第六話 教室の窓は閉ざされて
ユーインの白い襟が、走った風で乱れていた。彼は、生徒たちを置き去りにしたまま、校庭の真ん中でわたしの前に立ち止まった。
「ストラウド嬢、お会いしたかった」
声は裏返っていた。わたしは、彼の背後、教室の窓を見た。生徒たちが、青い顔で、こちらを見下ろしていた。
「ユーイン先生。ご用件でしたら、後ほどお時間を」
「だめだ、今です。授業中、生徒の質問に答えていても、声が、すべてあなたの声に聞こえる」
彼の手が、わたしの手を取ろうとした。ドルガン卿が、わたしの後ろから、静かに一歩、踏み出した。それだけで、ユーインの手は、中空で止まった。
「私は、授業を放棄しました。あなたに会うために」
「先生。生徒は、先生を待っています」
「私は、もう教師ではありません。ただ、あなたを想う男です」
わたしは、深く息を吸った。
「ユーイン先生。わたしは、先生のお心に、お応えすることはできません」
「知っています。それでも、私は」
「先生。わたしがここで先生に情けをかければ、先生は、生徒の前で、永遠に『教師ではなかった人』になります」
「……」
「もしわたしに少しでも人としての情けがあると思ってくださっているのなら。今、教室に戻って、授業を最後までなさってください。先生にお渡しできるのは、それだけです」
ユーインは、青い顔で立ち尽くした。長い沈黙の後、彼は踵を返し、校舎の方へ走っていった。
走る背中が小さくなっていく。その肩が一度だけ大きく震えた。
教室の窓が一つずつ閉まっていった。まるで彼の教師としての日々が一枚ずつ閉じられていくように。
わたしは、校庭の土の上に、しばらく立っていた。
ドルガン卿が、わたしの肩に、外套を掛けてくれた。
「ストラウド嬢。あなたは、悪くない」
「悪いのは、わたしが『光らない令嬢』と呼ばれていた時に、誰にも見向きもされなかったことでしょうか。それとも、今、人々がわたしを急に見はじめたことでしょうか」
「どちらでもない。人は、鏡を見つけると、その鏡に自分を映したくなる。あなたは、鏡になれてしまう人だ」
「鏡を壊すのは、あなたの仕事ではない。映した者が、自分で決めることだ」
「……ドルガン卿。卿は、若い頃、どなたか、鏡にされた方がいらしたのですか」
「――古い話だ。ただ、その方は、鏡を磨き続けて、立派な王妃となられた」
老騎士の声は穏やかに揺れた。
ドルガン卿にも、かつて「鏡にされた」経験があったのだ。その方は王妃に。ならば、ドルガン卿は、鏡を覗いた男の一人だったのかもしれない。
けれど彼はそこから立ち直り、半世紀、王家に仕えた。壊れなかった男もいる。壊れるか壊れないかは、鏡ではなく、映す者自身が決めることだ。
数日後、ユーインは教職を解かれ、貴族学校から追放された。寺院の写字室で、静かに暮らしはじめたという。
同じ頃、傭兵団のヴォルス団長もついに団を解散させた。
副長が離反し、団員の大半が去った。ヴォルスは一人で王都の門の前に立ち、わたしが通るのを待っていたという。
ドルガン卿が穏やかに退去を促し、ヴォルスは実家のある村に戻った。
かつて百人の傭兵を束ねていた男が、鋤を持って畑に立つ。それが彼の選んだ道だった。
サランの遺した蠟の印。仕入れ量の合わない書類。医務室に落ちていた白い粉。そして、アンネリーゼの名前。点を線で結ぶ作業を、わたしは進めていた。
わたしは、夜中にキエラを呼んだ。
「キエラ、一つ、頼みがあります。医務室の鍵を、誰が持っているか、すべて洗い出してください」
「何なりと」
三日後、キエラが持ってきた答えは五人だった。宮廷治癒師長レイドル、殿下、副長、見習い取締、そして「上級侍女長」。
その上級侍女長は、ストラウド伯爵家の遠縁で、わたしの義姉アンネリーゼに頭の上がらない女性だった。
繋がった。
「キエラ、よくぞ、ここまで調べてくれました」
「いいえ、お嬢さま。わたくしは、ただ、足を動かしただけでございます」
「足を動かす、というのは、一番難しいことですよ」
わたしは、震える手で、紙に全ての点と線を書き出した。原因は、必ず、人の手で運ばれてくる。だから、運んだ人の動線を描けば、犯人の影が浮かぶ。
書きながら、前世の病棟で医療過誤の原因を一つずつ線で結んだ日のことを思い出した。
あの時も同じだった。原因は必ず人の手で運ばれてくる。だから運んだ人の動線を描けば、犯人の影が浮かぶ。
◇
その夜、殿下に全てを話した。殿下は、一枚の紙を、じっと見つめていた。
「ミアレット。あなたの姉君を、動かぬ証拠で捕らえるには、もう一歩、必要だ」
「はい、承知しております」
「罠を、張る。ただし、あなたを餌にはしない。代わりに、私が餌になる」
「――殿下」
「私は、もう一度、毒を盛られる側に立つ。今度は、彼らに『自らの罪を追加させる』ために」
わたしは、反射的に立ち上がっていた。
「殿下、それは、危険すぎます」
わたしの声は裏返っていた。
殿下の肩に、自分で手を伸ばしかけて寸前で止めた。触れたら、もう冷静ではいられなくなる。
「危険な作業は、いつか誰かが引き受ける。私が今引き受ける方が、より多くの命が救われる」
殿下は、わたしの震える手を、そっと、自分の手で包んだ。
「ただし、毒を見抜くのは、あなたの仕事だ。最初の夜と、同じように」
「殿下、ひとつだけ、お約束ください。もし万一のことがあっても、わたしを、責めないでください」
「責める理由がない。あなたは、私の命を、すでに一度、救っている」
外で、馬の嘶きがした。キエラが扉の外に出て、戻ってきた。
「お嬢さま、宮廷楽士のドミク様が、門のところでストラウドさまにお会いしたいと」
宮廷楽士ドミク。先月、王宮の祝宴で一度だけ楽器を弾く姿を遠くから見た男だった。
わたしは、門に向かう廊下を、足音を殺して歩いた。廊下の先で、ドミクの足元に、白い紙片が一枚、落ちていた。
そこには、歪んだ五線譜と、赤いインクで書かれた、わたしの名前があった。




