第5話
霜で縁取られた別邸の窓辺に、教会の印が押された厚い封書が届いたのは、よく晴れた朝だった。
封を切ると、教会法審問所への出頭を命じる書状が入っていた。期日は明朝九時。
相手方のジュリアン・ランバート男爵にも同じ召喚状が届けられており、正当な理由なく欠席すれば、申し立てをすべて認めたものとみなす。いかめしい書体で、そう書かれていた。
姉からの便箋も同封されていた。
『明日は父上と私も立ち会います。ショールのことも、こちらで手を打っているわ。あなたはありのままを話せばいいの。何も怖がることはないのよ』
端正な姉の字を指でなぞり、ヴィヴィアンは深く息を吸った。
怖くはなかった。二年間、あの白い寝室で押し殺してきたものを、自分の口で取り戻す日が、ようやく決まったのだ。
便箋を丁寧にしまうと、防寒用の革手袋をはめて、いつものようにクラブへ向かった。
円形馬場の砂は、厩務員たちの手できれいにならされていた。
「おはようございます、ヴィヴィアン様」
シエロの腹帯を締め直していたレオが、白い息を吐きながら振り返った。
「おはようございます。……馬場の砂、ずいぶんきれいですね」
「夜のうちに霜が降りたんで、滑らないように夜明け前から手を入れておきました。さて、今日は約束どおり駈足ですけど」
そこでレオは言葉を切り、ヴィヴィアンの顔をじっと見た。
「何かありましたね。顔が引き締まってる」
「隠せませんね。明日、教会の審問が決まりました。この二年間に、決着をつけてきます」
腹帯の留め金にかけていたレオの手が止まった。
何も訊かない。ただ一言、そうですか、と言っただけだった。けれど、その低い声の底には、こちらの決めたことを重く受け止めてくれる響きが、確かにあった。
「なら、今日はちょうどいい。余計な雑音を全部置いていくくらい、風を切って走りましょう」
レオは長い調馬索をシエロの頭絡につなぎ、馬場の真ん中に立った。綱の届く輪の中を回るから、何かあってもレオがすぐに止められる。
「駈足は、速歩みたいな二拍子の跳ねる揺れじゃありません。タ、タ、タン、の三拍子。ぶらんこを漕ぐつもりで、馬の背中の波に合わせて、腰を前へ送ってください」
ヴィヴィアンは鞍の上で姿勢を整えた。
「いきますよ。外側の脚を少し後ろに引いて、内側の脚でぐっと押す。手綱は引きすぎないで」
「はい……っ」
踵で脇腹を押す。
シエロが一瞬、背中を丸めた。ばねが縮むような力が、鞍越しに伝わってくる。
次の瞬間、景色が後ろへ跳んだ。
トッ、タッ、タン。
「っ……!」
速歩とはまるで違った。下から突き上げてくるのではない。大きな波に背中ごと押し上げられて、前へ前へと運ばれていく。
蹄が地面を打つ音が、三つずつ、規則正しく刻まれる。
冷たい風が正面からぶつかってきた。頬がひりひりして、髪が後ろへ激しくあおられる。なのに、怖くなかった。
シエロの首の動きに合わせて拳を少し前へ送り、腰で大きな揺れを受け止める。
(進んでる……!)
