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初恋を引きずる夫を残し、私は趣味に生きます  作者: 九葉(くずは)


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9/10

第9話

 ランバート男爵として胸を張っていた頃の面影は、目の前の男のどこにも残っていなかった。


 外套の裾は泥にまみれ、伸び放題の髭がこけた頬を覆っている。熱に浮かされたような目だけが、ヴィヴィアンをとらえて離さない。


「頼む、逃げないでくれ」


 ジュリアンは震える手を差し出し、すがるように一歩踏み出してきた。握りしめた拳の中に、石段で拾ったあの銀の指輪が見えた。


「全部、君の言うとおりだった。イレーヌは私を騙していたんだ。私の気持ちを利用して金を引き出して、他の男に乗り換えようとしていた。あの女は、私のことなど少しも考えていなかった!」


 ちょうど外乗から戻ってきた会員たちが、馬を引いたまま足を止めた。顔見知りの子爵夫人が、扇の陰で連れの夫人に何か耳打ちしている。


 ジュリアンは気づかないのか、気づいても構っていられないのか、言葉を継いだ。


「君が出ていってから、屋敷は冷え切ったままだ。料理番も従僕も辞めた。財務局からは、もう来なくていいと言われた。持参金を返すために、町屋敷も手放すことになる。馬車も、もうない。社交界では、妻の形見を初恋の女に貢いだ男だと笑われて、どこの屋敷の門も開かない」


 ジュリアンの声が上ずった。


「君がどれほど私のためにしてくれていたか、失って初めて分かったんだ。ショールも質屋から戻ったんだろう? だったら、もう怒る理由はないはずだ。戻ってきてくれ! 今度こそ、君を本当の妻として愛してやる。白い結婚も終わりにしてやる。一からやり直そう!」


 会員たちのあいだに、失笑とも溜め息ともつかないざわめきが走った。


 ヴィヴィアンは、その必死の叫びを黙って聞いていた。


 怒りも憎しみも、湧いてこない。あれほど自分を縛り、息を詰まらせていた男が、今はひどく小さく見えた。


「ジュリアン様」


 冬の水のように、静かな声が出た。


「あなたは今でも、私を見ていらっしゃらないのですね」


「な、何を言う。見ている! こうして君だけを迎えに来たじゃないか!」


「いいえ。あなたが欲しいのは、私ではありません」


 ヴィヴィアンは首を横に振った。


「火の消えた屋敷。辞めていった使用人。閉ざされた門。今あなたが並べたのは、全部、あなたがなくしたものの話です。私が何をなくしたかは、ひとつもおっしゃらなかった」


 ジュリアンの口が、ぽかんと開いた。


「あなたが取り戻したいのは、文句も言わずに家を回してくれた、便利な妻という役目です。それに『愛してやる』『終わりにしてやる』。愛は上から施してやるものだと、今でも信じて疑っていらっしゃらない。その傲慢さに、私はもう付き合えません」


「ち、違う! 私は君を愛そうと」


「ショールが戻ったのだから、怒る理由はない。そうおっしゃいましたね」


 ヴィヴィアンは、元夫の目をまっすぐに見た。


「戻ってきたのは、ショールだけです。あなたが持っていった私の二年間は、どこの質屋にも置いてありません」


 ジュリアンの顔が、くしゃりと歪んだ。


「私の人生は、もう私の手の中にあります。そこに、あなたの入る隙間はありません」


「ヴィヴィアン……! 見捨てるのか、私を見捨てるのか!」


「見捨てるのではありません。私たちは教会の裁きを経た、赤の他人です。ご自分の不誠実が招いた結果とは、どうかお一人で向き合ってください」


 それだけ言って、ヴィヴィアンは背を向けた。


「待ってくれ! 頼む、ヴィヴィアン!」


 追いすがろうとしたジュリアンの前に、木柵の内側から、屈強な厩務員が二人進み出た。


「そこまでだ、旦那。これ以上このお嬢さんに付きまとうなら、憲兵を呼ぶぜ」


 腕を組んで立ちはだかる二人の前で、ジュリアンの膝が折れた。冷たい泥の上に両手をつき、うなだれたまま動かなくなる。


「まあ……あれが、ランバート男爵?」


「ほら、形見の。あの話の」


 ひそひそと交わされる声が、うずくまった背中に降りかかった。


 ヴィヴィアンは一度も振り返らなかった。砂利を踏む自分の足音だけを聞きながら、クラブの敷地へ引き返した。




 胸の中は、驚くほど澄んでいた。


 あれほど怖かった元夫の怒鳴り声も、すがりつく声も、もう通り過ぎる風の音と変わらない。自分は本当に、あの人から自由になったのだ。


 そう思ったとたん、さっき丘の上で見たレオの硬い横顔が、目の前に浮かんだ。


『俺の夢に、貴女を巻きこむわけにはいかない』


 身分と暮らしの違いを理由に、自分から身を引こうとした人。こちらの名前を守るために、自分の気持ちを押し殺して線を引いた、不器用な人。


(来週だなんて、嘘だわ)


