第2話
昨夜の雨が嘘のように上がり、晩秋の空は高く澄んでいた。
朝のうちに教会へ申し立ての書類を出し、その足で、ヴィヴィアンは丘の上の乗馬クラブ『グリーン・フィールズ』の木柵をくぐった。
社交場の香水と蜜蝋の匂いは、ここにはない。乾いた藁と干し草の甘い匂いに、湿った黒土の匂い。どこかで馬が低く鼻を鳴らし、蹄が板壁を蹴る音がする。
着ているのは、別邸の衣装部屋で見つけた古い乗馬袴と革の長靴だった。姉が少女の頃に使っていたもので、腰回りが少しゆるい。
コルセットを締めていない胴は、息を吸うたびに頼りなくて、そのくせ驚くほど軽かった。
平屋の厩舎へ向かうと、奥の馬房から背の高い男が出てきた。
日に焼けた肌に、短く刈った赤茶の髪。着古した乗馬用の上着の袖をまくり、片手にブラシ、もう片手に手綱を提げている。がっしりした体つきなのに、歩き方には少しの無駄もなかった。
「見学の方ですか? 足元がまだぬかるんでますから、気をつけて」
男は足を止め、人懐こい笑みを浮かべた。琥珀色の目に、秋の日差しが明るく映っている。
「いえ、あの……昨日、カーライル家の別邸から指導をお願いした、ヴィヴィアンと申します」
名乗ってから、ランバート男爵夫人と言わなかった自分に気がついた。男は一度まばたきをして、ああ、とうなずいた。
「伯爵家のお嬢様ですね。今日から担当します、首席指南役のレオナルド・ヴァンスです。レオでいいですよ」
かしこまりすぎず、かといって馴れ馴れしくもない礼だった。平民の出で、戦の手柄で一代限りの騎士爵を受けた元騎兵だと、昨夜、別邸の老執事が教えてくれた。
身分を笠に着る様子も、こちらの身分に媚びる様子もない。
「馬に乗られたことは?」
「小さい頃、父の領地で引き馬に乗せてもらったくらいです。自分で手綱を握ったことは、一度もありません」
「なるほど。じゃあ、まずは相棒の紹介からいきましょう」
レオが手招きした馬房では、白に近い灰色の馬が、のんびりと藁を食んでいた。
「シエロです。今年十五になる、おとなしい芦毛の去勢馬でね。足音だけで人の機嫌が分かるような、うちで一番の賢者ですよ」
首筋をぽんと叩かれたシエロは、耳を前後に動かし、ヴィヴィアンのほうへ大きな鼻先を向けてきた。ふう、と温かい息が胸元にかかる。
「鼻の上を触ってみてください。毛が柔らかいところ」
「……噛んだりしませんか」
「俺の前でそんな行儀の悪いことはしませんよ。ほら、手のひらを見せて」
革手袋を外して手を差し出すと、ベルベットのような鼻先が指に触れた。乾いていて、温かい。
冷え切っていた指先に、生き物の体温がじわりと移ってくる。昨日からずっと固まっていた胸の奥の何かが、少しだけほどけた。
「いい子ね」
口からこぼれた声に、レオが白い歯を見せた。
「匂いを覚えたみたいですね。じゃあ、さっそく乗ってみましょうか」
踏み台を使い、鐙に足を導いてもらって、ヴィヴィアンはシエロの背に跨がった。
ぐらりと視界が持ち上がる。
「あっ」
思っていたよりずっと高かった。馬が少し重心を移すだけで、体ごと持っていかれそうになる。
ヴィヴィアンはとっさに背を丸め、渡された手綱を両手で握りしめた。指の関節が白くなるほど引き絞り、爪先が内側へ巻きこむ。
シエロが嫌がるように首を振った。
(いけない、怒らせてしまう。言われたとおりにしなくては)
失敗してはいけない。誰にも文句を言われないように、きちんとしていなければ。二年間、ジュリアンの前で息をひそめてきた癖が、怖さと一緒に全身を縛った。
肩が上がり、息が浅くなる。
「ヴィヴィアン様」
下から、落ち着いた声がした。
レオがシエロの顔のすぐ横に立って、こちらを見上げていた。呆れた顔も、苛立った顔もしていない。
「手綱を少しゆるめてください。シエロの口が痛がってます」
「で、でも、離したら落ちてしまいそうで」
「落ちませんよ。俺がここで引き綱を持ってますから」
レオは無理に手をほどかせようとはしなかった。固まったヴィヴィアンの拳のすぐ横に、自分の手を置いただけだった。触れてはいないのに、そこにあるのが分かる距離だった。
「怖くて当たり前です。自分よりずっと大きな生き物の背中にいるんですから。怖がっていいんですよ」
ヴィヴィアンは目を見開いた。
初めてだった。そんなふうに言ってもらえたのは。頑丈で退屈だと言われ、寒さも我慢して当然だと言われてきた。怖いと思うことさえ、わがままだと自分に禁じていた。
「息を、ゆっくり吐いてみてください。お腹の底の空気を、全部出すつもりで」
「……ふう」
「そう。肩を下ろして。馬の背骨の上に、腰をぽんと乗せるだけです。手綱はね、馬を縛る鎖じゃないんですよ。手紙のやり取りみたいなもんです。そんなに強く引いたら、怒鳴り声しか届きません」
