第3話
別邸の朝は静かだった。
庭の敷石に、うっすらと霜が降りている。季節はもう冬に入っていた。ヴィヴィアンは食堂の丸テーブルで白湯を飲みながら、届いたばかりの手紙を見下ろしていた。
封蝋にはランバート男爵家の紋章。几帳面なくせに角の尖った字は、ジュリアンのものだ。
ペーパーナイフで封を切ると、インクの匂いと一緒に、夫の苛立ちがそのまま立ちのぼってくるようだった。
『実家へ逃げ帰り、教会へ不当な申し立てをするとは何事か。ショールくらいで家を空け、周囲に無用な詮索をさせるなど、伯爵家の教育を疑う。イレーヌも君の狭量さに心を痛めている。これ以上恥を晒す前に戻り、妻の務めを果たせ。今なら寛大な心で許してやる』
ヴィヴィアンは一度だけ深く息を吸い、音を立てずに手紙を畳んだ。
痛くないと言えば嘘になる。二年間尽くした相手から届いた言葉がこれなのだと思うと、やはり体の芯が冷えた。
それでも、涙は出なかった。
(寛大な心で許してやる、ですって)
持っていった物を返すとは、一行も書いていない。都合のいい手足を呼び戻したいだけの文面だった。
「マーサ」
呼ぶと、マーサがすぐに顔を出した。
「この手紙を、このまま教会の調停員の方へ届けてちょうだい。夫からの接触の記録として預かってください、と添えて」
「かしこまりました。……旦那様へのお返事は、お書きにならないのですか」
「要らないわ。話をするのは、あの日の昼で終わったもの」
マーサは手紙を受け取ると、どこか嬉しそうに頭を下げた。
夫からの手紙を、心を乱す種にせず、ただの記録として扱う。そう決めただけで、肩の荷がひとつ下りた。
午前十時、ヴィヴィアンはまた『グリーン・フィールズ』の馬場に立っていた。
通いは週に三日。最初の筋肉痛は二日ほど残ったが、それさえ不思議と嫌ではなかった。これまで使ったことのなかった体の奥の筋が、一本ずつ目を覚ましていくようだった。
「おはようございます、ヴィヴィアン様。今日も顔色がいいですね」
シエロを引いて現れたレオは、この寒さの中で袖をまくり、首筋にうっすら汗を浮かべていた。
「おはようございます、レオ指南役。筋肉痛はすっかり引きました」
「よかった。じゃあ今日は予告どおり、軽速歩をやってみましょう」
「速歩……走るのですね」
「そうです。でも、怖がらなくていい。馬の揺れに合わせて、立つ、座るを繰り返すだけです。拍子さえつかめば、常歩よりかえって楽になりますよ」
今日は手を借りずに、自分で踏み台から跨がった。シエロが、よく来たな、とでも言うように低く鼻を鳴らす。
手綱を軽く張り、踵で合図を送ると、シエロはなめらかに歩き出した。
「まずは半周、体を温めましょう。顎を引いて。目線は耳と耳のあいだから、十歩先」
蹄が砂を踏む音が続く。息を吐いて力を抜くこつは、前回でだいぶ分かってきた。
半周回ったところで、馬場の真ん中に立つレオが、よく通る声を張った。
「手綱を持ち直して、両脚で少し強めにお腹を押して。速歩の合図です!」
ふくらはぎでぐっと押すと、シエロの歩調ががらりと変わった。
タタッ、タタッ、タタッ。
常歩とはまるで違う、硬く鋭い揺れが、下から突き上げてくる。
「ひゃっ」
視界が跳ね、体が勝手に固まりかけた。
「固まらない! 揺れに逆らわないで!」
鋭いのに、どこか落ち着いた声が飛んでくる。
「背中が上がってくるときに、お腹を前に出すようにして立つ! 下がるときに、そっと座る! はい、立つ、座る、立つ、座る!」
「た、立つ、座る……っ」
放り出されそうになりながら、必死で鐙を踏む。
最初はまるで拍子が合わず、鞍にお尻を打ちつけては、ぶざまに跳ねた。けれど、レオの「いち、に、いち、に」に息を合わせ、膝の力を少しゆるめた、そのとき。
すっと体が浮いて、次の瞬間、吸いつくように鞍へ戻った。
(あ)
立つ。座る。
シエロが前脚を踏み出す揺れと、自分の腰の動きが、ぴたりと噛み合った。
突き上げてくる衝撃が消える。代わりに、冷たい風を正面から押し分けていく、なめらかな勢いが生まれた。
タタッ、タタッ、タタッ。
蹄が乾いた砂を蹴り上げ、風が髪を後ろへ吹き散らす。
「そう、それです! 完璧です、ヴィヴィアン様!」
レオが馬場の真ん中で、片手を高く上げて叫んだ。
ヴィヴィアンは息を切らしながら、声を立てて笑った。
