↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
初恋を引きずる夫を残し、私は趣味に生きます  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/10

第7話

 石段で拾い上げた銀の指輪は、いつまで握っていても温まらなかった。


 外套のポケットの中でそれを握りしめたまま、ジュリアン・ランバートは御者に馬車を急がせていた。胸の中で、屈辱と焦りが渦を巻いている。


(思い上がりおって。出戻りの女が社交界でどれほど冷たい目で見られるか、分かっていないのだ)


 法官の理不尽な裁きも、ヴィヴィアンの冷たい目も、伯爵家の権力を笠に着た横暴にすぎない。自分は妻を虐げてなどいない。初夜の誓いを守り、二年間、身を清く保ってきた。


 その誠実さを分かろうとしないヴィヴィアンのほうが、心の狭い、冷たい女なのだ。


 そう言い聞かせて、ジュリアンはどうにか崩れそうな自尊心を支えていた。


 持参金の返還は痛い。だが、屋敷の調度をいくらか手放せば、どうにかなるはずだ。


(それに、これでいい。これでようやく、私とイレーヌを隔てるものは何もなくなった)


 馬車が停まったのは、高級住宅街の外れにある、小ぶりなタウンハウスの前だった。


 年の離れた夫に先立たれたあと、遺産のほとんどを先妻の息子たちに持っていかれたイレーヌが、借りて住んでいる家だ。


 ジュリアンは御者が扉を開けるのも待たずに飛び降りて、呼び鈴を鳴らした。


 出てきた女中はジュリアンの顔を見るなり眉をひそめたが、そんなことに構っている余裕はなかった。勝手知ったる足取りで、二階の客間へ階段を駆け上がる。




「イレーヌ! 私だ、入るよ」


 扉を開けたジュリアンの目に飛びこんできたのは、寒さに震える儚い病人の姿ではなかった。


 暖炉には上等な薪が赤々と燃え、部屋には甘い香油の匂いが立ちこめている。


 長椅子にゆったりと腰かけたイレーヌは、流行りの真紅の絹のガウンをまとい、豊かな金髪を一筋の乱れもなく結い上げていた。咳きこむ気配も、青白い顔色も、どこにもない。


 向かいの安楽椅子には、毛皮の襟巻きをした見知らぬ壮年の男が、葡萄酒のグラスを手にくつろいでいた。


「……ジュリアン?」


 イレーヌは茶器を持った手を止めた。驚いたというより、あからさまに迷惑そうに細い眉を寄せる。


「ノックもしないで入ってくるなんて、はしたないわ。見れば分かるでしょう、大事なお客様がいらしているの」


「あ、ああ、すまない。だが、どうしてもすぐに伝えたいことがあって」


 見知らぬ男に戸惑いながらも、ジュリアンは胸の高鳴りを抑えきれずに歩み寄った。


「ヴィヴィアンとの婚姻が、さっき正式に解消された。私はもう自由だ。これで君を堂々と屋敷に迎えられる。もう人目を忍んで会う必要も、罪の意識に苦しむこともないんだ!」


 渾身の告白だった。守り抜いた純愛が、ようやく報われる。彼女は涙を流して喜んでくれるはずだった。


 返ってきたのは、乾いた失笑だった。


「は? 本当に、離縁されたの?」


 イレーヌは扇を広げて口元を隠し、冷めた目でジュリアンを見上げた。


「伯爵家に審問を申し立てられたって噂は聞いていたけど、まさか本当に追い出されるなんてね。ジュリアン、貴方、馬鹿じゃないの?」


 頭を殴られたような衝撃に、ジュリアンは立ちすくんだ。


「な、何を言うんだ、イレーヌ。私は君のために」


「頼んでないわよ、そんなこと」


 イレーヌは平然と言い放った。


「貴方が尽くしてくれるのは嬉しかったわよ? でもそれは、貴方が伯爵家の娘婿で、それなりの後ろ盾があったからでしょう。伯爵家に見限られて、持参金まで返さなきゃいけない貧乏男爵に、今さら嫁いで何の得があるの? 体の弱い私に、狭い屋敷で苦労しろって言うのかしら」


