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初恋を引きずる夫を残し、私は趣味に生きます  作者: 九葉(くずは)


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第1話

 母の形見のショールが、箪笥から消えていた。


 ヴィヴィアンは一番下の引き出しを奥まで引き抜き、もう一度手を差し入れた。乾燥させたラベンダーの花袋に指が触れる。


 その奥に、薄紙に包んでしまっておいたはずの柔らかな手触りがない。


「……ないわ」


 声に出したとたん、朝の寝室の冷たさが肌に迫ってきた。晩秋の風が窓枠の隙間から入りこみ、麻のレースカーテンをかすかに揺らしている。吐く息が白い。


 なくすはずがなかった。ヴィヴィアンが五歳のときに亡くなった母が、病床で糸を紡ぎ、縁に小さな撫子を刺して残してくれた、ただ一つの形見だ。


 傷めるのが怖くて、外へ持ち出したことさえない。年に数度、風を通すときだけ箪笥から出す宝物だった。


 引き出しを全部抜き、棚の隙間も寝台の下も、膝をついて覗いた。灰色のショールは、どこにもない。


 ヴィヴィアンは立ち上がって裾の埃を払い、呼び鈴の紐を引いた。




 駆けつけてきたのは、女中頭のマーサだった。ヴィヴィアンが嫁ぐときにカーライル伯爵家から付いてきて、今ではこの家の家事を取り仕切っている初老の女だ。


「お嬢様……いえ、奥様。どうなさいました、まだお召し替えもなさらずに」


「マーサ、私の箪笥に誰か触れたかしら。一番下に入れておいた灰色のショールが見当たらないの」


 マーサは眉を寄せ、それから何かに思い当たったように目を伏せた。


「昨夜遅く、旦那様がお戻りになって、燭台を手にこちらのお部屋へ入っていかれました。奥様がお休みなのを確かめてから、と……。すぐに包みを抱えて出てこられて、そのまままた馬車でお出かけに」


「ジュリアン様が?」


「ひどくお急ぎのご様子で、お声をおかけできませんでした。申し訳ございません。私がお止めしていれば」


「いいのよ。あなたのせいじゃないわ」


 胸の奥がすっと冷えていった。行き先には、見当がついていた。すぐに見当がついてしまうことが、何より情けなかった。


「下がっていいわ、マーサ」


「ですが、お顔の色が真っ白でございます。せめて温かいお茶を」


「少し一人で考えたいの。ありがとう」


 マーサが何度も振り返りながら出ていくと、部屋はまた静かになった。




 ヴィヴィアンは寝台の端に腰を下ろし、冷えたシーツに手のひらを当てた。


 この寝室の調度は、夫のジュリアン・ランバート男爵の好みで揃えられている。白木の家具に、象牙色の布。飾りのない銀の燭台。清潔で、人の暮らす温度がない。


 二年前の婚礼の夜を、ヴィヴィアンは今でもはっきり覚えている。


 カーライル伯爵家の次女と、王宮の財務局に勤める若い官吏のランバート男爵。傾きかけた男爵家は伯爵家の持参金と後ろ盾を必要とし、伯爵家は堅実な婿を望んだ。


 どこにでもある政略結婚だった。


 ヴェールを外したヴィヴィアンの前で、ジュリアンは一度も目を合わせなかった。祝いの酒の匂いをさせたまま、他人の訃報でも読み上げるような声で言ったのだ。


『初めに言っておく。私の心は今も彼女にある。君を妻として愛する気はない』


 彼女というのは、ジュリアンが少年の頃から想い続けてきた子爵令嬢、イレーヌ・マクスウェルのことだった。


 生まれつき胸が弱く、いつも青白い顔をした儚げな人だと聞いている。


 ジュリアンは彼女を妻に望んだが、当時のランバート家には病弱な花嫁を迎える余裕がなく、親族の反対を押し切れなかった。


 イレーヌは親子ほども年の離れた裕福な貿易商の後妻に入り、ジュリアンの胸には「守れなかった初恋」だけが残った。


『私は病弱な彼女を見捨てた罪人だ。せめて操だけは、彼女のために守っておきたい。すまないが、形だけの妻でいてくれ』


 そう言って背を向け、客間へ去っていった夫の背中を、ヴィヴィアンは黙って見送るしかなかった。


 波風を立てずに家を支えるのが妻の務めだと教えられて育った。愛がなくても、誠実に家を守っていれば、いつか家族としての情くらいは通うかもしれない。


 そう信じて、二年間、何も言わずにきた。


 夫の上着にブラシをかけ、寒い夜には温かい食事を用意し、乏しい家計をやりくりして、使用人たちが働きやすいよう気を配った。


 昨年夫を亡くしたイレーヌのもとへ、ジュリアンがたびたび見舞いに通っていると知っていても、一度も責めなかった。彼の古傷に触れないことが、妻の慎みだと思っていたからだ。