立って、座る。それだけの繰り返しなのに、馬の体の拍子と自分の体の拍子が重なって、一緒に前へ進んでいく。誰の顔色も見なくていい。
自分の手足と重心だけで、この広い空の下を走っている。
「ふふっ、レオ指南役、私、走れています!」
「ええ、きれいですよ! そのまま、もう半周!」
冬晴れの空の下、砂ぼこりをかすかに上げながら、ヴィヴィアンは生まれて初めて、速さというものを体で知った。
レッスンが終わる頃には、ヴィヴィアンもシエロも、うっすら汗をかいていた。
馬具を外したシエロの体を拭く仕事を、ヴィヴィアンは自分から申し出た。
「お嬢様がそこまでしなくていいんですよ。手入れは裏方の仕事ですから」
「乗せてくれたお礼を言いたいんです。私にできることなら、教えてください」
レオはしばらくヴィヴィアンの顔を見ていたが、やがて参ったというように笑って、藁の束と硬いブラシを渡してくれた。
「頑固ですね。じゃあ、首からいきましょう。毛並みに沿って、汗をかいたところを小さく丸を描くように」
ブラシを当てると、温かい毛の下から砂ぼこりがふわりと舞った。力を込めてこすってやると、シエロは気持ちよさそうに目を半分閉じて、鼻から大きく息を吐いた。
「うまいもんです。馬は、雑にこなす人間をすぐ見抜くんですよ。どんなに偉い人が来ても、心がここになきゃ落ち着かない。でも、貴女の手は優しい」
レオは隣の馬房の扉に背を預け、腕を組んでヴィヴィアンの手元を見ていた。
「優しいだなんて。自分のことで手一杯なだけです」
「そうですか? 初日なんか、今にも折れそうな氷の枝みたいでしたけどね」
からかうような口ぶりなのに、声は温かかった。ヴィヴィアンの手が止まる。
「……そんなふうに見えていましたか」
「見えてましたよ。息をするのも忘れて、歯を食いしばってた。でも、シエロの上で笑ったのを見て、ほっとしました。ああ、この人はちゃんと前を向こうとしてるんだなって」
レオは独り言のように言って、天井の梁を見上げた。
「俺は昔、騎兵でした。平民の出ですから、手柄を立てて一代限りの騎士爵をもらっても、土地も金もない。戦場じゃ、つまらない命令ひとつで、馬も仲間も使い潰されるのをさんざん見ました。だから、ここの主に指南役として来ないかと誘われたとき、二つ返事で引き受けたんです。ここなら、馬に無理をさせずに済むから」
「無理を、させずに……」
「人間は言葉でいくらでもごまかせますけど、馬の前じゃ全部ばれるんです。だから俺は、馬にまっすぐ向き合ってくれる人なら、身分も事情もどうでもいい。……ヴィヴィアン様。貴女は、いい乗り手になりますよ」
胸の奥が、じんと熱くなった。
伯爵家の娘でも、男爵夫人でもない。馬の首にブラシを当てている今の自分を、この人は見ている。
ブラシを握る左手が目に入った。薬指には、まだ銀の指輪がある。
レオの視線が、そこへ落ちたのが分かった。
それでも、レオはそれ以上踏みこんでこなかった。夫の屋敷ではなく別邸から通っている理由も、手紙一枚で顔をこわばらせる理由も、たぶん察している。
察したうえで、指南役の線から一歩も出ようとしない。
冷たいからではない。こちらの立場を守るための線なのだと、ヴィヴィアンには分かった。
(私も、甘えてはいけないわ)
自分はまだ、法の上では人の妻だ。教会の審問が終わってすべてを片づけるまでは、この温かい場所に泥を持ちこみたくない。
「ありがとうございます、レオ指南役。シエロのためにも、もっと上手になってみせます」
明るく言うと、レオもいつもの顔で笑ってうなずいた。
「期待してます。次は、歩き方を切り替える合図をもっと細かくやりましょう」
身支度を整えてクラブの木柵を出たのは、西の空が橙色に染まりはじめた頃だった。
澄んだ冷気が、火照った頬に心地いい。帰ったら温かいスープを飲もう。そう思いながら歩きかけた足が、門の前で止まった。
出入り口をふさぐように、見覚えのある馬車が停まっていた。
黒塗りの車体に、銀で描かれたランバート男爵家の紋章。
扉がきしんで開き、毛皮の襟の外套を着た男が降りてくる。
ジュリアンは不快そうに顔をゆがめ、砂利を踏み鳴らしながら、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「……やはり、ここだったか」




