第五話 剣を抜いたのは名誉ではなく
レゼル卿の手は、柄にかかっていた。目は、血走っている。
「オスカー殿下。私は、ストラウド嬢に、一つ、お伺いしたいことがございます」
殿下は、静かに立ち上がった。
「レゼル。その手を柄から離しなさい」
「殿下、私は、ただ、ストラウド嬢の本心を伺いたいだけです」
レゼル卿は若い子爵で、先月、王宮の舞踏会で、わたしと一度だけ踊った。その晩、紳士らしい穏やかな方だと思った。けれど今、目の前の彼は、別人だった。
あの時、彼は背が高く、礼儀正しい方だった。踊りの最中、一度も手に力を入れず、会話も穏やかだった。
それが、たった一度の踊りで、こうも変わる。
「ストラウド嬢。あなたは、第二王子殿下と、どのような関係にあるのですか」
「殿下は、わたしを宮廷治癒師の助手としてお召しくださっています。それ以上でも、以下でもありません」
「嘘だ。先日、この医務室で、殿下があなたの手に触れた場面を、私の部下が見た」
(部下、ですって。) 見張られていた、ということだ。レゼル卿の執着は、夜の窓からわたしを覗かせるところまで行っていた。
殿下は、一歩、わたしの前に出た。
「レゼル卿、この場で剣を抜けば、子爵位を返上することになる。それでもやるか」
「殿下、決闘を申し込みます。ストラウド嬢の名誉を賭けて」
「名誉を賭けた決闘は、対等な者同士でしか成立しない。私はあなたに剣を抜かない」
レゼル卿の顔が、恥辱で赤くなった。
わたしは、一歩、前に出た。
「レゼル卿。わたしの名誉は、わたしが守ります。どうか、剣をお収めください」
「ストラウド嬢……あなたは」
「あなたが剣を抜けば、あなたは、わたしを守った人ではなく、わたしを傷つけた人として、歴史に残ります」
「……私は、あなたに、振り向いてほしかっただけだ」
「振り向いていただいたこと、今、この場で覚えておきます。だから、剣を、お収めください」
レゼル卿の指から、力が抜けた。剣が鞘に収まる音がした。彼は、崩れるように床に膝をついた。
「申し訳、ありません……」
わたしは、黙って、彼の前で頭を下げた。
その夜、レゼル卿は、家の使いによって王都を発った。
医務室の改善案が殿下の手で王宮に配られた翌朝、殿下はわたしに新しい課題を告げた。
「ミアレット。ヴァルクト派閥の薬草買い付け記録を、あなたに見てほしい」
「……わたしで、よろしいのですか」
「観察、仮説、検証、証拠。今までと、同じ手順でいい」
わたしは書類の山の前に座り、一枚ずつめくりはじめた。仕入れ量と卸し先の病床数が合わない。仕入れが十瓶あるのに、卸しが三瓶しか記録されていない。
仕入れ先の欄には「ヴァルクト商会」とあり、卸し先の欄には、王太子殿下の御殿の名があった。
(――王太子殿下。)
わたしは、その紙を、すぐには殿下に見せなかった。その代わりに、ドルガン卿に頼んだ。
「ドルガン卿、この紙のことを、王太子殿下にご確認いただけませんか」
「……自分が、お預かりしても」
「はい。わたしが兄弟のあいだに立つよりも、卿から確かめていただく方が、よろしいかと」
「ストラウド嬢。あなたは、踏むべき段を、踏まれる方だ」
◇
三日後の夕刻、王太子ライオネル殿下が、医務室に現れた。白い髪を短く整え、灰青色の瞳が薄い灯りの中でも冴えていた。
「ストラウド嬢。この書類の件だが」
「はい、殿下」
「私の御殿の名前が書かれている。事実、私の名で薬は届いている。だが、私は、その薬を、使ってはいない」
「……殿下、それは、どういう」
「オスカーの手の届かぬところで、ヴァルクト派閥の動きを、私の名で封じていた。表向きは派閥の上客を装い、裏で薬の流れを止めていた」
ライオネル殿下の声は、氷のように静かだった。けれど、その中に、隠せない何かが混じっていた。弟への案じ。
「私は、オスカーに、この話をしていない。あれは、正面から戦う男だ。裏で動く兄がいることを知れば、あれの剣が濁る」
「……殿下、なぜ、わたしには、お話しくださるのですか」
「あなたは、オスカーが信じた人だ。あの子の剣を濁らせないために、あなたの口から、時機を見て、伝えてほしい」
「……殿下。お話をお聞かせくださり、ありがとうございます」
「ストラウド嬢。あなたに一つ、借りができた。――オスカーを、頼む」
ライオネル殿下の目元がほんの僅かゆるんだ。それは兄が弟の安全を他人に託す時の、切なさのような表情だった。
わたしは頭を下げた。この方を敵だと決めつけていた自分を恥じた。
殿下が出ていったあと、わたしは、机に突っ伏した。敵だと思った方が、実は、味方だった。
夜、オスカー殿下が戻ってきた時、わたしは、ライオネル殿下とのやりとりを、そのまま話した。殿下は、しばらく、何も言わなかった。それから、小さく、笑った。
「……兄上らしい、やり方だ」
「ご存じでしたか」
「薄々は、な。ただ、兄上が、あなたに打ち明けたということは、兄上が、あなたを信頼できると判断した、ということだ」
「ミアレット。あなたは、人の心を、静かに変えていく」
「……それは、よいことでしょうか」
「私にとっては、よいことだ」
短い、けれど確かな答えだった。
窓の外で夜鳥が一声鳴いた。その声が遠ざかっていくのを、二人で黙って聞いていた。
わたしの胸の中で、ひそかに熱いものが揺れた。それは恋と呼ぶには早すぎるけれど、信頼と呼ぶだけでは足りないものだった。
翌朝、わたしは、貴族学校に出向くよう殿下から命じられた。学校の若い教師が、不穏な振る舞いをしているとの報告があった。
その前にドルガン卿から小さな報告があった。
「傭兵団のヴォルス団長のことだが。あの男は殿下の護衛任務を放棄して、お嬢さまの通る廊下をうろついていたそうだ。団の副長が引き戻したが、本人は『ストラウド嬢を守るため』と言い張っている」
「……わたしが頼んだわけでは」
「分かっている。だがこのままでは団が崩れる。副長は団長の解任を進言したそうだ」
また一人、壊れていく。わたしの意志とは関係なく。
門をくぐると、見知った顔が駆けてきた。教師ユーイン。彼の目がわたしを見つけた瞬間、生徒を置き去りにして、こちらに走ってきた。
生徒たちの、戸惑った声が、背後で上がった。