 その結果が、空っぽの引き出しだった。




 昼前になって、玄関で馬車の止まる音がした。


 階段を上がってくる足音がして、ノックもなく扉が開く。


 仕立てのいいウールの外套を着たジュリアンは、目の下に夜明かしの疲れを残していた。それなのに顔つきはどこか満ち足りていて、大役を果たした男のような安堵さえ浮かべている。


「ヴィヴィアン、ひどい顔色だな。マーサが朝から落ち着かない様子だったが、何かあったのか」


 外套のボタンを外しながら、いつもと変わらない調子で言う。


 ヴィヴィアンは立ち上がり、夫の顔をまっすぐに見た。


「ジュリアン様。昨夜、私の箪笥から灰色のショールを持ち出されましたね」


 ジュリアンは一瞬だけ眉を上げたが、慌てる様子はなかった。なんだ、そのことか、とでも言いたげに小さく息をつく。


「ああ、すまない。急いでいたから、断る暇がなかったんだ。昨夜、イレーヌが急な冷えこみでひどく咳きこんで、熱を出したと知らせがあってね。あの屋敷は暖炉の煙突の具合が悪くて、部屋が底冷えしていた。何か暖かいものをと考えて、君の箪笥にちょうどいいのがあったのを思い出した」


「……イレーヌ様に、私のショールを?」


「そうだ。織りが細かくて暖かいと、彼女も喜んでいたよ。おかげで明け方には咳も落ち着いた。君の持ち物だと話したら、ずいぶん感謝していた」


 ジュリアンは何もやましいことなどないという顔で、テーブルの水差しに手を伸ばした。


 ヴィヴィアンの指先が震えた。


「あれは、母の形見です」


「知っているよ。だから上等なんだろう」


「知っていて、持ち出されたのですか」


 声が低くなった。ジュリアンはグラスに水を注ぎながら、不快そうに眉根を寄せる。


「大げさだな。盗んだわけじゃない、少し貸しただけだ。熱を出して苦しんでいる人がいるのに、布切れ一枚で目くじらを立てるものじゃない」


「布切れ……」


「形見といっても、物は物だろう。なくなったわけじゃないし、彼女の具合が良くなれば返してもらえる。それに君は丈夫で、寒さにも強い。凍えながら朝を待つ病人のつらさは、君には分からないかもしれないがね」


 ヴィヴィアンは言葉に詰まった。


「私は丈夫だから、大切なものを持っていかれても我慢しろとおっしゃるのですね」


「何をひがんでいるんだ」


 ジュリアンはグラスを置き、苛立ったように腕を組んだ。


「私が彼女を気遣うのが、そんなに気に入らないのか? 初夜にも言っただろう、私の心は彼女にあると。君は承知でこの家に来たはずだ。今さら病人に嫉妬して当てつけるなんて、みっともないと思わないのか」


「嫉妬などしておりません」


「なら、物分かりよく笑っていればいい。君のそういう頑丈で退屈なところが、ときどきひどく冷たく見えるんだよ。少しはイレーヌを見習ったらどうだ。彼女はいつも、人の痛みに涙を流せる人だ」