「イレーヌ、君は何を言って……」


 目の前にいる女が、本当に自分が何年も胸の中で大切にしてきた初恋の人なのか。ジュリアンの視界が、ぐにゃりと歪んだ。


 そのとき、黙って葡萄酒を口に運んでいた男が、低く笑った。


「見苦しいな、ランバート男爵。いや、自業自得と言うべきか」


「貴様は、誰だ」


 睨みつけると、男はゆっくりと立ち上がり、胸ポケットから紙切れを一枚取り出して、低い卓の上に放った。


「交易商のバルトロメだ。先月、準男爵の位を買ってね。こちらのイレーヌ殿に、療養費が足りずに暮らしに困っていると涙ながらに訴えられて、後見を引き受けようかと考えていた者だよ」


 卓に落ちた紙には、王都の質屋の印がくっきりと押されていた。


「これは、質札か?」


「数日前、イレーヌ殿が私に見せたものだ。亡き夫の形見のショールを、薬代のために泣く泣く質に入れた。どうか請け出すお金を貸してほしい、とね。私は言われるままに金を渡した」


 バルトロメの声は冷え切っていた。


「ところが、いつまでたっても請け出した様子がない。今朝、念のため人をやって質屋で確かめさせた。品はもうなかったよ。昨日、カーライル伯爵家の代理人が来て、正当な持ち主の品だと証明して引き取っていったそうだ。帳簿には、持ちこんだのはイレーヌ殿だと、本人の署名まで残っていた。灰色のカシミヤに、撫子の刺繍。亡き夫の形見どころか、よその奥方の母上の形見だった」


 ジュリアンの顔から、血の気が引いた。


「つまり男爵夫人の持ち物を受け取ったその足で質に入れ、さらに私から請け出す金まで引き出そうとした。二重取りというわけだ」


「ち、違うのよ、バルトロメ様! あれはジュリアンが勝手に持ってきたもので、私は何も……」


「黙りなさい」


 バルトロメの目は、氷のように冷たかった。


「私はね、病気の女性を見捨てるほど野暮な男ではないつもりだ。体が弱くても誠実に生きている人なら、喜んで手を貸す。だが、男の感傷につけこんで他人の形見を金に換え、そのうえ私まで騙して懐を肥やそうとする女を養う趣味はない」


「待って! 私、本当に体が弱いの、一人じゃ生きていけないのよ!」


 イレーヌがすがりつくように立ち上がったが、バルトロメは眉ひとつ動かさず、その手を払いのけた。


「知ったことか。持病があることと、嘘つきであることは別の話だ。渡した金は、騙し取られたものとして返してもらう。返せないなら、出るところに出るまでだ」


「そんな!」


 バルトロメは従者に外套を着せかけさせると、立ち尽くすジュリアンには一瞥もくれずに、客間を出ていった。




 静まり返った部屋に、イレーヌの荒い息だけが残った。


 バルトロメの出ていった扉を睨みつけていた彼女は、やがて鬼のような形相でジュリアンを振り返った。


「全部、貴方のせいよ!」


 金切り声が、ジュリアンの顔に叩きつけられた。


「ショールなんか持ってくるから! 伯爵家が質屋を嗅ぎ回ることになったんじゃない! せっかくバルトロメ様に取り入って、南の保養地に別荘を買ってもらうはずだったのに! どうしてくれるのよ、あのお金、もう使っちゃったのよ!」


 ジュリアンの喉から、かすれた声がこぼれた。


「嘘だったのか。あのショールで、暖を取っていたんじゃなかったのか」


「馬鹿じゃないの!? あんな地味な灰色の布、部屋に置いておくのも邪魔よ! 咳が出たのは本当だけど、それは煙突が詰まって煙が逆流したからでしょう! 掃除屋を呼んでって頼んだのに、貴方が勝手に感傷に浸って、あんな布を持ってきたんじゃない!」


 イレーヌは鼻で笑って、胸を反らした。


「何が『私の心は君にある』よ。何が『身を清く保つ』よ! 昔、私を見捨てた罪悪感から逃げたくて、私を聖女に祭り上げてただけでしょう! 私は貴方の免罪符じゃないのよ!」