言われるまま、少しずつ指の力を抜いた。張り詰めていた手綱がゆるむ。シエロが満足そうに鼻を鳴らし、片方の耳をこちらへ向けた。
「ゆるみました」
「上出来です。じゃあ、一歩だけ歩いてみましょう。踵で、お腹を軽くとん、と。歩こう、の合図です」
長靴の踵で、そっと脇腹を押す。
一拍おいて、シエロが右の前脚を踏み出した。
ゆらり、と世界が揺れた。
背骨を通って、太い筋肉の動きと地面の硬さが伝わってくる。四本の脚が順に動き、景色がゆっくりと前へ流れはじめた。
常歩。ただ、馬が歩いているだけだ。
それでも、誰かに腕を引かれているのでも、馬車の箱に閉じこめられているのでもない。吹きさらしの風の中で、自分の合図ひとつで、この大きな生き物が前へ進んでいる。
「……動いた」
「ええ。貴女の合図を、シエロがちゃんと聞いたんです」
隣を同じ速さで歩きながら、レオが笑った。
「いい姿勢ですよ。背中がまっすぐだ。風、気持ちいいでしょう?」
頬に当たる風は冷たかった。なのに、寒くはなかった。馬の背から上がってくる熱と規則正しい揺れが、こわばった体を内側から温めていく。
「はい……! とても、気持ちがいいです」
ヴィヴィアンは笑っていた。
社交の場で貼りつけてきた微笑みとは違う。胸いっぱいに息を吸ったら勝手にこぼれてきた、子どもみたいな笑いだった。
レオが一瞬、言葉をなくしたようにこちらを見上げた。それから慌てて咳払いをして、「よし、この調子で柵沿いにもう一周いきましょう」と声を張った。
その耳の先が、ほんのり赤い。
三十分ほど常歩を続けて、踏み台を使って降りたとたん、両足ががくがくと震えた。
「おっと。足に力が入らないでしょう」
差し出されたレオの腕に、ヴィヴィアンはとっさにつかまった。体勢を立て直すと、レオはすぐに腕を引いた。
「内ももを使った証拠です。初めてにしては、筋がいいですよ」
「お世辞がお上手ですね。生まれたての仔馬みたいに、足が笑っていますのに」
「お世辞じゃありません。シエロは乗り手が怖がってると、すぐ立ち止まるんです。今日は一度も止まらなかった」
レオはシエロの鞍を外し、厩舎の脇の井戸のそばへ連れていった。ヴィヴィアンも後を追い、木のベンチに腰を下ろす。
内ももがじんじんと熱く、手のひらにはまだ手綱の感触が残っていた。
「はい、どうぞ」
差し出されたのは、使いこまれた錫のカップだった。汲みたての井戸水が入っている。
「ありがとうございます」
一口飲むと、喉が痛いほど冷たかった。ランバート邸の食卓で、夫の帰りを待つうちにいつも冷めてしまった紅茶とは比べものにならない、はっきりした味がした。
レオは腰の小刀を抜き、木箱から取った真っ赤な林檎を手早く四つに割った。芯を落とし、二切れをシエロの口元へやる。シエロはしゃくしゃくと音を立てて食べた。
「馬は、林檎が好きなんですね」
「大好物です。で、これは生徒さんの分」
一切れを小刀の背に乗せて、こちらへ差し出してくる。
ヴィヴィアンは目をしばたたいた。外で、切ったばかりの果物を手でつまんで食べる。社交界なら眉をひそめられる振る舞いだ。
けれどレオの顔には、こちらを試すような色はどこにもなかった。うまいものがあるから分ける。ただそれだけの顔だった。
「……いただきます」
素手で受け取って、端をかじる。皮がぱりっと弾けて、甘酸っぱい汁が口いっぱいに広がった。
「甘い」
「でしょう? 近所の果樹園から、売り物にならないのを安く分けてもらってるんですけどね。味は一級品なんです」
レオも最後の一切れを口に放りこみ、がりがり噛みながら空を仰いだ。人の顔色をうかがう卑屈さも、見栄も、その横顔にはなかった。
林檎を持つ自分の左手に、ヴィヴィアンは目を落とした。薬指で、銀の結婚指輪が冷たく光っている。教会が婚姻の解消を認めるまでは、外すことのできない輪だ。
レオの視線も、一瞬だけその指をかすめた。
けれど、彼は何も訊かなかった。伯爵家の娘がなぜ平日の昼間に一人でこんなところへ来るのか。なぜ指輪をしたまま、逃げこむように馬にしがみついていたのか。
ただ、からりとした声で言った。
「次は明後日でいいですか?」
「ええ……ご迷惑でなければ」
「迷惑なわけないでしょう。シエロも待ってますよ。次は、自分で手綱を使う感じをつかんでみましょう」
「はい。よろしくお願いします、レオ指南役」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
別邸に帰って手袋を外すと、指先から、まだ林檎と馬の匂いがした。
洗い流してしまうのが、なんだか惜しかった。




