第7話
石段で拾い上げた銀の指輪は、いつまで握っていても温まらなかった。
外套のポケットの中でそれを握りしめたまま、ジュリアン・ランバートは御者に馬車を急がせていた。胸の中で、屈辱と焦りが渦を巻いている。
(思い上がりおって。出戻りの女が社交界でどれほど冷たい目で見られるか、分かっていないのだ)
法官の理不尽な裁きも、ヴィヴィアンの冷たい目も、伯爵家の権力を笠に着た横暴にすぎない。自分は妻を虐げてなどいない。初夜の誓いを守り、二年間、身を清く保ってきた。
その誠実さを分かろうとしないヴィヴィアンのほうが、心の狭い、冷たい女なのだ。
そう言い聞かせて、ジュリアンはどうにか崩れそうな自尊心を支えていた。
持参金の返還は痛い。だが、屋敷の調度をいくらか手放せば、どうにかなるはずだ。
(それに、これでいい。これでようやく、私とイレーヌを隔てるものは何もなくなった)
馬車が停まったのは、高級住宅街の外れにある、小ぶりなタウンハウスの前だった。
年の離れた夫に先立たれたあと、遺産のほとんどを先妻の息子たちに持っていかれたイレーヌが、借りて住んでいる家だ。
ジュリアンは御者が扉を開けるのも待たずに飛び降りて、呼び鈴を鳴らした。
出てきた女中はジュリアンの顔を見るなり眉をひそめたが、そんなことに構っている余裕はなかった。勝手知ったる足取りで、二階の客間へ階段を駆け上がる。
「イレーヌ! 私だ、入るよ」
扉を開けたジュリアンの目に飛びこんできたのは、寒さに震える儚い病人の姿ではなかった。
暖炉には上等な薪が赤々と燃え、部屋には甘い香油の匂いが立ちこめている。
長椅子にゆったりと腰かけたイレーヌは、流行りの真紅の絹のガウンをまとい、豊かな金髪を一筋の乱れもなく結い上げていた。咳きこむ気配も、青白い顔色も、どこにもない。
向かいの安楽椅子には、毛皮の襟巻きをした見知らぬ壮年の男が、葡萄酒のグラスを手にくつろいでいた。
「……ジュリアン?」
イレーヌは茶器を持った手を止めた。驚いたというより、あからさまに迷惑そうに細い眉を寄せる。
「ノックもしないで入ってくるなんて、はしたないわ。見れば分かるでしょう、大事なお客様がいらしているの」
「あ、ああ、すまない。だが、どうしてもすぐに伝えたいことがあって」
見知らぬ男に戸惑いながらも、ジュリアンは胸の高鳴りを抑えきれずに歩み寄った。
「ヴィヴィアンとの婚姻が、さっき正式に解消された。私はもう自由だ。これで君を堂々と屋敷に迎えられる。もう人目を忍んで会う必要も、罪の意識に苦しむこともないんだ!」
渾身の告白だった。守り抜いた純愛が、ようやく報われる。彼女は涙を流して喜んでくれるはずだった。
返ってきたのは、乾いた失笑だった。
「は? 本当に、離縁されたの?」
イレーヌは扇を広げて口元を隠し、冷めた目でジュリアンを見上げた。
「伯爵家に審問を申し立てられたって噂は聞いていたけど、まさか本当に追い出されるなんてね。ジュリアン、貴方、馬鹿じゃないの?」
頭を殴られたような衝撃に、ジュリアンは立ちすくんだ。
「な、何を言うんだ、イレーヌ。私は君のために」
「頼んでないわよ、そんなこと」
イレーヌは平然と言い放った。
「貴方が尽くしてくれるのは嬉しかったわよ? でもそれは、貴方が伯爵家の娘婿で、それなりの後ろ盾があったからでしょう。伯爵家に見限られて、持参金まで返さなきゃいけない貧乏男爵に、今さら嫁いで何の得があるの? 体の弱い私に、狭い屋敷で苦労しろって言うのかしら」
「イレーヌ、君は何を言って……」
目の前にいる女が、本当に自分が何年も胸の中で大切にしてきた初恋の人なのか。ジュリアンの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
そのとき、黙って葡萄酒を口に運んでいた男が、低く笑った。