 免罪符。


 その一言で、ジュリアンの頭の中が真っ白になった。


 言い返す言葉が、何ひとつ出てこなかった。


 守りたかった初恋。捧げ続けた操。胸の中で美しい物語に仕立ててきたものすべてが、自分を飾るための独りよがりで、相手にとっては金を引き出す道具にすぎなかった。


「私は、君のために、何もかも……」


「だから頼んでないって言ってるでしょう! もう用はないわ、出ていって! 貧乏くさい顔を見せないで!」


 投げつけられた花瓶がジュリアンの肩に当たり、床で砕けた。


 ジュリアンは、逃げるようにその家を飛び出した。




 日暮れから降り出した冷たい雨が、容赦なく体を打った。


 傘も差さずに、どこをどう帰ったのか、ジュリアンはよく覚えていない。気がつくと、ランバート邸の玄関の扉を押し開けていた。


 玄関の広間には、何の匂いもしなかった。


 ヴィヴィアンがいつも廊下に置いていたラベンダーの香りも、夕方になると台所から流れてきたパンの焼ける匂いもない。


 暖炉は冷たく、床から這い上がる冷気が、薄暗い廊下に溜まっていた。


「誰か! 誰かいないのか!」


 しばらくして奥から出てきたのは、まだ若い下働きの娘が一人だけだった。


「旦那様、あの、料理番は今朝お暇をいただきました。従僕のトマスさんも、お給金が出ないならと、昨日……」


「マーサは! マーサはどうした!」


「マーサさんは、奥様とご一緒に、あの日に」


 そうだった。ヴィヴィアンが嫁いでくるとき、伯爵家から付いてきた女だ。主人が出ていけば、残る理由などない。


「それから、旦那様宛てにお手紙が二通……」


 娘が差し出した封筒の一通は、カーライル伯爵家の顧問弁護士からだった。持参金を返す期日と、遅れた場合の差し押さえについて、事務的な文面が並んでいる。


 もう一通は、財務局の上官からだった。


『教会法廷で有責の裁定を受けた者に、局の帳簿を預けておくわけにはいかない。沙汰あるまで登庁には及ばず』


 ジュリアンは二通の手紙を握ったまま、よろめくように書斎へ入り、椅子に崩れ落ちた。


 机の端に、あの日ヴィヴィアンが残していった革表紙の帳面が置いてあった。鍵と一緒に書斎へ持ってきたきり、一度も開いていなかった。


 震える手で、表紙をめくる。


 出入りの商人の名と、それぞれの払いの癖。使用人の給金と、誰の子どもが冬に熱を出しやすいか。限られた予算の中で、どの仕立て屋なら安く、恥ずかしくない上着が作れるか。


 ジュリアンの好む紅茶の葉は、どこの店で買えるか。冬のあいだ、屋敷のどの窓から隙間風が入るか。


 一頁ごとに、几帳面な字で、二年分の時間が書きこまれていた。


 最後の頁には、日付と一行だけ。


『旦那様の冬の外套、裏地の綻びを繕いました。右の袖口が擦れやすいので、来年は仕立て直しを』


 ジュリアンは、今着ている外套の右の袖口を見た。


 きれいに繕われていた。いつ繕われたのか、まるで知らなかった。


(私は、何をしていたんだ)


 イレーヌに踊らされていたことなど、もうどうでもいい。


 本当に恐ろしいのは、自分自身だった。


 ヴィヴィアンは丈夫だから、何を取り上げても痛まない。文句を言わないから、何を押しつけても平気だ。本気でそう思っていた。


 彼女が黙って差し出してくれるものの上にあぐらをかいて、自分は初恋に殉じる高潔な男だという甘い夢に酔っていた。


 ジュリアンは、指を折って数えた。


 妻。持参金。伯爵家の後ろ盾。財務局の席。料理番に、従僕に、マーサ。暖炉の火。焼きたてのパン。繕われた袖口。


 どれ一つとして、もう戻ってはこない。


『私の馬の手綱を握るのは、私自身です。あなたに引かれる筋合いは、爪の先ほどもありません』


 クラブの門の前で、泥のついた長靴のまま言い放ったヴィヴィアンの顔が、暗い書斎の中にありありとよみがえった。


 あのとき、彼女はもう、ジュリアンを見てはいなかった。


 ポケットから指輪を取り出す。ヴィヴィアンが二年間はめていた輪。彼女をあの冷たい寝室に縛りつけていた輪。


「ヴィヴィアン……」


 呼んでも、答える者はいなかった。


 かじかんだ指から指輪が滑り落ち、床を転がって、机の下の暗がりへ消えた。


 拾ってくれる者は、もうこの屋敷のどこにもいない。


 ジュリアンは冷たい床に這いつくばり、暗がりの中を、自分の手で探った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
いや、イレーヌに踊らされたんじゃなくてイレーヌの話すら聞いてなかったんでしょ。誰かつっこんであげてっっって誰も居なかった。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。