第七話 義姉の筆跡は二度現れる
赤いインクの名前を、わたしは靴先で隠した。ドミクは、青ざめた顔で立っていた。
「ストラウド様、一曲、聴いていただきたい曲が」
「ドミク様。曲は、昼間、舞台の上で、他の楽士の方々と一緒に聴かせてください。夜更けにお一人で訪ねてくる方の曲は、聴かない決まりです」
ドミクは、しばらく唇を噛み、それから深く頭を下げた。
彼の長い黒髪が夜風に乱れた。銀の徽章が月の光を反射してちらりと光った。
楽士としての誇りと、男としての衝動が彼の中で戦っている。その戦いにわたしは加担してはいけない。
「……失礼、致しました」
彼が去ったあと、わたしは紙片を拾った。五線譜は歪んでいた。音が飛び、和音が崩れ、最後の小節にわたしの名前が書き込まれていた。
「これは、楽士が正気の時に書いた譜ではないな」
「……はい、殿下」
翌朝、宮廷楽団の舞台でドミクは指揮を外された。彼の弾いた和音が一音ずれ、楽団全体が止まった。彼もまた、もう楽士ではなくなった。
八人目の男が、わたしの鏡に映って砕けた。音楽という翼を自ら折った男の背中を、わたしはただ見送ることしかできなかった。
キエラが、わたしの耳元に囁いた。
「お嬢さま、もう九人です。お嬢さまに想いを寄せて、自ら身を崩した男たち」
「……九人」
「ハロルド様、ギード様、エミル様、バルト様、レゼル様、ユーイン先生、ドミク様。先日、実家で寝込まれている傭兵団のヴォルス団長。そして最後に」
「最後に、誰」
「――宮廷治癒師長、レイドル様」
わたしは、息を呑んだ。あの白い髭の老人が、わたしを、そういう目で見ていたとは、思ってもいなかった。
「レイドル様は、もともとご令嬢との縁談を拒み続けてきたお方です。けれど、お嬢さまが医務室でお働きになってから、夜遅くまで薬湯を煎じる匂いが漏れたりと」
「……」
「あのお方は、自分の城をお嬢さまに明け渡すか、お嬢さまを排除するか、どちらかしか選べなくなっています」
わたしは、息を整え、キエラの言葉を胸に落とした。
そしてその日、殿下と決めていた「罠」が動いた。殿下は王都の晩餐会に出向く。その晩餐の酒に、わたしとドルガン卿と王太子殿下が、静かに網を張っている。
わたしは、晩餐会の裏手、厨房の奥の部屋で、台の上を見ていた。上級侍女長は銀の盆を整えていた。
しばらくして、アンネリーゼが現れた。義姉は、いつもの優しい笑みで、上級侍女長に小さな紙包みを渡した。上級侍女長は、それを殿下の酒杯の下に滑り込ませた。
わたしの心臓が跳ねた。
紙包みの大きさは小指の先ほど。あの中にヒキオウの粉が入っているなら、量はわずかだ。しかし繰り返し盛れば身体は確実に蝕まれる。
サランはこの粉で殺された。わたしは奥歯を噛みしめ、手元の紙に記録を続けた。
わたしは、手元の紙にその一連の動きを記した。時刻、部屋、動き、渡し手、受け手。動きが終わった瞬間、合図の小鈴を鳴らした。
◇
ドルガン卿と王太子殿下の配下が、一斉に部屋に入った。
「アンネリーゼ様の命令です、わたくしは何も」
アンネリーゼは、凛と立っていた。顔色を変えなかった。
「ミアレット。……お前が、ここまでやるとは」
「姉さま」
「わたくしは、ストラウド家のために、やっていたのよ。お前のような子が王宮で目立てば、家が潰れる。だから、先に、お前を潰そうとした」
「……姉さま」
「お前は、分からないのよ。ストラウドの家がどんな苦労をして、ここまで続いてきたか」
アンネリーゼの目の奥で、長い年月の澱が沈んでいた。わたしは、姉の顔を、初めて、まっすぐに見た。
姉の目は怒りではなかった。
疲れていた。何年も、何十年分もの疲れがその瞳の底に沈殿していた。
ストラウド家を守るために、姉は自分の手を汚し続けてきた。わたしが「光らない娘」でいる間、姉は一人で暗闇の中に立っていた。
それを知ったからといって許すわけにはいかない。けれど、憎むだけでは終われない。
「姉さま。わたしは、家を守りたい気持ちを、憎んではいません」
「――」
「けれど、家を守るために人を毒で壊す手は、わたしの中の『家』とは、違う家です」
「家を守るとは、人を薬で救うことだと、わたしは習いました」
アンネリーゼの唇が、ほんのわずかに震えた。
それは怒りでも悔しさでもなく、もっと深い場所から来る震えだった。自分でも気づいていなかった痛みが、今ようやく表に出てきたような。
アンネリーゼは、ふっと、目を伏せた。何も言わなかった。
その夜、アンネリーゼは上級侍女長と共に王宮の預かりとなった。ヴァルクト商会の三人も捕らえられた。残るのは、宮廷治癒師長レイドル一人だった。
「ミアレット、今夜は、よくやってくれた」
「……姉を、手放したのは、わたしです」
「あなたが手放したのは、姉ではなく、姉の罪だ。姉そのものは、姉君自身の中に、今もいる」
殿下は、わたしの左手を両手で包んだ。
「この一件が落ち着いたら、あなたに、もう一つ、訊きたいことがある」
「訊きたいこと、ですか」
「今は訊かない。訊くのは、あなたが全ての線を結び終えたあとだ」
殿下の瞳の奥に、穏やかな光があった。わたしは、うなずくだけで精一杯だった。
扉が開く音がした。王太子ライオネル殿下が、ゆっくり入ってきた。
「ストラウド嬢。捕らえたアンネリーゼ嬢から供述が出た。彼女が最も深く結びついていたのは、ヴァルクト商会ではなかった。宮廷治癒師長、レイドルだった」
「――」
「レイドルは、派閥の薬を独占的に宮廷の正規薬として承認する権限を持っていた。癒着していたのは、あの老人そのものだ」
わたしはレイドル師長の顔を思い出していた。
あの日、わたしが初めて医務室に立った時。彼の目に走った不思議な光。あれは権威を脅かす者への怒りだけではなかった。
彼はわたしの中に何かを見ていた。それが何なのか、答えはもうすぐ出る。
彼はわたしの中に、何かを見ていた。
「そして、レイドルは長年、ある一つの薬を、自分のためだけに秘密裏に調合させていた」
レイドルは、老いを遅らせる薬を飲み続けていた。その薬の配合は、本来、彼自身の身体をゆっくりと壊すものだった。
王太子殿下は、書状の最後の行を指で示した。
『その薬の最終調合は、三日後の夜に行われる』
わたしと、二人の殿下の視線が、一点で重なった。