「見苦しいな、ランバート男爵。いや、自業自得と言うべきか」
「貴様は、誰だ」
睨みつけると、男はゆっくりと立ち上がり、胸ポケットから紙切れを一枚取り出して、低い卓の上に放った。
「交易商のバルトロメだ。先月、準男爵の位を買ってね。こちらのイレーヌ殿に、療養費が足りずに暮らしに困っていると涙ながらに訴えられて、後見を引き受けようかと考えていた者だよ」
卓に落ちた紙には、王都の質屋の印がくっきりと押されていた。
「これは、質札か?」
「数日前、イレーヌ殿が私に見せたものだ。亡き夫の形見のショールを、薬代のために泣く泣く質に入れた。どうか請け出すお金を貸してほしい、とね。私は言われるままに金を渡した」
バルトロメの声は冷え切っていた。
「ところが、いつまでたっても請け出した様子がない。今朝、念のため人をやって質屋で確かめさせた。品はもうなかったよ。昨日、カーライル伯爵家の代理人が来て、正当な持ち主の品だと証明して引き取っていったそうだ。帳簿には、持ちこんだのはイレーヌ殿だと、本人の署名まで残っていた。灰色のカシミヤに、撫子の刺繍。亡き夫の形見どころか、よその奥方の母上の形見だった」
ジュリアンの顔から、血の気が引いた。
「つまり男爵夫人の持ち物を受け取ったその足で質に入れ、さらに私から請け出す金まで引き出そうとした。二重取りというわけだ」
「ち、違うのよ、バルトロメ様! あれはジュリアンが勝手に持ってきたもので、私は何も……」
「黙りなさい」
バルトロメの目は、氷のように冷たかった。
「私はね、病気の女性を見捨てるほど野暮な男ではないつもりだ。体が弱くても誠実に生きている人なら、喜んで手を貸す。だが、男の感傷につけこんで他人の形見を金に換え、そのうえ私まで騙して懐を肥やそうとする女を養う趣味はない」
「待って! 私、本当に体が弱いの、一人じゃ生きていけないのよ!」
イレーヌがすがりつくように立ち上がったが、バルトロメは眉ひとつ動かさず、その手を払いのけた。
「知ったことか。持病があることと、嘘つきであることは別の話だ。渡した金は、騙し取られたものとして返してもらう。返せないなら、出るところに出るまでだ」
「そんな!」
バルトロメは従者に外套を着せかけさせると、立ち尽くすジュリアンには一瞥もくれずに、客間を出ていった。
静まり返った部屋に、イレーヌの荒い息だけが残った。
バルトロメの出ていった扉を睨みつけていた彼女は、やがて鬼のような形相でジュリアンを振り返った。
「全部、貴方のせいよ!」
金切り声が、ジュリアンの顔に叩きつけられた。
「ショールなんか持ってくるから! 伯爵家が質屋を嗅ぎ回ることになったんじゃない! せっかくバルトロメ様に取り入って、南の保養地に別荘を買ってもらうはずだったのに! どうしてくれるのよ、あのお金、もう使っちゃったのよ!」
ジュリアンの喉から、かすれた声がこぼれた。
「嘘だったのか。あのショールで、暖を取っていたんじゃなかったのか」
「馬鹿じゃないの!? あんな地味な灰色の布、部屋に置いておくのも邪魔よ! 咳が出たのは本当だけど、それは煙突が詰まって煙が逆流したからでしょう! 掃除屋を呼んでって頼んだのに、貴方が勝手に感傷に浸って、あんな布を持ってきたんじゃない!」
イレーヌは鼻で笑って、胸を反らした。
「何が『私の心は君にある』よ。何が『身を清く保つ』よ! 昔、私を見捨てた罪悪感から逃げたくて、私を聖女に祭り上げてただけでしょう! 私は貴方の免罪符じゃないのよ!」
免罪符。
その一言で、ジュリアンの頭の中が真っ白になった。
言い返す言葉が、何ひとつ出てこなかった。
守りたかった初恋。捧げ続けた操。胸の中で美しい物語に仕立ててきたものすべてが、自分を飾るための独りよがりで、相手にとっては金を引き出す道具にすぎなかった。
「私は、君のために、何もかも……」
