第6話
大聖堂の地下にある審問室は、外よりもさらに冷えていた。
天井の高い石の部屋の真ん中に黒檀の長机があり、紫紺の祭服を着た老神官が座っている。教会法の裁きを預かる法官だ。
右側にヴィヴィアンと父、姉のエレノア。通路を挟んだ左側に、ジュリアンが一人で立っていた。不服そうに顔をこわばらせ、目の下には濃い隈が浮いている。
「これより、カーライル伯爵家のヴィヴィアンが申し立てた、ランバート男爵ジュリアンとの婚姻解消について、審問を行う」
低く乾いた声が、石壁に響いた。
「ランバート男爵。貴殿は婚礼の夜から二年間、一度も夫婦の契りを結ばず、寝室を別にしてきた。相違ないか」
ジュリアンは背筋を伸ばし、よどみなく答えた。
「相違ありません。ですが法官、それは私が一方的に押しつけたものではなく、互いに納得したうえでのことです。私にはかつて心を通わせた女性があり、彼女への罪の意識から、身を清く保つことを選びました。妻も当時、黙って受け入れたはずです。私は妻の暮らしを保証し、紳士として礼を尽くしてまいりました」
「納得したうえで、と」
法官は眉ひとつ動かさず、手元の記録に目を落とした。
「申立人によれば、初夜の宣言は貴殿からの一方的な通告で、拒む余地は与えられなかったとある。その後の二年間、夫婦のあり方について、一度でも妻と話し合う場を設けたか」
「それは……妻も文句を言わず、家のことをそつなくこなしておりました。家が滞りなく回っている以上、問題はないと考えておりました」
「その考えが、根本から誤っている」
法官の声が、一段冷えた。
「教会が婚姻を聖なる契約とみなすのは、互いに敬意をもって共に暮らすと誓うからだ。初夜に一方的な条件を突きつけ、家のために黙って耐える妻を『納得していた』と言い換え、二年間、向き合う努力すらしなかった。それは配慮とは呼ばぬ。共に暮らす務めを放り出したと言うほかない」
「お待ちください!」
ジュリアンが声を荒らげ、机に詰め寄ろうとした。
「情のない政略結婚など、貴族にはいくらでもあります! 夫婦の契りがないというだけで、なぜ私だけが責めを負わねばならないのですか!」
「契りの有無を問うているのではない」
法官の一喝が、石の部屋に響き渡った。
「病弱な初恋のために身を清く保つという感傷に浸り、妻を留守番として使い、あげく妻の母の形見を無断で持ち出して、その初恋の相手に与えた。これは妻の人格を踏みにじる行いだ。貴殿には初めから、この婚姻を守る意思がなかったと判断する」
ジュリアンは口を開けたまま、言葉を失った。
法官はヴィヴィアンのほうを向き、声を和らげた。
「申立人。この婚姻を続ける意思はあるか」
ヴィヴィアンは父と姉を一度だけ見て、それから前を向いた。迷いは、もうどこにもなかった。
「ございません。二年間、妻としての時間を差し出してまいりました。これ以上、差し出すつもりはありません。婚姻の解消を求めます」
自分でも驚くほど、よく通る声だった。
法官は静かにうなずき、木槌を取り上げた。
「教会法に基づき、ランバート男爵ジュリアンとヴィヴィアン・カーライルの婚姻は、夫が務めを放棄したことにより破綻したものと認め、本日をもって解消する。あわせて夫に、婚礼の際に受け取った持参金の全額返還を命じる」
「全額……!?」
ジュリアンの顔から、さっと血の気が引いた。傾きかけていた男爵家を立て直したのは、ほかでもない、その持参金だった。
かん、と乾いた木槌の音が、石の部屋に響いた。
審問室を出て、大聖堂の正面の石段を下りかけたとき、後ろから慌ただしい靴音が追いかけてきた。
「ヴィヴィアン! 待て、待ってくれ!」
振り返ると、ジュリアンが血相を変えて石段を駆け下りてくるところだった。外套の裾をひるがえして、ヴィヴィアンの前に回りこむ。
朝の祈りを終えた人々が、何事かと足を止めてこちらを見た。
「本気で終わらせるつもりなのか! 持参金を全額だぞ、そんなことになったら家がどうなるか……今ならまだ取り下げられるだろう、なあ、考え直せ! 男爵夫人の座を捨てて、実家でどんな目で見られるか」
「ジュリアン様」
ヴィヴィアンは足を止め、左の手袋を外した。
薬指の銀の指輪に、指をかける。
息をひそめて暮らす自分を二年間縛ってきた輪は、拍子抜けするほどあっさりと抜けた。
「これを、お返しします」
差し出しても、ジュリアンは受け取ろうとしなかった。受け取ってしまえば本当に終わるとでも思っているのか、両手を握りしめたまま動かない。
ヴィヴィアンは指輪を、二人のあいだの石段にそっと置いた。
