第4話
夕暮れの冷気の中、砂利を踏む靴音がざらりと響いた。
「伯爵家の別邸に引きこもっているのかと思えば、こんな郊外の馬小屋に入り浸っていたとはな」
外套の襟を立てたジュリアンが、眉間に深い皺を刻んだまま、大股で近づいてくる。きちんと撫でつけた金髪が風に乱れていた。
体面を潰された男の焦りと、こちらを見下す色が、その目にぎらついている。
「手紙は読んだのか。読んだうえで、あれをそのまま教会の調停員に回したそうだな。おかげで私は調停員に呼びつけられて、根掘り葉掘り訊かれたぞ。どういうつもりだ」
ヴィヴィアンは足を止め、顎を引いて夫を見た。
「調停員の方から、夫からの連絡はすべて記録として出すように言われております。それに従っただけです」
「口答えをするな!」
ジュリアンが手を伸ばしてきた。分厚い革手袋が、ヴィヴィアンの手首をつかむ。
「外聞というものが分からないのか。妻が家出して乗馬通いなどと噂になれば、ランバート家の信用に関わる。今すぐ馬車に乗れ。話は屋敷に帰ってからだ」
強く引かれて、体が前へのめった。
「離してください!」
「黙って従え、君は私の――」
言葉が途切れた。
横から伸びてきた日焼けした手が、ジュリアンの手首を挟んでいた。
乱暴にねじり上げたわけではない。それなのに、ジュリアンの指はひとりでにゆるみ、ヴィヴィアンの手首から離れた。
「っ……!?」
「当クラブの敷地内で、会員様に無理やり触れるのはご遠慮ください」
低く、よく通る声だった。
厩舎から出てきたレオが、ヴィヴィアンを半分背にかばうようにして立っていた。作業用の革の前掛けをしたままだったが、地面に根を張ったような立ち方は、少しも揺らがない。
ジュリアンは痛む手首をさすりながら、顔を赤くした。
「貴様……馬番の分際で、貴族に手を上げる気か! これは夫婦の問題だ、部外者は引っこんでいろ!」
「当クラブの首席指南役、騎士爵レオナルド・ヴァンスです。どなたであっても、会員様の安全と意思を守るのが、この馬場を預かる者の務めです」
レオは目をそらさず、一歩も引かなかった。
「話し合いをなさるなら、ご本人の同意を得て、しかるべき場所でどうぞ。力ずくで連れていくことは、ここでは認められません」
「騎士爵だと? 一代限りの成り上がりが、男爵の私に指図するのか!」
ジュリアンが拳を握り、レオに詰め寄ろうとした。
その前に、ヴィヴィアンが一歩出た。
「おやめください、ジュリアン様」
レオの背中に隠れるのではなく、正面から夫の目を受け止める。指先はまだ冷たかった。けれど、さっきまでの怯えは消えていた。
「レオ指南役は務めを果たされただけです。夫婦の問題だとおっしゃるなら、私がお答えします。あなたと二人きりで話すことは、もう何もありません」
「ヴィヴィアン、君は……!」
「お手紙にありましたね。『今なら寛大な心で許してやる』と。あなたはこの期に及んでも、ご自分が何をしたのか、何を踏みにじったのか、少しも分かっていらっしゃらない」
一言ずつ、確かめるように言った。
「母の形見を黙って持ち出して、初恋の方に渡したこと。二年間、初夜の宣言を盾にして、私を妻としても家族としても扱わず、便利な留守番として使い続けたこと。それを全部棚に上げて、体裁のために私を連れ戻そうとなさる。それが、あなたの言う夫婦なのですか」
「だから、イレーヌは病気なのだと言っただろう! 君のような丈夫な人間には」
「ええ、私は丈夫です」
遮られて、ジュリアンが口をつぐんだ。妻に話を遮られたのは、これが初めてだったのかもしれない。
「私は丈夫で、自分の足で立って、自分で息をしています。だから、自分の人生の手綱を、他人に預けるつもりはありません」
ヴィヴィアンは泥のついた自分の長靴に目を落とし、それから夫を見据えた。
「私の馬の手綱を握るのは、私自身です。あなたに引かれる筋合いは、爪の先ほどもありません。どうぞお引き取りください。次は、教会の審問室でお会いしましょう」
「後悔するぞ! 君の父上が、こんな恥さらしな真似を許すとでも思っているのか!」
ジュリアンは吐き捨てた。だが、厩舎の陰から厩務員たちが何人も、黙ってこちらを見ているのに気づくと、舌打ちをした。
これ以上騒げば、恥をかくのは自分のほうだと分かったのだろう。乱暴に馬車へ乗りこみ、扉を叩きつけるように閉めて、ジュリアンは去っていった。