「だから頼んでないって言ってるでしょう! もう用はないわ、出ていって! 貧乏くさい顔を見せないで!」
投げつけられた花瓶がジュリアンの肩に当たり、床で砕けた。
ジュリアンは、逃げるようにその家を飛び出した。
日暮れから降り出した冷たい雨が、容赦なく体を打った。
傘も差さずに、どこをどう帰ったのか、ジュリアンはよく覚えていない。気がつくと、ランバート邸の玄関の扉を押し開けていた。
玄関の広間には、何の匂いもしなかった。
ヴィヴィアンがいつも廊下に置いていたラベンダーの香りも、夕方になると台所から流れてきたパンの焼ける匂いもない。
暖炉は冷たく、床から這い上がる冷気が、薄暗い廊下に溜まっていた。
「誰か! 誰かいないのか!」
しばらくして奥から出てきたのは、まだ若い下働きの娘が一人だけだった。
「旦那様、あの、料理番は今朝お暇をいただきました。従僕のトマスさんも、お給金が出ないならと、昨日……」
「マーサは! マーサはどうした!」
「マーサさんは、奥様とご一緒に、あの日に」
そうだった。ヴィヴィアンが嫁いでくるとき、伯爵家から付いてきた女だ。主人が出ていけば、残る理由などない。
「それから、旦那様宛てにお手紙が二通……」
娘が差し出した封筒の一通は、カーライル伯爵家の顧問弁護士からだった。持参金を返す期日と、遅れた場合の差し押さえについて、事務的な文面が並んでいる。
もう一通は、財務局の上官からだった。
『教会法廷で有責の裁定を受けた者に、局の帳簿を預けておくわけにはいかない。沙汰あるまで登庁には及ばず』
ジュリアンは二通の手紙を握ったまま、よろめくように書斎へ入り、椅子に崩れ落ちた。
机の端に、あの日ヴィヴィアンが残していった革表紙の帳面が置いてあった。鍵と一緒に書斎へ持ってきたきり、一度も開いていなかった。
震える手で、表紙をめくる。
出入りの商人の名と、それぞれの払いの癖。使用人の給金と、誰の子どもが冬に熱を出しやすいか。限られた予算の中で、どの仕立て屋なら安く、恥ずかしくない上着が作れるか。
ジュリアンの好む紅茶の葉は、どこの店で買えるか。冬のあいだ、屋敷のどの窓から隙間風が入るか。
一頁ごとに、几帳面な字で、二年分の時間が書きこまれていた。
最後の頁には、日付と一行だけ。
『旦那様の冬の外套、裏地の綻びを繕いました。右の袖口が擦れやすいので、来年は仕立て直しを』
ジュリアンは、今着ている外套の右の袖口を見た。
きれいに繕われていた。いつ繕われたのか、まるで知らなかった。
(私は、何をしていたんだ)
イレーヌに踊らされていたことなど、もうどうでもいい。
本当に恐ろしいのは、自分自身だった。
ヴィヴィアンは丈夫だから、何を取り上げても痛まない。文句を言わないから、何を押しつけても平気だ。本気でそう思っていた。
彼女が黙って差し出してくれるものの上にあぐらをかいて、自分は初恋に殉じる高潔な男だという甘い夢に酔っていた。
ジュリアンは、指を折って数えた。
妻。持参金。伯爵家の後ろ盾。財務局の席。料理番に、従僕に、マーサ。暖炉の火。焼きたてのパン。繕われた袖口。
どれ一つとして、もう戻ってはこない。
『私の馬の手綱を握るのは、私自身です。あなたに引かれる筋合いは、爪の先ほどもありません』
クラブの門の前で、泥のついた長靴のまま言い放ったヴィヴィアンの顔が、暗い書斎の中にありありとよみがえった。
あのとき、彼女はもう、ジュリアンを見てはいなかった。
ポケットから指輪を取り出す。ヴィヴィアンが二年間はめていた輪。彼女をあの冷たい寝室に縛りつけていた輪。
「ヴィヴィアン……」
呼んでも、答える者はいなかった。
かじかんだ指から指輪が滑り落ち、床を転がって、机の下の暗がりへ消えた。
拾ってくれる者は、もうこの屋敷のどこにもいない。
ジュリアンは冷たい床に這いつくばり、暗がりの中を、自分の手で探った。