「二年間、あなたの純愛ごっこの、都合のいい背景を務めさせていただきました。これで私たちは他人です。二度と私の前に現れないでください」
ジュリアンは青ざめたまま、石段の上の小さな輪を見下ろしていた。
ヴィヴィアンは一礼もせずに背を向け、父と姉の待つ馬車へ歩き出した。後ろで人々がざわめいていたが、振り返らなかった。
馬車に乗りこむと、エレノアが窓の外をちらりと見て、肩をすくめた。
「あの人、石段に膝をついて指輪を拾っていたわよ。お祈り帰りの人たちが見ている前で」
「そう」
ヴィヴィアンはそれだけ言った。それ以上は、知りたいとも思わなかった。
「お見事だったわ、ヴィヴィアン」
エレノアは誇らしげに笑うと、膝の上に置いていた細長い桐の箱を差し出した。
「これは?」
「開けてごらんなさい。父上が代理人を立てて、昨日のうちに質屋から取り戻してくださったの」
蓋を開けると、懐かしい毛織物が畳まれて入っていた。
灰色のカシミヤのショール。縁の小さな撫子の刺繍が、窓から差しこむ光の中で、静かにそこにあった。
「お母様の……」
指で触れると、柔らかな織り目の感触が、指先から胸の奥まで届いた。
「でも、質屋って」
「あのイレーヌという人、ジュリアンから受け取った次の日には、もう質に入れていたのよ。自分の名前で署名までして」
エレノアが冷ややかに言い、父が重々しくうなずいた。
「病を盾に人の情けにすがり、他人の形見を平気で金に換える。そういう女だ。ランバートもいずれ思い知るだろうが、もう我が家の知ったことではない。ヴィヴィアン、よく耐えた。そして、よく自分で断ち切った」
「お父様、お姉様……ありがとうございます」
ショールを胸に抱きしめると、涙がひとすじこぼれた。
悲しくて流れた涙ではない。母の手の跡が、ようやく自分の腕の中に帰ってきた。それだけで、二年分の何かが報われた気がした。
その日の午後、ヴィヴィアンは別邸で乗馬服に着替え、『グリーン・フィールズ』へ向かった。
雲が切れて、冬の空がのぞいている。風は冷たかったが、足取りは自分でも笑ってしまうほど軽かった。
厩舎に入ると、レオがシエロの馬房の前で、熊手を使って藁を集めていた。
足音に気づいて振り返り、目を丸くする。
「ヴィヴィアン様? 今日は審問だったんじゃ」
「さっき、全部終わりました」
ヴィヴィアンは歩み寄り、手袋を外した両手を差し出して見せた。
左手の薬指には、もう何もない。指輪の跡だけが、うっすらと白く残っていた。
「婚姻の解消が、正式に認められました。私はもう、誰の妻でもありません」
レオの目が、彼女の左手に釘付けになった。
一拍おいて、その顔いっぱいに喜びが広がった。白い歯がこぼれ、目尻がくしゃりと下がる。
「やりましたね! おめでとうございます、ヴィヴィアン様! 本当に、よくやり遂げましたね」
レオが右手を差し出した。ヴィヴィアンも笑って手を伸ばす。
けれど、指先が触れる寸前で、レオの手が止まった。
「レオ指南役?」
レオは何かに気づいたように息を詰め、伸ばしかけた手を引っこめた。
顔から笑みが引いていく。代わりに浮かんだのは、軍で叩きこまれた規律のような、硬い表情だった。
「失礼いたしました。カーライル伯爵令嬢様」
レオは半歩下がり、踵を揃えて深々と頭を下げた。これまで一度も見せたことのない、主に仕える者のような礼だった。
「無作法をいたしました。婚姻が解かれたということは、貴女様は名門伯爵家の、独り身のご令嬢に戻られたということです」
丁寧で、穏やかで、ひどく遠い声だった。
ヴィヴィアンの胸が、きゅっと縮んだ。
「レオ、さん……? どうして、そんな他人行儀な」
「指輪をしていらっしゃるあいだは、俺はただの指南役でいられました」
頭を上げても、レオはヴィヴィアンの顔を見なかった。目は、わずかに斜め下に向けられたままだった。
「でも、これからは違います。貴女には、ふさわしい縁談がいくらでも来る。そんなときに、郊外の馬場で平民上がりの男と親しくしていたなんて噂が立てば、まとまる話もまとまらない。領地も俸禄もない一代騎士が、おそばにいていい方じゃないんです」
「噂なんて、私は気にしません!」
「俺が気にするんです」
低い、けれど揺るがない声が、冷たい厩舎の空気を切った。
「貴女の名前を、俺のせいで汚すわけにはいかない」
レオの目の奥に、大切に思うからこそ引いた線が、はっきりと見えた。
自由になったはずだった。
鎖を断ち切って、ようやく自分の足で走り出したはずの場所に、今度は身分という、高くて冷たい壁が立っている。
指輪を外したその日に、いちばん近くにいた人が、いちばん遠くへ下がっていった。




