↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
初恋を引きずる夫を残し、私は趣味に生きます  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/10

第3話

 別邸の朝は静かだった。


 庭の敷石に、うっすらと霜が降りている。季節はもう冬に入っていた。ヴィヴィアンは食堂の丸テーブルで白湯を飲みながら、届いたばかりの手紙を見下ろしていた。


 封蝋にはランバート男爵家の紋章。几帳面なくせに角の尖った字は、ジュリアンのものだ。


 ペーパーナイフで封を切ると、インクの匂いと一緒に、夫の苛立ちがそのまま立ちのぼってくるようだった。




『実家へ逃げ帰り、教会へ不当な申し立てをするとは何事か。ショールくらいで家を空け、周囲に無用な詮索をさせるなど、伯爵家の教育を疑う。イレーヌも君の狭量さに心を痛めている。これ以上恥を晒す前に戻り、妻の務めを果たせ。今なら寛大な心で許してやる』




 ヴィヴィアンは一度だけ深く息を吸い、音を立てずに手紙を畳んだ。


 痛くないと言えば嘘になる。二年間尽くした相手から届いた言葉がこれなのだと思うと、やはり体の芯が冷えた。


 それでも、涙は出なかった。


(寛大な心で許してやる、ですって)


 持っていった物を返すとは、一行も書いていない。都合のいい手足を呼び戻したいだけの文面だった。


「マーサ」


 呼ぶと、マーサがすぐに顔を出した。


「この手紙を、このまま教会の調停員の方へ届けてちょうだい。夫からの接触の記録として預かってください、と添えて」


「かしこまりました。……旦那様へのお返事は、お書きにならないのですか」


「要らないわ。話をするのは、あの日の昼で終わったもの」


 マーサは手紙を受け取ると、どこか嬉しそうに頭を下げた。


 夫からの手紙を、心を乱す種にせず、ただの記録として扱う。そう決めただけで、肩の荷がひとつ下りた。




 午前十時、ヴィヴィアンはまた『グリーン・フィールズ』の馬場に立っていた。


 通いは週に三日。最初の筋肉痛は二日ほど残ったが、それさえ不思議と嫌ではなかった。これまで使ったことのなかった体の奥の筋が、一本ずつ目を覚ましていくようだった。


「おはようございます、ヴィヴィアン様。今日も顔色がいいですね」


 シエロを引いて現れたレオは、この寒さの中で袖をまくり、首筋にうっすら汗を浮かべていた。


「おはようございます、レオ指南役。筋肉痛はすっかり引きました」


「よかった。じゃあ今日は予告どおり、軽速歩をやってみましょう」


「速歩……走るのですね」


「そうです。でも、怖がらなくていい。馬の揺れに合わせて、立つ、座るを繰り返すだけです。拍子さえつかめば、常歩よりかえって楽になりますよ」


 今日は手を借りずに、自分で踏み台から跨がった。シエロが、よく来たな、とでも言うように低く鼻を鳴らす。


 手綱を軽く張り、踵で合図を送ると、シエロはなめらかに歩き出した。


「まずは半周、体を温めましょう。顎を引いて。目線は耳と耳のあいだから、十歩先」


 蹄が砂を踏む音が続く。息を吐いて力を抜くこつは、前回でだいぶ分かってきた。


 半周回ったところで、馬場の真ん中に立つレオが、よく通る声を張った。


「手綱を持ち直して、両脚で少し強めにお腹を押して。速歩の合図です!」


 ふくらはぎでぐっと押すと、シエロの歩調ががらりと変わった。


 タタッ、タタッ、タタッ。


 常歩とはまるで違う、硬く鋭い揺れが、下から突き上げてくる。


「ひゃっ」


 視界が跳ね、体が勝手に固まりかけた。


「固まらない! 揺れに逆らわないで!」


 鋭いのに、どこか落ち着いた声が飛んでくる。


「背中が上がってくるときに、お腹を前に出すようにして立つ! 下がるときに、そっと座る! はい、立つ、座る、立つ、座る!」


「た、立つ、座る……っ」


 放り出されそうになりながら、必死で鐙を踏む。


 最初はまるで拍子が合わず、鞍にお尻を打ちつけては、ぶざまに跳ねた。けれど、レオの「いち、に、いち、に」に息を合わせ、膝の力を少しゆるめた、そのとき。


 すっと体が浮いて、次の瞬間、吸いつくように鞍へ戻った。


(あ)