 ヴィヴィアンは足を速めた。


 ノクスの馬房の前に積まれていた木箱。その上に載っていた鞍と道具箱。今日の外乗を最後に引き受けた、という言葉。


 あの人は、来週なんて待たない。気まずく別れた今日のうちに、黙って王都を出ていくつもりだ。


 胸騒ぎが確信に変わって、ヴィヴィアンは長靴で地面を蹴った。


 翻すドレスの裾もない。締めつけるコルセットもない。自分の足で、自分の呼吸で、冬の冷気を切って走る。


 厩舎の母屋を回りこみ、裏手の通用口へ駆け抜けた。




 思ったとおり、そこには頑丈な幌馬車が一台停まっていた。


 二頭の荷馬の後ろに、鞍を外したノクスがつながれている。旅支度を整えたレオが、荷台に積んだ飼い葉桶や木箱を、太い麻縄で締め上げているところだった。


「レオさん!」


 息を切らした声に、麻縄を引くレオの手が止まった。


 ゆっくりと振り返ったその目が、大きく見開かれる。


「ヴィヴィアン様? なんで、まだここに……さっき、お帰りになったんじゃ」


「あなたが、今日のうちに出ていこうとしているからです!」


 肩で息をしながら、ヴィヴィアンは一歩ずつ、馬車のそばへ歩み寄った。


「来週の頭とおっしゃいましたね。なのに、荷物はもう全部積み終わっているじゃありませんか。私に何も言わずに、逃げるように行ってしまうつもりだったんでしょう」


 レオは気まずそうに目をそらし、麻縄の端を固く結び直した。


「……逃げるわけじゃありません。長くいれば、未練が残るだけだから」


「未練、ですか」


「ええ、そうですよ!」


 レオは縄から手を離し、苦しげに顔をゆがめてヴィヴィアンに向き直った。


「未練です。貴女の笑った顔を見るたびに、声を聞くたびに、俺みたいな者が持っちゃいけない欲が出てくる。この腕で抱きしめたいとか、このまま連れていってしまいたいとか。……だから、これ以上そばにいちゃいけないんです。俺は一代限りの、俸禄もない騎士だ。持ってるのは馬を育てる腕と、北の荒れた土地の手付けだけです。伯爵家のお嬢様に、贅沢な暮らしも、華やかな社交界も、何ひとつ用意してやれない!」


 吐き出された本音は、痛いほどまっすぐだった。


 自分を卑下しているのではない。自分の手にあるものと、ヴィヴィアンのこれからを秤にかけて、彼女の側を重く見た。それだけの拒絶だった。


 ヴィヴィアンは、そっと胸に手を当てる。


 その不器用な誠実さに触れて、胸の底に残っていた最後のためらいが、日の当たった霜のように溶けていった。


「レオさん」


 穏やかに呼んで、もう一歩、近づく。


 二人のあいだには、冬の風と、馬たちの白い息だけが流れていた。


「私は伯爵家の娘ですから、華やかな社交界も、贅沢な調度に囲まれた暮らしも知っています。でも、あの白い寝室で私が味わったのは、凍えるような寂しさだけでした」


 ヴィヴィアンは両手を持ち上げ、レオの目の前で開いて見せた。


 もう、白くなめらかなだけの手ではない。手綱を握り、馬の毛を梳いて、指のつけ根に小さな豆ができた。爪の際には、落ちきらない土が残っている。


「私が生きていると思えたのは、あなたに手綱を教わったときです。冷たい風の中を、シエロと一緒に走ったときだけでした」


「ヴィヴィアン様……」


「誰かに生き方をあてがわれて、守られるだけの令嬢に戻るつもりはありません。私の手綱を引いて、行き先を勝手に決めるような殿方は、もう金輪際要りません」


 顎を引いて、レオの琥珀色の目を正面から見る。


「でも、隣を並んで走ってくれる人なら、欲しいんです」


「……え?」


「北の土地が雪に閉ざされて、寒くて泥だらけだと言うのなら、私も一緒に泥にまみれます。頑丈なことを、私はもう恥ずかしいとは思いません。馬の世話も、毎日の暮らしも、自分の手で支えてみせます」


 胸を張って、はっきりと言った。


「私の手綱は、私が握ります。……私の隣を並んで走る覚悟が、あなたにありますか。レオナルド・ヴァンス」


 冬晴れの空の下、あたりの音がすべて止まったようだった。


 レオは雷に打たれたように立ち尽くし、信じられないものを見るように、目の前の人を見つめている。


 その手から、麻縄の端がぱさりと落ちた。


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