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チート治癒師の無能令嬢、命を救っただけなのに異世界王子に溺愛されてます  作者: 渚月(なづき)


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第十話 九つの影が消えたあとで

レイドル師長の執事は、小さな木箱を一つ抱えていた。白髪の頭を深く下げ、箱を差し出す。


「亡き師長より、もしもの時にはこの箱をストラウド嬢にお渡しするよう申しつかっておりました」


「……いつからお預かりに」


「昨年の冬からでございます。半年以上、私のもとで眠っておりました」


わたしは息を整え、木箱を受け取った。蓋を開ける。中には古い革表紙の手記と封筒が一通入っていた。


手記はレイドル師長の若い頃からの薬草の研究日誌だった。最初の頁には若い女性の名が小さな字で書かれていた。彼の若い頃の恩師、女の治癒師だった人の名だ。


彼女は才能があったが、宮廷に受け入れられず、失意のうちに若くして亡くなっていた。師長はその恩師の研究を自分一人の名で発表し、今の地位を得ていた。


盗んだものを抱え続けてきた罪悪感が、彼を若さの薬に長年縛りつけた。


手記の途中には恩師の治癒術の図解が丁寧に写し取られていた。


彼は恩師の技を盗んだのではない。恩師の技を誰にも渡したくなかったのだ。自分だけのものにしておきたかった。


それは愛と呼ぶには歪んでいたが、ただの悪意でもなかった。


手記の最後の頁には細い字でこう書かれていた。


『ストラウド嬢を、憎みきれなかった。彼女の中に、私の恩師が生きていた。彼女の手の動きは、彼女によく似ていた。私は、また負けた。そして、今度こそ、負けてよかったと思う』


わたしは手記をそっと閉じた。


(……あなたの『若さ』は、ただ、恩師に許されたかっただけだったのですね。)


封筒の中には一枚の便箋と小さな鍵が入っていた。便箋には医務室の奥の棚の位置とその中に隠された宮廷用の薬草種子の目録があった。


それはレイドル師長がいつか必要な時に、宮廷ではなく民のために使ってほしいと、ひそかに残していた種子だった。柳、ヤドリギ、セイヨウサンザシの類。病院を持たない村に産婆の手で届けば命を救える薬草の数々。


「キエラ、これを町の薬草師たちに配ってください。サランさんが生きていたら、きっとそうしたと思うから」


「……はい、お嬢さま」


キエラの目に一度だけ涙が光った。


それから数日、王宮は日常に戻り始めた。宮廷治癒師長の席は空席のまま、一時的に副長が引き継いだ。殿下はわたしを「助手」から「治癒顧問」へと正式に任命した。


わたしは棚を整え、薬草の並びを改め、見習いに「観察・仮説・検証・証拠」の順で患者を見るように教えた。誰ももうわたしを「光らない娘」とは呼ばなかった。




ある午後、医務室の窓辺で、わたしは殿下の隣に立っていた。窓の外、王宮の中庭に薔薇が咲きはじめていた。


「殿下。あの夜、もしわたしが黙っていたら、あなたは」


「あの夜、あなたが声を上げたから、私は今ここにいる。あなたが黙っていたらの話はしないでいい」


「殿下、姉さまは今、お元気ですか」


「健康ではある。心の方は時間がかかるだろう。ただ、兄上の報せには一行だけこうあった」


殿下は紙を取り出し読み上げた。


『妹のことは時折思い出している。自分より先に進んだ者を憎まずに思い出せるのは、自分が前よりは少し静かになった証かもしれない』


わたしは窓の外に視線を逃がした。薔薇の一つが風でゆれていた。


(……姉さま。わたしは、いつか、同じ風の下で、あなたともう一度話せるでしょうか。)


数日後、父が古びた一冊の本を差し出した。叔母が若い頃に書いたという治癒師のための手引きだった。


「お前の治癒の力は、お前一人のものではない。この家系が長く受け継いできたものだ」


「……父上」


「お前が光らなかったのは、教え方が違っていたからだ。叔母の本をきちんと渡してこなかった、私の怠慢だ」


頁を開くと、前世で読んだ看護の教科書とよく似た並びで症状と処置が整理されていた。わたしは本を胸に抱いた。長く埋もれていた宝をようやく手に取ったような温かさがあった。


叔母の字は細く整っていた。余白には自分の失敗した症例が正直に記されていた。


「この処置は効果がなかった」「次回は量を半分にする」「患者の声をもっと聞くべきだった」


叔母もまた試行錯誤を重ねた治癒師だった。前世のわたしとこの世界の叔母が、同じ道を歩いていたのだ。


季節が一つ移った。わたしは医務室の改善を続け、殿下は王太子殿下と共に派閥の残務を片付けていた。


ある夜、医務室の灯りの下で、わたしは自分の掌を見た。最初の晩餐会の夜、震えていた掌。今、同じ掌は静かに開いている。


(……わたしは、もう自分を無能とは思わない。光らない娘でもない。ただの一人の治癒師として、ここに立っている。)


殿下が、医務室の扉をゆっくり開けた。外套の裾に夜気をまとわせている。


「ミアレット、外へ出ないか。月が出ている」


わたしは掌をたたみ、うなずいた。二人で中庭の薔薇のそばを歩いた。少し先を殿下が歩く。半歩後ろをわたしが歩く。


歩幅は最初はずれていた。殿下が途中で足を少しゆるめた。わたしの歩幅に合わせてくれた。二人分の足音が石畳の上で一つの拍子になった。


合わせるのではなく、待ってくれた。


それがこの方のやり方だった。先を走るのでも後ろから押すのでもなく、隣でわたしの一歩を待ってくれる。


薔薇のアーチの下で、殿下が立ち止まった。


「ミアレット。あなたが私の隣にいることで、私は兄上の影からようやく一歩踏み出すことができた」


「殿下」


「これからあなたが治癒の場で苦しむ夜があっても、私はあなたの隣であなたの歩幅を待つ」


殿下はわたしの手の甲に唇を寄せた。とても短いふれあいだった。けれどその短さの中に、長い年月を一緒に歩く約束が静かに畳み込まれていた。


わたしは殿下の胸元に額を寄せた。心臓の音がゆっくりと響いている。夜の風が薔薇の香をふわりと運んだ。


九つの影が王宮からそれぞれの場所に散っていった。彼らはわたしの鏡だった。鏡が割れた後、彼らは自分自身を少しずつ見はじめている。


レイドル師長の手記はわたしの机の奥に静かにしまわれた。サランの店には若い薬草師見習いが入り、干し薬草の札が新しく結ばれた。姉の写真は今もストラウド家の大広間にかかったままだった。それをわたしは下ろさなかった。いつか姉が帰ってきた時のために。


わたしは中庭を歩きながら、自分の足音を確かめるようにそっと一歩、また一歩と踏み出していった。


隣には殿下がいた。前にも後ろにももう誰もいない。


ただ、月の光が、二人分の影を、長く、石畳に落としていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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