 頑丈で退屈。


 その一言で、ヴィヴィアンの中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。


 悲しいとも、悔しいとも思わなかった。頭の芯だけが、妙に冷たく澄んでいく。


 二年だ。どれほど冷たく背を向けられても、家族になろうとしてきた。


 この人が冷たいのは初恋を守れなかった傷のせいだと思い、いつかは自分を一人の人間として見てくれる日が来ると、信じようとしてきた。


 けれど、この人の目に映っていたのは、丈夫だから何を取り上げても構わない女だけだった。母の形見を持っていかれても文句を言わず、初恋の人を引き立てる背景でいること。


 それを、この人は妻の美徳と呼んでいた。


「よく分かりました」


 ヴィヴィアンは静かに言った。


 怒鳴りもせず、泣きもしない妻を前にして、ジュリアンのほうがかえって落ち着かなげに身じろぎした。


「分かればいいんだ。ショールは折を見て返してもらうから、それまで待っていてくれ」


「いいえ。返していただかなくて結構です」


「……何?」


「あなたから返していただく必要はありません。父と姉を通じて、正式に返却を求めます。それから、ジュリアン様。あなたとの暮らしは、今日で終わりにいたします」


 ジュリアンはぽかんと口を開け、それから鼻で笑った。


「脅しのつもりか? ショール一枚で離縁を口にするのか。馬鹿馬鹿しい。私と別れて、実家にどんな顔で帰るつもりだ」


「脅しではありません。今日のうちに荷物をまとめて、実家の別邸へ移ります」


 ヴィヴィアンは書き物机の引き出しから、革表紙の帳面を取り出した。二年分の家政の覚え書きだ。


 出入りの商人、使用人の給金、季節ごとの屋敷の手入れ、夫の好みまで、すべてここに書いてある。その上に、預かっていた金庫の鍵を置いた。


「初夜に、あなたは一方的に夫婦としての暮らしを拒まれました。私は家のためと思って、二年間それに従いました。けれど、あなたに私を一人の人間として扱うおつもりがないことは、今日よく分かりました。明日の朝、教会へ婚姻の解消を申し立てます」


「こ、婚姻の解消だと!? 正気か! 白い結婚など、貴族の間では珍しくもないだろう!」


「ええ。お互いが納得していれば、の話です。私には選ぶ余地がありませんでした。そして今日、あなたは私の母を踏みにじった。これ以上、あなたの感傷のために、私の時間を一日でも差し出す理由はありません」


 鍵が、帳面の上でことりと鳴った。


 ジュリアンは顔を赤くして何か言いかけたが、ヴィヴィアンの目を見て、言葉を飲みこんだ。


「本気で言っているのか? 後悔するぞ。出戻りの女が社交界でどう見られるか」


「どう見られようと構いません。あなたの冷たい寝室で息を殺して暮らすより、ずっとましです」


 ヴィヴィアンは、もう夫の顔を見なかった。


 マーサを呼び、身の回りの物だけを鞄に詰めた。マーサは何ひとつ問わずに手を動かし、最後に自分の外套を羽織って言った。


「お供いたします、お嬢様。私は伯爵家から、お嬢様に付いてまいった者でございますから」


 廊下で立ち尽くすジュリアンを残して、二人は玄関の扉を開けた。




 冷たい小雨が降り出していた。


 呼んだ辻馬車が、泥を跳ね上げながら坂を下りていく。遠ざかっていくランバート邸の白い屋根を窓から眺めながら、ヴィヴィアンは鞄を膝の上で抱えた。


 すっきりした、という気持ちはどこにもなかった。


 母の形見を持っていかれた悔しさ。誠意を尽くせば人は変わると信じて、二年を無駄にした自分へのやるせなさ。


 指先が氷のように冷たく、歯の根が合わなくなってきて、ヴィヴィアンはきつく唇を結んだ。


(泣いてはだめ。もう、あそこには戻らないのだから)


 隣でマーサが黙って、自分の膝掛けをヴィヴィアンの膝に広げてくれた。


 一時間ほど揺られて、馬車は王都の西の郊外にある、カーライル家の古い別邸に着いた。


 母が生きていた頃、夏を過ごすのに使っていた平屋の小さな館だ。先に使いを走らせておいたので、管理を任されている老執事が玄関で待っていて、暖炉にはもう薪が燃えていた。


 日が暮れる頃、王都の本邸から姉の使いが来た。短い手紙が添えられていた。


『ヴィヴィアンへ。よく決めたわね。父上には私から話しました。ショールは、どんな手を使ってでも必ず取り戻します。あなたは何も心配しないで、ゆっくり休みなさい。姉より』


 手紙を胸に当てると、ようやく喉の強張りがほどけて、涙が一粒こぼれた。


 ジュリアンのもとへ戻る気は少しもない。けれど、二年かけて擦り減ったものは、一晩で戻ってくるものでもなかった。




 薪のはぜる音を聞きながら、ヴィヴィアンは窓の外に目をやった。


 雨に煙る向こうに、なだらかな丘が続いている。


 幼い頃、夏にこの別邸へ来るたびに、あの丘の牧草地ばかり眺めていたことを思い出した。


 泥だらけの大きな馬たちが、湯気を立てながら草の上を駆けていく。「お嬢様が近づく場所ではございません」と乳母に手を引かれても、柵にしがみついて離れなかった。


 手綱を握って風を切っていく人たちの得意そうな横顔を、飽きもせずに見ていた。


(私、ずっと乗ってみたかったんだわ)


 誰の機嫌をうかがうためでもない。ただ、自分がそうしたいから。


 ヴィヴィアンは呼び鈴を鳴らし、顔を出した老執事に尋ねた。


「あの丘に、今も乗馬を教えてくれるところはあるかしら」


 老執事は目を丸くして、それから皺だらけの顔をほころばせた。


「ございますとも。明日にでも、話を通しておきましょう」


 二年ぶりに、自分のために何かが欲しいと思った。


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