車輪の音が遠ざかると、街道に静けさが戻った。
ヴィヴィアンは詰めていた息を一度に吐いた。膝が震えて、その場に崩れそうになるのを、長靴の底で踏みとどまる。
「ヴィヴィアン様。大丈夫ですか。どこか痛めてませんか」
「大丈夫です。……ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません。私のことで、あなたのお立場まで危うくするところでした」
「何言ってるんですか。俺の立場なんて、危うくなるほど大したもんじゃありません。ただの馬乗りですよ」
レオはいつものように笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「立派でしたよ。誰の後ろにも隠れないで、自分の言葉で追い返した。……でも、手がひどく冷えてる」
言われて見下ろすと、指先がこわばって白くなっていた。
「少し、厩舎に戻りましょうか。シエロが、きっと首を出して待ってます」
ランプの下で、シエロは本当に馬房から首を出して待っていた。
ヴィヴィアンが近づくと、大きな頭をそっと胸に押しつけてくる。ジュリアンの怒鳴り声で波立っていた心が、温かい毛並みに触れたとたん、すっと静まっていった。
「シエロ。驚かせてごめんなさいね」
「驚いちゃいませんよ。貴女がびくびくしてたのを、感じ取っただけです」
レオが引き綱を渡してくれた。
「少しだけ、一緒に歩いてやってください。馬と並んで、ゆっくり」
ヴィヴィアンはうなずき、シエロを引いて馬房の前の通路を歩きはじめた。
かつ、かつ、と乾いた蹄の音が、静かな厩舎に響く。
息を吸って歩みをゆるめると、シエロもぴたりと同じ速さに落とした。立ち止まれば、シエロの前脚もきちんと揃って止まる。
言葉がなくても、綱一本を通して、自分の呼吸と重心がこの大きな生き物に伝わっている。
(通じている)
どれほど尽くしても、言葉の届かない人がいた。二年かけて返ってきたのは、頑丈で退屈、の一言だった。
けれど、ここでは違う。ごまかさずに向き合えば、馬はちゃんと受け止めて、同じ歩幅で返してくれる。
その手ごたえが、震えていた膝に力を戻してくれた。
「もう、大丈夫です」
シエロの首を撫でて、綱をレオに返す。
受け渡すとき、指先がかすかに触れた。冬の夜なのに、レオの手は驚くほど温かかった。
「ヴィヴィアン様」
レオが静かに名前を呼んだ。指南役の明るさとは少し違う、低い声だった。
「貴女は強い人だ。でも、無理に強がらなくていいですからね。馬の前でも、ここでも」
まっすぐに向けられた目に、胸が小さく跳ねた。
誰にも頼れない、一人で戦うしかないと思い詰めていた心の隙間に、その言葉がまっすぐ染みこんでくる。
この人にすがりたい。一瞬でもそう思わなかったと言えば、嘘になる。
ヴィヴィアンは視線を落とした。ランプの明かりを鈍く返す、銀の指輪。
まだ、終わっていない。教会が婚姻の解消を認めるまで、自分は法の上では人の妻だ。
それに、レオは平民の出の一代騎士として、腕一本でここの信用を築いてきた人だ。自分の揉め事に巻きこんで、人妻との醜聞などという泥を塗るわけにはいかない。
ヴィヴィアンは両手を重ね、指輪を隠すようにして微笑んだ。
「強がってなどいません。シエロと、レオ指南役がいてくださるから、ちゃんと前を向いていられるんです」
生徒としての礼の枠から、一歩もはみ出さない言葉を選んだ。
レオも、重ねた手の下の指輪に目をやった。それから小さく息を吐いて、顔を上げた。
その顔を一瞬、何かをこらえるような色がよぎったのを、ヴィヴィアンは見逃さなかった。
この人も、分かっている。手を伸ばせば届く距離に、越えてはいけない線があることを。
「……ええ。シエロも俺も、いつでもここにいますよ」
レオは半歩下がって、指南役らしくきちんと頭を下げた。
「次は明後日ですね。いよいよ駈足に入ります。覚悟してきてください」
「はい。楽しみにしています」
それ以上は、どちらも何も言わなかった。
厩舎を出ると、夜はすっかり更けていた。
冷たい夜気を胸いっぱいに吸いこみながら、ヴィヴィアンは別邸の灯りへ向かって歩いた。
全部を片づけて、指輪のない手で、胸を張ってこの人の前に立ちたい。
綱を返したときに触れた指の温かさは、別邸の門をくぐるまで、ずっと消えなかった。




