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初恋を引きずる夫を残し、私は趣味に生きます  作者: 九葉(くずは)


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8/10

第8話

 木々の枝に降りた霜が、冬の朝日を受けて細かく光っていた。


 婚姻の解消から、ひと月半が過ぎていた。


 凍えるような冷気の中で、シエロの背中から白い湯気が立ちのぼる。


 ヴィヴィアンは毛糸の裏地がついた手袋で手綱を短く持ち直し、前を行く馬との間合いを保ちながら、林の中のなだらかな坂を登っていた。


 前を行くのは、レオの乗る黒鹿毛の老馬ノクスだ。騎兵だった頃からレオを乗せてきた馬で、戦場から一緒に帰ってきた、ただ一頭の相棒だと聞いている。


 クラブの外へ出るのは、今日が初めてだった。クラブが管理している散策路で、道には木屑が敷かれ、張り出した枝も払われている。


 それでも、柵のない林の中を進むのは、円形馬場とはまるで違った。


 落ち葉を踏む、かさかさという音。風が梢を鳴らす音。


 道端の枯れ草に気を取られて、シエロが耳をぴんと立てた。


「シエロ、前を見て」


 ふくらはぎで軽く合図をして、手綱を少しだけ張る。シエロは鼻を一度鳴らして、素直に歩調を戻した。


 習いはじめてから、まだふた月にもならない。どんな馬でも乗りこなせるような腕など、あるはずもない。


 それでも、馬の機嫌を息遣いで察して、焦らずにこちらの気持ちを伝えるこつは、体に染みついていた。


「落ち着いてますね、ヴィヴィアン様」


 前を行くレオが、鞍の上から首だけで振り返った。


「シエロが聞き分けよく歩いてくれるからです。私一人の力じゃありません」


「馬が落ち着いてるのは、乗ってる人間が余計な怖さを手綱に流してないからですよ。初日のがちがちだった肩を思えば、見違えました」


 レオは口元だけで笑った。


 声は穏やかだった。けれど、以前のように屈託なく笑いかけてくる軽さはない。


 婚姻が解かれたあの日から、レオの言葉には、薄い硝子を一枚挟んだような、きちんとした礼儀がまとわりついている。


 それがこちらを傷つけないための気遣いだと分かるから、なおさら胸がちくちくと痛んだ。




 林を抜けると、枯れ草に覆われた丘の上に出た。


 眼下には王都の赤い屋根が広がり、北の遠くには、雪をかぶった山並みが青空にくっきりと浮かんでいる。


「ここで少し休ませましょう」


 レオが先に降りて、二頭の手綱を頑丈な木の幹につないだ。


 ヴィヴィアンも、踏み台のない地面へ慎重に降りた。ふた月前なら、膝が笑って座りこんでいただろう。今は、冬の硬い地面を、自分の足の裏でしっかり踏みしめられる。


 レオが鞍袋から金属の水筒を出し、湯気の立つ中身を木のカップに注いで渡してくれた。


「カモミールと干し林檎のお湯です。温まりますよ」


「ありがとうございます」


 両手でカップを包むと、甘い湯気と一緒に、温かさが手のひらに染みてきた。


 レオは自分の分は注がず、少し離れた倒木に腰を下ろして、北の山並みを眺めていた。


「きれいな景色ですね。王都のすぐそばに、こんなに見晴らしのいい場所があったなんて」


「空気の澄んだ冬しか、あそこまでは見えないんです。あの山の向こうが、北の高原です」


「いつか牧場を作りたいとおっしゃっていた場所ですね」


 ヴィヴィアンが微笑むと、レオは目を伏せ、履き古した長靴の先で小石を転がした。


「ええ。……そのことなんですが」


 重い声だった。嫌な予感に、心臓が跳ねた。


「手付けを打っていた北の土地の地主から、先日手紙が来ましてね。前の借り手が急に出ていったから、雪解けを待たずにすぐ入るなら、土地も厩舎も安く譲ると」


「……え?」


「春まで待つつもりでしたが、前倒しにします。ここの指南役は今週いっぱいで辞めて、来週の頭には王都を発ちます」


 カップを持つ指が、止まった。


「来週……? そんな、急すぎます」


「馬の仕事は、生き物と天気次第です。こっちの都合で春まで待ってはくれません」


 レオは淡々と、他人の予定でも読み上げるように言った。


「今日の外乗を最後に引き受けたのも、そういうわけです。今の貴女なら、もう俺がいなくても大丈夫だ。ここの厩務員が付いていれば、どの馬でも安心して外を歩ける。俺が教えられることは、もう何もありません」


