第八話 楽譜に混ざる偽の音符
三日後の夜まで、時間は短かった。けれど、わたしには、やるべきことがはっきり見えていた。
観察、仮説、検証、証拠。レイドル師長の薬の配合を、正面から崩す。
翌朝、わたしは医務室で棚を全て開け放った。薬草を一つずつ匂い、手触りを確かめ、産地と等級の札を読み直した。
レイドル師長が長年、夜更けに煎じていたという薬湯の材料を逆算する。若さを保つと称する薬は、古くから、トリカブトの極微量、ジギタリスの葉、それに強い香油を混ぜて作られることがあった。
どれも、量を一歩間違えれば、即座に人を殺す素材だ。前世でも、ジギタリスは「強心薬」として使われる一方、量を間違えれば心臓を止める薬として知られていた。
トリカブトは、神経を痺れさせ、動悸を狂わせる。それらを毎夜ごく少量飲み続ける。
前世の薬学ではこれを「慢性中毒」と呼んだ。
少量の毒を長期間摂取すると、身体は少しずつ毒に慣れる。けれど「慣れる」のと「害がなくなる」のは違う。臓器は静かに確実に蝕まれていく。
気づいた時には手遅れだ。
――若さ、ではない。彼は、自分の身体を、ゆっくり麻痺させていたのだ。痛みを感じない、感覚の鈍った身体。それを、彼は「若さ」と錯覚していた。
解毒の方向を考えた。ジギタリス中毒に対しては、前世ではカリウムの調整や活性炭、抗体療法まであった。この世界では、そこまで高度な手は使えない。
けれど初歩の処置ならできる。吐かせる。吸着させる。水を入れて薄める。それから心臓の拍動を落ち着かせる薬草を別に用意する。
ヤドリギの葉とセイヨウサンザシの花。この二つは穏やかに心の鼓動を整えると、産婆が古くから言い伝えてきた。確かな効果があると、前世の薬草学の教科書にも書かれていた。
わたしは、ひそかに準備を始めた。
午後、レイドル師長が訪ねてきた。白い眉の下から、わたしを冷たく見下ろした。
「ストラウド嬢。夜更けに薬草棚に触れることは、私が禁じていたはずだが」
「レイドル卿。棚の薬草の等級を、揃えさせていただいておりました」
「揃える必要はない。長年、私が組み上げてきた棚だ」
「組み上げてこられたことと、棚が正しく機能していることは、別のことです」
「……小娘が」
「光らない娘で、申し訳ございません。それでも、脈は読めます」
「読めたつもりでいるのだろう。本当の脈は、半世紀見続けた者にしか分からぬ」
「半世紀見続けて、ご自身の脈を見落とされたのは、どなたでしょう」
レイドル師長の顔が一瞬こわばった。
けれどその奥にもう一つの表情が見えた。怒りではない。どこか安堵に似た色だった。
見破られたことへの安堵。自分でも気づかないうちに、彼は誰かに止めてほしかったのかもしれない。
見破られたことへの、安堵。
自分でも気づかないうちに、彼は誰かに止めてほしかったのかもしれない。
レイドル師長の顔が一瞬こわばった。去り際、彼の足が一歩よろめいた。
わたしは見た。彼の爪が、薄く、青い。
(ジギタリスの蓄積。彼は、もう自分の薬で心臓が追い詰められている。)
その夜、殿下と王太子殿下が医務室を訪ねた。わたしは紙にレイドル師長の症状と薬湯の推定配合、予想される発作の時刻を書き出した。
「レイドル卿は、三日後の夜、自分で調合した薬をまた飲むでしょう。ただ、彼の体はもうその量を受け付けません。その夜、彼は倒れます」
「……つまり、ミアレット」
「はい、殿下。わたしたちは、彼を救う手を差し延べるかどうかを、選ぶ必要があります」
王太子殿下が先に口を開いた。
「ストラウド嬢。その男はこれまでいくつもの毒を宮廷に撒き、サランのような民草を殺した。救う義理はどこにもないのでは」
「殿下、おっしゃる通りです。けれど、わたしがここで『救わない』を選べば、わたしは彼と同じになります」
「……」
「わたしは、彼を救ったあと、罪を問います。一人の人間として、彼に自分の犯した罪の重さを最後まで背負わせたいのです」
「……ストラウド嬢、あなたの選択を、兄として認めよう」
「それでいい。ミアレット、あなたが決めていい」
◇
三日後の夜、動きはじめた。師長の執務室から薬を煎じる匂いが流れた。甘すぎる、重たい匂い。
半刻後、執務室の奥で重いものが倒れる音がした。わたしたちは扉を蹴破り、中に踏み込んだ。
レイドル師長が、床に倒れていた。唇が紫色に変わり、胸を掴んでいた。
「呼吸を確認。脈、弱い。瞳孔、開きかけ」
「キエラ、すぐに湯を」
「はい」
「ドルガン卿、彼の頭を少し上げて、横向きに」
「承知」
わたしは、用意していたヤドリギとセイヨウサンザシの煎じ湯を少しずつ彼の口に含ませた。それと同時に、吐かせる処置を別の湯で行った。
この二つの薬草には穏やかに心拍を整える作用がある。急激な変化は心臓に負荷をかけるから、ゆっくりと、少しずつ。
前世の急変対応マニュアルが、頭の中で頁をめくる。ABCの確認。気道、呼吸、循環。基本を崩さない。
手は震えていなかった。震える暇がなかった。
レイドル師長は、一度、目を開けた。わたしの顔を見上げた。怒りでも恨みでもなく、ただ、静かな驚きだった。
「……お前が、私を、助けるのか」
「今は治癒師として助けます。罪は、王太子殿下が問われます」
「私は、……若さが、欲しかったのだ」
「はい」
「若い娘の治癒師に、追い越されるのが、怖かった」
「卿。若さとは、年齢の話ではないかとわたしは思います。誰かに学ぼうとできるかどうか、その一点だと」
「……そうか、そうかもしれぬな」
師長の声は掠れていた。長い年月の重みが、その一言に凝縮されていた。
彼は半世紀の間、誰にもこの弱さを見せなかった。そして最後に、わたしの前で、崩れた。
師長は目を閉じて呼吸を整えていた。けれど、細く、涙が目尻に滲んでいた。
夜更け、殿下が扉の前でわたしを待っていた。
「ミアレット」
「はい、殿下」
「あなたに、訊きたかったことを、今、訊いてもいいか」
わたしは、うなずきかけた。
その瞬間、廊下の奥で激しい足音が響いた。走ってきたのはドルガン卿だった。彼の顔は、珍しく蒼白だった。
「殿下、ストラウド嬢、緊急の知らせが」
「何だ」
「ヴァルクト派閥の残党が、明日未明、王都の外で一斉に蜂起する手筈を整えていると」
わたしと殿下の視線が、もう一度、一点で重なった。




