最終話
乾いた冬の風が、足元の枯れ草をかさかさと鳴らしていた。
幌馬車の前で、レオはまだ、信じられないものを見るような顔をしてヴィヴィアンを見つめていた。足元に落ちた麻縄を、拾おうともしない。
やがて、張り詰めていたその顔が、ふっと崩れた。
「……参ったな」
かすれた笑いが、レオの口からこぼれた。
片手を額に当て、空を仰いで短く息を吐く。それから、ゆっくりとヴィヴィアンに向き直った。その目には、初めて馬場で会った日と同じ人懐こい光が戻っていた。
けれど、あの日よりずっと深い熱が、その奥にあった。
「最初から、敵いませんでしたよ。貴女には」
レオが大股で一歩、間を詰めた。
ごつごつした手が伸びてきて、ヴィヴィアンの冷えた両手を包んだ。手袋越しではない、素肌だった。荒れて硬い手のひらから、驚くほどの熱が伝わってくる。
「貴女が初めてクラブに来た日から、ずっと目が離せなかった」
低い、胸の奥から押し出すような声だった。
「痛いものを抱えたまま、それでも背中を伸ばして、馬にしがみついて前を向こうとしてた。泥を嫌がらないで、シエロの顔を見て笑った。俺は、それに救われてたんです。身分を盾に命を粗末にする連中ばかり見てきた俺には、貴女が誰より誇り高くて、まぶしかった」
「レオさん……」
「もう、貴女の行き先を勝手に決めたりしません」
レオはヴィヴィアンの目をまっすぐに見て、言葉を継いだ。
「隣を走れと言ってくれるなら、この命が続く限り、どこまでも並んで走ります。……俺の一生の相棒として、隣にいてくれますか。ヴィヴィアン」
初めて、様のつかない名前で呼ばれた。
胸がいっぱいになって、視界がにじんだ。
「はい……! 喜んで。あなたの隣を、走ります」
うなずいた瞬間、レオの腕に引き寄せられた。
分厚い革の外套に包まれて、冬の冷気がまるごと遮られるくらい、強く抱きしめられる。レオの顎がヴィヴィアンの髪に触れ、二人の荒い息が重なった。
「ヴィヴィアン」
もう一度低く名を呼ばれて顔を上げると、温かい唇が、そっと重なった。
冬晴れの空の下を、風が吹き抜けていく。
誰かの機嫌をうかがうためでも、誰かの感傷の身代わりでもない。互いを選んだ者どうしの、口づけだった。
つながれたままのノクスが、待ちくたびれたように、ぶるる、と鼻を鳴らした。
その日の夕方、ヴィヴィアンはレオを連れて、王都のカーライル伯爵家の本邸を訪ねた。
応接間には、父と、姉のエレノア。
レオが深く頭を下げ、北の土地へ移ること、そしてヴィヴィアンを妻に迎えたいことを申し出ると、父は長いあいだ黙りこんでいた。それから、レオではなく、娘の顔をじっと見た。
「ヴィヴィアン。北の暮らしは、お前が育ってきた温室とは違うぞ。泥にまみれ、吹雪に閉ざされる。ドレスも夜会もない。それでも行くのか」
「はい、お父様」
ヴィヴィアンは胸を張って答えた。
「もう、誰かに手綱を引かれる人形には戻りません。寒さも泥も、自分で引き受けます。この人と一緒に、風の通る場所で生きていきたいんです」
父は厳しい眉を少しだけゆるめ、深い溜め息をついた。
「好きなことをして生きると決めて、あの家を出たそうだな。……手綱を引かれるのではなく、並んで走る相手を見つけたというわけか」
それから、レオに目を向けた。
「ヴァンス殿。娘は見かけよりずっと頑固だ。手を焼くぞ」
「存じております、伯爵閣下。初日から、よく」
レオが大真面目に答えると、エレノアが吹き出した。目元を拭いながら、笑って言う。
「応援するわ、ヴィヴィアン。でも、いきなり立派な開拓者になろうなんて思わないこと。あなたにはあなたの速さがあるんだから。手紙はこまめに書きなさいよ」
レオは予定どおり、その週のうちに北へ発った。地主との約束の期日に遅れるわけにはいかなかったし、雪の中で厩舎を直す仕事に、ヴィヴィアンを連れていくわけにもいかない。
そこだけは、ヴィヴィアンも素直に聞き入れた。
「春になったら、迎えに来ます。シエロと一緒に」
「迎えに来なくても行きます。シエロと一緒に」
別れ際にそう言い返すと、レオは声を上げて笑った。
冬のあいだ、二人は手紙をやり取りした。レオの手紙は短く、字は大きく、たいてい馬の話で埋まっていた。屋根の雪下ろしをした話。
引き取った老いた軍馬が、初めて自分から寄ってきた話。最後の一行だけが、いつも照れたように小さな字だった。
ヴィヴィアンは王都に残り、クラブの厩務員に交じって、馬の脚の手当てや蹄の手入れを一から教わった。北で暮らすための体を、少しずつ作っていく。