 立つ。座る。


 シエロが前脚を踏み出す揺れと、自分の腰の動きが、ぴたりと噛み合った。


 突き上げてくる衝撃が消える。代わりに、冷たい風を正面から押し分けていく、なめらかな勢いが生まれた。


 タタッ、タタッ、タタッ。


 蹄が乾いた砂を蹴り上げ、風が髪を後ろへ吹き散らす。


「そう、それです! 完璧です、ヴィヴィアン様!」


 レオが馬場の真ん中で、片手を高く上げて叫んだ。


 ヴィヴィアンは息を切らしながら、声を立てて笑った。


 立って、座る。それだけの繰り返しなのに、馬の体の拍子と自分の体の拍子が重なって、一緒に前へ進んでいく。誰の顔色も見なくていい。


 自分の手足と重心だけで、この広い空の下を走っている。


「ふふっ、レオ指南役、私、走れています!」


「ええ、きれいですよ! そのまま、もう半周!」


 冬晴れの空の下、砂ぼこりをかすかに上げながら、ヴィヴィアンは生まれて初めて、速さというものを体で知った。




 レッスンが終わる頃には、ヴィヴィアンもシエロも、うっすら汗をかいていた。


 馬具を外したシエロの体を拭く仕事を、ヴィヴィアンは自分から申し出た。


「お嬢様がそこまでしなくていいんですよ。手入れは裏方の仕事ですから」


「乗せてくれたお礼を言いたいんです。私にできることなら、教えてください」


 レオはしばらくヴィヴィアンの顔を見ていたが、やがて参ったというように笑って、藁の束と硬いブラシを渡してくれた。


「頑固ですね。じゃあ、首からいきましょう。毛並みに沿って、汗をかいたところを小さく丸を描くように」


 ブラシを当てると、温かい毛の下から砂ぼこりがふわりと舞った。力を込めてこすってやると、シエロは気持ちよさそうに目を半分閉じて、鼻から大きく息を吐いた。


「うまいもんです。馬は、雑にこなす人間をすぐ見抜くんですよ。どんなに偉い人が来ても、心がここになきゃ落ち着かない。でも、貴女の手は優しい」


 レオは隣の馬房の扉に背を預け、腕を組んでヴィヴィアンの手元を見ていた。


「優しいだなんて。自分のことで手一杯なだけです」


「そうですか? 初日なんか、今にも折れそうな氷の枝みたいでしたけどね」


 からかうような口ぶりなのに、声は温かかった。ヴィヴィアンの手が止まる。


「……そんなふうに見えていましたか」


「見えてましたよ。息をするのも忘れて、歯を食いしばってた。でも、シエロの上で笑ったのを見て、ほっとしました。ああ、この人はちゃんと前を向こうとしてるんだなって」


 レオは独り言のように言って、天井の梁を見上げた。


「俺は昔、騎兵でした。平民の出ですから、手柄を立てて一代限りの騎士爵をもらっても、土地も金もない。戦場じゃ、つまらない命令ひとつで、馬も仲間も使い潰されるのをさんざん見ました。だから、ここの主に指南役として来ないかと誘われたとき、二つ返事で引き受けたんです。ここなら、馬に無理をさせずに済むから」


「無理を、させずに……」


「人間は言葉でいくらでもごまかせますけど、馬の前じゃ全部ばれるんです。だから俺は、馬にまっすぐ向き合ってくれる人なら、身分も事情もどうでもいい。……ヴィヴィアン様。貴女は、いい乗り手になりますよ」


 胸の奥が、じんと熱くなった。


 伯爵家の娘でも、男爵夫人でもない。馬の首にブラシを当てている今の自分を、この人は見ている。


 ブラシを握る左手が目に入った。薬指には、まだ銀の指輪がある。


 レオの視線が、そこへ落ちたのが分かった。


 それでも、レオはそれ以上踏みこんでこなかった。夫の屋敷ではなく別邸から通っている理由も、手紙一枚で顔をこわばらせる理由も、たぶん察している。


 察したうえで、指南役の線から一歩も出ようとしない。


 冷たいからではない。こちらの立場を守るための線なのだと、ヴィヴィアンには分かった。


(私も、甘えてはいけないわ)


 自分はまだ、法の上では人の妻だ。教会の審問が終わってすべてを片づけるまでは、この温かい場所に泥を持ちこみたくない。


「ありがとうございます、レオ指南役。シエロのためにも、もっと上手になってみせます」


 明るく言うと、レオもいつもの顔で笑ってうなずいた。


「期待してます。次は、歩き方を切り替える合図をもっと細かくやりましょう」




 身支度を整えてクラブの木柵を出たのは、西の空が橙色に染まりはじめた頃だった。


 澄んだ冷気が、火照った頬に心地いい。帰ったら温かいスープを飲もう。そう思いながら歩きかけた足が、門の前で止まった。


 出入り口をふさぐように、見覚えのある馬車が停まっていた。


 黒塗りの車体に、銀で描かれたランバート男爵家の紋章。


 扉がきしんで開き、毛皮の襟の外套を着た男が降りてくる。


 ジュリアンは不快そうに顔をゆがめ、砂利を踏み鳴らしながら、まっすぐこちらへ歩いてきた。


「……やはり、ここだったか」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。