「レオさん」


 ヴィヴィアンはカップを倒木の上に置き、一歩近づいた。


「どうして、そうやって線を引くんですか。まるで、早く厄介払いしたいみたいな言い方をなさって」


 レオの肩がこわばった。立ち上がっても、ヴィヴィアンの目を見ようとはしない。


「厄介払いなんて、とんでもない。俺はただ、自分の身の程をわきまえているだけです」


「身の程?」


「そうです」


 吐き捨てるように言って、レオは苦しそうに眉を寄せた。


「貴女はカーライル伯爵家のご令嬢だ。ひどい結婚からやっと解放されて、本来の貴女に戻られた。これからは社交界で、貴女を本当に大切にしてくれる、釣り合いの取れた家の方と出会うべきなんです。平民の出で、領地も俸禄もない一代騎士が、いつまでもそばをうろついていていい人じゃない」


「私は、家柄なんて」


「貴女が気にしなくても、世間が気にするんです!」


 初めて聞く、レオの怒鳴り声だった。


 冬の静けさを裂いたその声に、シエロが驚いて耳を伏せる。


 レオはすぐに息を整えて、声を落とした。


「北の土地は、寒くて泥だらけです。暖炉は小さいし、冬は雪に閉じこめられる。朝から晩まで、藁と馬糞にまみれて働くしかない。伯爵家のお嬢様が暮らす場所じゃないんです。俺の夢に、貴女を巻きこむわけにはいかない」


 ヴィヴィアンの胸の底から、熱いものが込み上げてきた。


 悲しみではなかった。もっと熱くて、激しい、反発だった。


「……また、ですか」


 自分の声が、低く震えていた。


「また、そうやって私の頭の上で、私の人生を勝手に決めるんですか」


 レオがはっと顔を上げた。


「ジュリアン様もそうでした。君は丈夫だから我慢しろと、私に何も訊かずに決めつけました。今度はあなたが、伯爵家の娘だから社交界に戻れ、北の泥には耐えられない、と。私が何を望んでいるのか、一度も訊かずに決めつけるんですか!」


「俺は、貴女の幸せを思って」


「私の幸せを、あなたが勝手に決めないでください!」


 ヴィヴィアンは、まっすぐにレオの目を見た。


「このふた月、私が何のために手綱を握ってきたと思っているんですか。誰かに都合のいい生き方をあてがわれるためじゃありません。自分の足で立って、自分の行きたいほうへ行くためです。それを、身の程なんて言葉で突き放すのは、卑怯です」


 レオは打たれたように黙りこんだ。


 日に焼けた頬がこわばり、唇がかすかに動く。けれど、言葉は出てこなかった。


 二人のあいだを、冷たい風が吹き抜けていく。


 ヴィヴィアンはそれ以上何も言わず、背を向けてシエロのところへ戻った。


「戻りましょう、レオ指南役。レッスンを、終わらせてください」




 帰り道、二人は一言も口をきかなかった。


 常歩の蹄の音だけが、冬枯れの林に響く。


 クラブの厩舎に戻ってシエロから降りたときも、レオは黙って手綱を受け取り、深く頭を下げただけだった。


 厩舎の奥の、ノクスの馬房の前に、見慣れない木箱がいくつも積まれていた。その上に、レオの鞍と、使いこんだ道具箱が載っている。


 ヴィヴィアンは奥歯を噛みしめて身支度を整え、荷物を抱えてクラブの木柵を出た。


 泣きそうだった。けれど、ここで泣いたら、本当に守られるだけの令嬢に戻ってしまう気がして、顎を上げた。


(絶対に、引き下がらない。私の人生の手綱は、誰にも渡さない)


 そう心に決めて砂利道を歩き出したとき、木柵の陰から、ふらりと人影が現れて道をふさいだ。


「……っ!?」


 泥で汚れた外套の男だった。


 無精髭が伸び、金髪はぼさぼさに乾いて埃をかぶっている。落ちくぼんだ目の下に、黒々とした隈が貼りついていた。馬車の音はしなかった。この丘を、歩いて登ってきたのだ。


 取り澄ました男爵の面影は、どこにもない。


「ヴィヴィアン……」


 かすれた、今にも消えそうな声だった。


「頼む、話を聞いてくれ……ヴィヴィアン!」


 すがりつこうと伸びてくる元夫の手を、ヴィヴィアンは冷えきった目で見据えた。


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