父が話をつけてくれて、シエロは正式にクラブから買い取られた。
長年たくさんの初心者を乗せてきた功労馬を、余生を過ごす牧場へ連れていくのだと言うと、クラブの主は笑って、値を半分にしてくれた。
ランバート家からの便りは、あれきり一度もない。
クラブの門前で泥に膝をついた男爵の話は、居合わせた子爵夫人の口から、ひと晩で王都中に広まった。
ジュリアンは財務局を正式に退き、町屋敷を売って持参金を返し、領地の小さな古屋敷に引きこもったという。訪ねてくる客も、縁談を持ちこむ者も、一人もいないらしい。
イレーヌは、バルトロメから騙し取った金を返すためにドレスも宝石も手放した。それでも足りずに、実家の兄の手で地方の修道院へ送られた。療養のため、という名目だった。
望みどおり、病人として静かな部屋をあてがわれたわけだ。
そうした噂を聞いても、ヴィヴィアンの心には、もうさざ波ひとつ立たなかった。
そして、雪が解けた。
解けた雪が小川になって丘を下り、芽吹いた青草が、斜面を淡い緑に染めていく。
王都からはるか北、山並みのふもとに広がる『ウィンドリッジ牧場』の朝は、小鳥の声で始まる。
大きな牧場ではない。冬のあいだにレオが村の大工と直した小さな木造の母屋と、まだ半分も埋まっていない八つの馬房を持つ、素朴な厩舎があるだけだ。
柵で囲った放牧地では、役目を終えて引き取られた老いた軍馬たちと、ノクスと、北へ来て十日目のシエロが、のんびりと草を食んでいる。
ヴィヴィアンは生成りの麻のシャツに乗馬袴という格好で、井戸で汲んだ水を桶に入れ、馬房へ運んでいた。
朝の水運びと馬たちの手入れは、ヴィヴィアンの仕事だ。重い桶にも、すっかり慣れた。一頭ずつ名前を呼んで挨拶をして、気が済むまで毛並みを梳いてやる。
それが、一日で一番好きな時間だった。
「おはよう、ヴィヴィアン。今日も早いな」
厩舎の奥から、藁を抱えたレオが顔を出した。
「おはようございます、レオ。シエロに呼ばれたものですから」
「あいつ、すっかり貴女に甘えるのを覚えましたね」
言ってから、レオは自分で顔をしかめた。村の小さな教会で式を挙げて十日。この人の言葉からは、まだ敬語が抜けきらない。
「また『貴女』になってますよ」
「……癖なんです。そのうち直ります」
照れ隠しのように近づいてきて、レオはヴィヴィアンの頬に軽く口づけた。ごつごつした指が、風で乱れた彼女の髪をそっと払う。
それから腰の小刀を抜き、上着のポケットから林檎をひとつ取り出して、手早く四つに割った。二切れをシエロとノクスの鼻先へ。一切れを自分の口へ。
最後の一切れを、小刀の背に乗せてこちらへ差し出す。
「はい。これは、奥さんの分」
ヴィヴィアンは笑って、素手でそれを受け取った。
あの日と同じ、甘酸っぱい味がした。
「いい天気です。見回りがてら、少し遠くまで走りませんか」
「ええ、ぜひ!」
鞍を載せ、腹帯を締めて、手綱を握る。
シエロの背に跨がると、地面を踏みしめる力強い筋肉の動きが、懐かしい温かさで伝わってきた。隣では、ノクスに跨がったレオが待っている。
「準備はいいですか」
「いつでもどうぞ、レオ指南役」
わざとそう呼ぶと、レオは声を上げて笑った。
「もう指南役じゃありませんよ。ただの、貴女の夫です」
「ほら、また『貴女』」
二頭が並んで歩き出す。
常歩から、弾むような速歩へ。
丘の肩を越えたとたん、目の前いっぱいに草原が開けた。空はどこまでも青く、高い。
「いきますよ!」
「はい!」
同時に合図を送る。
トッ、タッ、タン。
二頭の三拍子が重なって、シエロとノクスが並んで駆け出した。
春の風が、髪を吹き抜けていく。丘を駆け上がるにつれて、山から下りてくる風はまだ冷たく、首筋にしみた。
なだらかな頂で馬を止めると、レオがこちらを見た。
「寒くないですか」
ヴィヴィアンは少し考えて、正直に答えた。
「少し、寒いです」
寒いと言っていい。怖いと言っていい。この人の隣でなら。
鞍袋から、灰色のショールを取り出した。縁に小さな撫子の刺繍がある、母のショールだ。しまいこんで守るばかりだったそれを、北へ来てからは毎朝、鞍袋に入れている。
肩にかけて、胸の前で結ぶ。誰の手も借りずに、自分の手で。
「よく似合ってます」
レオが、まぶしそうに言った。
風が吹いて、撫子の縁がふわりと揺れた。
このショールは、ヴィヴィアンの肩を温めるためにある。
もう、誰にも貸さない。
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