきたのは、ショールだけです。あなたが持っていった私の二年間は、どこの質屋にも置いてありません」
ジュリアンの顔が、くしゃりと歪んだ。
「私の人生は、もう私の手の中にあります。そこに、あなたの入る隙間はありません」
「ヴィヴィアン……! 見捨てるのか、私を見捨てるのか!」
「見捨てるのではありません。私たちは教会の裁きを経た、赤の他人です。ご自分の不誠実が招いた結果とは、どうかお一人で向き合ってください」
それだけ言って、ヴィヴィアンは背を向けた。
「待ってくれ! 頼む、ヴィヴィアン!」
追いすがろうとしたジュリアンの前に、木柵の内側から、屈強な厩務員が二人進み出た。
「そこまでだ、旦那。これ以上このお嬢さんに付きまとうなら、憲兵を呼ぶぜ」
腕を組んで立ちはだかる二人の前で、ジュリアンの膝が折れた。冷たい泥の上に両手をつき、うなだれたまま動かなくなる。
「まあ……あれが、ランバート男爵?」
「ほら、形見の。あの話の」
ひそひそと交わされる声が、うずくまった背中に降りかかった。
ヴィヴィアンは一度も振り返らなかった。砂利を踏む自分の足音だけを聞きながら、クラブの敷地へ引き返した。
胸の中は、驚くほど澄んでいた。
あれほど怖かった元夫の怒鳴り声も、すがりつく声も、もう通り過ぎる風の音と変わらない。自分は本当に、あの人から自由になったのだ。
そう思ったとたん、さっき丘の上で見たレオの硬い横顔が、目の前に浮かんだ。
『俺の夢に、貴女を巻きこむわけにはいかない』
身分と暮らしの違いを理由に、自分から身を引こうとした人。こちらの名前を守るために、自分の気持ちを押し殺して線を引いた、不器用な人。
(来週だなんて、嘘だわ)
ヴィヴィアンは足を速めた。
ノクスの馬房の前に積まれていた木箱。その上に載っていた鞍と道具箱。今日の外乗を最後に引き受けた、という言葉。
あの人は、来週なんて待たない。気まずく別れた今日のうちに、黙って王都を出ていくつもりだ。
胸騒ぎが確信に変わって、ヴィヴィアンは長靴で地面を蹴った。
翻すドレスの裾もない。締めつけるコルセットもない。自分の足で、自分の呼吸で、冬の冷気を切って走る。
厩舎の母屋を回りこみ、裏手の通用口へ駆け抜けた。
思ったとおり、そこには頑丈な幌馬車が一台停まっていた。
二頭の荷馬の後ろに、鞍を外したノクスがつながれている。旅支度を整えたレオが、荷台に積んだ飼い葉桶や木箱を、太い麻縄で締め上げているところだった。
「レオさん!」
息を切らした声に、麻縄を引くレオの手が止まった。
ゆっくりと振り返ったその目が、大きく見開かれる。
「ヴィヴィアン様? なんで、まだここに……さっき、お帰りになったんじゃ」
「あなたが、今日のうちに出ていこうとしているからです!」
肩で息をしながら、ヴィヴィアンは一歩ずつ、馬車のそばへ歩み寄った。
「来週の頭とおっしゃいましたね。なのに、荷物はもう全部積み終わっているじゃありませんか。私に何も言わずに、逃げるように行ってしまうつもりだったんでしょう」
レオは気まずそうに目をそらし、麻縄の端を固く結び直した。
「……逃げるわけじゃありません。長くいれば、未練が残るだけだから」
「未練、ですか」
「ええ、そうですよ!」
レオは縄から手を離し、苦しげに顔をゆがめてヴィヴィアンに向き直った。
「未練です。貴女の笑った顔を見るたびに、声を聞くたびに、俺みたいな者が持っちゃいけない欲が出てくる。この腕で抱きしめたいとか、このまま連れていってしまいたいとか。……だから、これ以上そばにいちゃいけないんです。俺は一代限りの、俸禄もない騎士だ。持ってるのは馬を育てる腕と、北の荒れた土地の手付けだけです。伯爵家のお嬢様に、贅沢な暮らしも、華やかな社交界も、何ひとつ用意してやれない!」
吐き出された本音は、痛いほどまっすぐだった。
自分を卑下しているのではない。自分の手にあるものと、ヴィヴィアンのこれからを秤にかけて、彼女の側を重く見た。それだけの拒絶だった。
ヴィヴィアンは、そっと胸に手を当てる。
その不器用な誠実さに触れて、胸の底に残っていた最後のためらいが、日の当たった霜のように溶けていった。
「レオさん」
穏やかに呼んで、もう一歩、近づく。
二人のあいだには、冬の風と、馬たちの白い息だけが流れていた。
「私は伯爵家の娘ですから、華やかな社交界も、贅沢な調度に囲まれた暮らしも知っています。でも、あの白い寝室で私が味わったのは、凍えるような寂しさだけでした」
ヴィヴィアンは両手を持ち上げ、レオの目の前で開いて見せた。
もう、白くなめらかなだけの手ではない。手綱を握り、馬の毛を梳いて、指のつけ根に小さな豆ができた。爪の際には、落ちきらない土が残っている。
「私が生きていると思えたのは、あなたに手綱を教わったときです。冷たい風の中を、シエロと一緒に走ったときだけでした」
「ヴィヴィアン様……」
「誰かに生き方をあてがわれて、守られるだけの令嬢に戻るつもりはありません。私の手綱を引いて、行き先を勝手に決めるような殿方は、もう金輪際要りません」
顎を引いて、レオの琥珀色の目を正面から見る。
「でも、隣を並んで走ってくれる人なら、欲しいんです」
「……え?」
「北の土地が雪に閉ざされて、寒くて泥だらけだと言うのなら、私も一緒に泥にまみれます。頑丈なことを、私はもう恥ずかしいとは思いません。馬の世話も、毎日の暮らしも、自分の手で支えてみせます」
胸を張って、はっきりと言った。
「私の手綱は、私が握ります。……私の隣を並んで走る覚悟が、あなたにありますか。レオナルド・ヴァンス」
冬晴れの空の下、あたりの音がすべて止まったようだった。
レオは雷に打たれたように立ち尽くし、信じられないものを見るように、目の前の人を見つめている。
その手から、麻縄の端がぱさりと落ちた。