速い。馬車の窓から見る速さとは、まるで別物だった。遮るもののない体ひとつで、大きな命の力に乗って、風を切っていく。
頑丈で退屈と言われた日。空っぽの引き出し。冷めていく紅茶の前で、帰らない夫を待った二年間。胸の底に溜まっていた冷たいものが、風に削られて、後ろへ後ろへと飛んでいく。
「いいぞ、ヴィヴィアン様! 肩の力を抜いて、そのまま前を見て!」
レオの声が、風の音にまじって届いた。
「レオ指南役! 私、走っています!」
誰の許しも要らない。自分の合図で、自分の呼吸で、この広い空の下を駆けている。
一周、二周。
シエロが満足そうに鼻を鳴らした。冬の空気に、馬と人の白い息が長く尾を引いた。
レッスンのあと、シエロの手入れを済ませると、レオは厩舎の脇の焚き火へヴィヴィアンを呼んだ。
ぱちぱちと爆ぜる薪の熱が、かじかんだ指先をゆっくり温めていく。少し離れた洗い場では、厩務員たちが笑い合いながら馬具を磨いていた。
「初めての駈足であれだけ乗れたら上等です。シエロも驚いてましたよ」
レオは火ばさみで薪の位置を直しながら言った。
「ありがとうございます。あんなに胸がすっとしたのは、生まれて初めてでした」
「馬の上じゃ、嘘がつけませんからね。貴女が腹をくくってるから、シエロも迷わず走れたんです」
レオは、しばらく黙って炎を見ていた。
「……軍にいた頃、一番つらかったのは、死ぬことじゃありませんでした」
薪がはぜて、火の粉が散った。
「手柄を焦った将校が、馬の限界なんか考えずに突撃を命じる。どんな名馬でも、脚を折ればその場に捨てていく。生き残った馬だって、戦が終わって傷が残れば、二束三文で屠畜場に売られるか、潰れるまで荷車を引かされるかです」
焚き火に照らされたレオの横顔に、深い影が落ちていた。
「馬は、人間の都合で戦わされて、人間の見栄で使い捨てにされていい生き物じゃない。だから俺は、いつか北の高原に牧場を作りたいんです」
「北の、高原に?」
「王都からずっと離れた、風通しのいい広い土地です。軍や貴族の家で役目を終えた馬を引き取って、手入れをして、ただのんびり草を食んで寿命まで生きられるようにしてやりたい。戦場で、俺を乗せたまま死んでいった馬たちへの、俺なりのけじめなんです」
言ってから照れたように笑い、レオは火ばさみを置いた。
「平民の一代騎士が言うには、でかすぎる夢ですけどね。手付けを打った土地はあっても、金も人手も、まだまだ足りない」
「そんなことはありません」
遮るように言ってしまった。レオが驚いた顔でこちらを見る。
「とても……美しい夢だと思います。誰かの見栄のためじゃなく、命そのものに向き合おうとなさる。そういう生き方を、私は心から尊敬します」
本心だった。初恋のために操を守る、と言っていた夫の言葉が、どれほど自分を飾るためだけのものだったか。この人の静かな覚悟の隣に並べると、嫌というほどよく分かった。
レオは炎に照らされた顔を赤くして、困ったように目をそらした。
「……ヴィヴィアン様にそんなふうに言われると、柄にもなく照れますね」
二人のあいだで、薪のはぜる音だけがしていた。
洗い場からは、厩務員たちの笑い声が聞こえてくる。指南役と生徒が、仕事のあとに焚き火にあたっている。それだけの時間だった。
それだけの時間が、ヴィヴィアンの胸に小さな火を灯していた。
「明日の審問」
レオが立ち上がり、ヴィヴィアンを見下ろした。
「余計な心配はしません。貴女はもう、誰かに怯えて立ち止まる人じゃないから。胸を張って、終わらせてきてください」
「はい。行ってまいります」
ヴィヴィアンも立ち上がり、背筋を伸ばして頭を下げた。
翌朝は、鉛色の雲が低く垂れこめていた。吐く息まで凍りそうな寒さだった。
馬車を降りると、目の前に王都大聖堂の石の壁がそびえていた。
石段の途中に、二つの人影がある。
「ヴィヴィアン」
駆け寄ってきたのは、濃紺のドレスを着た姉のエレノアだった。その後ろで、父のカーライル伯爵が厳しい顔をして立っている。
「お父様、お姉様」
「よく来たわね。顔色は悪くないみたい」
エレノアがヴィヴィアンの両手を包む。手袋越しにも、姉の手は温かかった。
「ええ。よく眠れたの」
父が重々しく口を開いた。
「ランバートはもう中に入った。見苦しい言い訳を並べるつもりだろうが、法官にはこちらの申し立ても証拠も届いている。案ずるな」
「ありがとうございます、お父様」
大聖堂の尖塔で、九時を告げる鐘が鳴りはじめた。
冷たい空気を震わせる音を聞きながら、ヴィヴィアンは鉄の鋲を打った樫の大扉を見上げた。あの向こうに、二年間の冷たい暮らしの後始末が待っている。
左手の指輪を、右の手のひらでそっと包む。
それから両手を扉に当てて、押した。
扉は、思っていたよりずっと軽かった。




