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チート治癒師の無能令嬢、命を救っただけなのに異世界王子に溺愛されてます  作者: 渚月(なづき)


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第九話 治癒師長の棚は鍵を失くす

蜂起の知らせは、夜を二つに割った。


殿下は、王太子殿下と城の中央広間へ向かった。わたしは医務室に残り、覚悟を決めた。戦が起これば、怪我人が出る。治癒師は、戦場ではなく、治癒の場で戦う。


「キエラ、棚の清浄布、湯、蜂蜜、どれくらい残っていますか」


「清浄布は十分。湯はこれから沸かせば間に合います。蜂蜜は今夜分と予備が一壺」


「見習いの方々にも、手順を紙で配ってください」


「お任せを」


未明、王都の郊外でヴァルクト派閥の残党は動いた。事前にアンネリーゼの供述から場所が洗い出されていた。抵抗は短く、そして鋭かった。


小競り合いの末、数名の負傷者が王宮に運ばれてきた。わたしとキエラ、そして治癒師たちで処置を分担した。


「傷口はまず、きれいな湯でゆっくりと洗います。こすってはいけません」


「血が止まらない患者は」


「圧迫止血です。強く、長く、同じ場所を押さえる。清潔な布を一枚当てて、その上から途中で離さずに押さえ続けます」


見習いたちは頷き、手を動かしはじめた。


止血は単純だが忍耐がいる。押さえ続ける手が疲れて緩めれば、また血が流れる。


前世の救急病棟で先輩の看護師に言われた言葉を思い出す。「止血は技術じゃない。覚悟だ」と。


この世界でも命を守る原理は変わらない。


切り傷にはきれいな湯で洗ってから圧迫止血。その上で、前世で習った『湿潤療法』の原理を、この世界の布と蜂蜜を使って再現した。


蜂蜜には古くから傷の悪化を防ぐ力があると各地の民間療法で伝えられている。これは前世の教科書でも天然の抗菌作用として確かな根拠のある知恵だった。


古代の文明でも蜂蜜は傷薬として使われていた。糖分が高いため、細菌が繁殖しにくい環境を作る。さらに蜂蜜に含まれる微量の過酸化水素が、穏やかな殺菌作用を発揮する。


前世の教科書にも記されていた確かな知恵だ。自然界が用意してくれた薬は、どの世界でも同じように人を救う。


傷口が乾かないように清潔な布で覆う。感染を防ぎ、治りを早める。治癒師たちはわたしの手順を一つ一つ紙に書き留めていた。


夜明け前、殿下が戻ってきた。左の肩に、浅い切り傷があった。


「殿下、お座りください」


殿下は素直に椅子に腰を下ろした。わたしは湯で傷を洗い、蜂蜜を塗り、布で覆った。


「本当は医務室長がなさる処置ですが、今夜はわたしが」


「あなたに、してもらいたかった」


殿下の声は低く静かだった。わたしは包帯を結びながら、顔を上げないようにした。見上げれば涙がこぼれそうだった。


殿下の呼吸がわたしの指先から伝わる。深く穏やかで、生きている。


この手が殿下の傷を塞いでいる。この手はもう震えない。


午前、王太子殿下がわたしを広間に呼んだ。広間の中央には白い布を被せられた台があった。レイドル師長の亡骸だった。


未明、取り調べのために一度意識を取り戻した師長は、長い供述を終えたあと、自分の懐から小瓶を取り出した。看守が奪う前に一気に飲んだ。心臓がもう持たなかった。


「あの男は、最後に、自分で幕を引きたかったのだろう」


「……殿下。師長は供述で何をお話しくださったのですか」


「自分の罪を全て認めた。サランの殺害、ヴァルクト派閥との癒着、アンネリーゼ嬢の指導、そして毒杯の夜の黒幕」


「……黒幕も師長だったのですか」


「指示は師長から出ていた。動かしていたのはアンネリーゼ嬢だった」


わたしは白い布の上にそっと掌を置いた。冷たさが掌に移る。


(あなたの誤りを、あなた自身が最後に自ら罰した。)


涙は出なかった。ただ、祈った。次の治癒師が同じ誤りを繰り返さないように。




その日の昼過ぎ、王宮は静かになった。派閥の残党はほとんどが捕らえられた。上級侍女長は修道院送り。ヴァルクト商会は取り潰された。


義姉アンネリーゼは、ストラウド伯爵家から籍を抜かれ、遠方の領地に幽閉された。


父は廊下の隅で、わたしの肩に震える手を置いた。


「ミアレット。……お前を光らない娘と呼ばせたのは、この家の怠慢だった」


「……父上」


「許してくれとは言わない。ただ、お前が選ぶ道をもう止めない」


「父上、わたしはストラウドの娘であることを恨んではおりません」


「……お前は」


「恨まないことと許すことは別です。許すのは、これからの時間です」


父はわたしの顔をじっと見た。


その目は初めて、わたしを「末の娘」ではなく「一人の人間」として見ていた。


長い沈黙があった。父の喉が一度上下した。


父はうなずくようにして去っていった。わたしは廊下の壁に背を預け、ゆっくり息を吐いた。長く凍っていた何かが、胸の奥でほどけていくのを感じた。


夕刻、キエラが紙束を持ってきた。九人の男の現在の行方の一覧だった。


「お嬢さま、ご覧になりますか」


「……ええ、見ます」


キエラは紙を広げた。侍女たちの情報網で一人一人の現況を調べ上げてくれていた。


わたしは一つ一つの名前を指でなぞるように読んだ。


ハロルド 男爵家勘当 田舎に流される。ギード 衛兵解任 実家の牧場で牛飼い。エミル 見習い解任 寺院の薬草園で下働き。バルト 商会追放 田舎の支店で事務見習い。レゼル子爵 子爵位返上 辺境警備隊の下士官。ユーイン 教職追放 写字室の写字工。ヴォルス 傭兵団長解任 団解散後に農夫へ。ドミク 楽士解任 地方の吟遊詩人。レイドル 死去。


キエラは紙の最後に一言だけ書き添えていた。


『誰も、お嬢さまを恨んではおりません』


「お嬢さま、あの方々はそれぞれの地で今、生き直しておいでです」


「キエラ。……あなたはいつもわたしを支えてくれましたね」


「いいえ、お嬢さま。お嬢さまがご自分で立たれたのです。わたくしは隣にいただけでございます」


わたしは紙の束を胸に抱えた。


夜、医務室で殿下がわたしの前に立った。


「ミアレット」


「はい、殿下」


「昨夜訊けなかったことを、今訊いてもいいか」


「どうぞ、殿下」


殿下は一度窓の外を見た。王宮の窓からは王都の夜景が遠くまで続いていた。


「ミアレット・ストラウド。あなたが、あなた自身のまま、私の隣を歩く気はあるだろうか」


わたしは息を吸った。声を出す前に、涙の方が先に頬をすべった。


「……はい、殿下。わたしの歩幅のままでよろしければ」


「それが、いい」


殿下はそっとわたしの額に唇を寄せた。触れるか触れないかというほどの温かさだった。わたしは手のひらを殿下の外套の胸元にそっと当てた。心臓の音が聞こえた。わたしの鼓動と同じ速さだった。


部屋の外で、控えめな足音がした。扉が叩かれる。キエラでもドルガン卿でもない、聞き慣れない足音。


「オスカー殿下。そして、ストラウド嬢。お話がございます」


その声はレイドル師長の遺した執事の声だった。


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