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崩落のエデン  作者: だんご


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綻び

 その日の空は、朝から暗かった。


 雲ではない。空気そのものが重い。天空都市の上空に、灰色の膜がかかったような——嫌な朝だった。兵舎の空気も沈んでいる。廊下を歩く兵士たちの表情が硬い。


 朝礼で、隊長が告げた。


「——昨夜より、第七の園の南方下層に大規模な悪魔の集結が確認されている。規模はこれまでの偵察部隊とは比較にならない。上層部は本日中の侵攻を想定し、全防衛部隊に第一級警戒態勢を発令した」


 広間が静まり返った。


 第一級警戒態勢。エルドが第七の園の兵士になってから、発令されたのは二度目だ。一度目は——初日の、あの南東区画の大規模侵攻。


「さらに」


 隊長の声が低くなった。


「偵察班の報告によれば、集結している悪魔の中に——七大罪の分類に該当する上位個体の存在が確認されている」


 ざわめきが広がった。七大罪の上位個体。通常の悪魔とは桁が違う化け物。園を直接脅かす力を持つ存在。


「分類は——『嫉妬』」


 嫉妬。他者が持つものを引き裂く。奪う。壊す。自分が持たないものを持つ者を、許さない。


「全部隊、持ち場につけ。長期戦を想定せよ。——以上」


 広間が動き始める。兵士たちが散っていく。エルドも銃を手に取った。


 詰所に戻ると、リーネとヨナがいた。リーネの顔は引き締まっていたが、目の奥に不安がある。ヨナは——手が震えている。いつものことだ。でも今日はいつもより震えが大きい。七大罪の上位個体。ヨナの第三の園を落としたのも、七大罪の悪魔だった。


「ヨナ」


 リーネがヨナの肩を叩いた。


「大丈夫。今回は私たちだけじゃない。園の全防衛部隊が出る。——それに、アスカさんがいる」


 アスカがいる。その言葉が、この数週間でどれだけの重みを持つようになったか。アスカが前線にいれば、少なくとも通常の悪魔は圧倒できる。上位個体にも対抗できる。アスカという存在が、第三班の——第七の園の防衛の柱になっている。


 アスカが詰所に入ってきた。黒い戦闘服。大剣を背負っている。表情はいつもと変わらない。穏やかで、落ち着いている。


「皆さん、準備はいいですか」


 その声は、平坦だった。戦闘前の緊張も、不安も感じさせない。いつものアスカだ。——いつもの、「平気です」のアスカだ。


「いつでも行ける」


 リーネが答えた。ヨナも頷いた。エルドは黙って銃を確認した。


 四人が詰所を出る。兵舎を出る。空が暗い。風が重い。園の外縁部に向かって、防衛部隊が続々と展開している。


 エルドは歩きながら、アスカの背中を見ていた。黒い戦闘服に包まれた背中。大剣の柄が肩越しに見えている。あの背中の下に、金属のフレームがある。人間の筋肉ではなく、機械の構造体が。


 ——今日は、大きな戦いになる。


 アスカが損傷する可能性が高い。大きな損傷なら、中身が露出する。リーネとヨナに——見られるかもしれない。


 エルドがそのことを考えていたのは、ほんの一瞬だった。考えたところでどうにもならない。戦場で起きることは制御できない。


 南方外縁部に到着した。


 壁の向こう——園の下方に、黒い塊が見えた。


 遠目にも、その規模の異常さがわかった。無数の悪魔が、雲海の下から這い上がってきている。空を覆い尽くすかのような数。その中心に——一際大きな気配がある。上位個体。嫉妬の悪魔。


 最初の波が来たのは、正午だった。


 壁を乗り越えてきた悪魔の群れが、一斉に園内に侵入する。通常の個体が三十、四十——数え切れない。防衛部隊が一斉射撃を開始する。銃声が園中に響き渡る。


 アスカが前線に出た。大剣を抜き、最前列に立つ。


 第一波の悪魔を薙ぎ払う。五体、十体、十五体。いつもの圧倒的な戦い方。一撃で一体。淀みなく、美しく、力強く。


 だが数が多い。アスカ一人では全てをさばききれない。壁の別の箇所からも悪魔が侵入してくる。防衛部隊全体で対応しているが、前線が薄い。


 エルドとリーネは壁際の防衛ラインで射撃を続けていた。ヨナは後方支援。弾薬の補給と負傷者の搬送を担当している。


「来すぎだろ……!」


 リーネが弾倉を替えながら叫んだ。「こんなの初めてだよ!」


 初めてではない。エルドにはわかる。これは——第三の園が崩落したときの規模に近い。ヨナが語った、あの日の再現に。


 第一波を撃退するのに、三時間かかった。


 防衛部隊にも被害が出た。死者六名、負傷者多数。だがまだ序盤だ。壁の外には、まだ大量の悪魔がいる。そして——上位個体がまだ動いていない。


 第二波は、夕方に来た。


 今度は質が違った。通常の個体に混じって、大型個体が複数含まれている。憤怒の分類。強欲の分類。壁を突き破る力を持つ個体が、正面から来る。


 防衛線が押し始めた。壁の一部が崩壊し、悪魔が市街地に侵入する。


「第三班、前線に出ろ! 市街地での遅滞戦闘!」


 班長の命令が飛ぶ。エルドとリーネが前に出る。アスカはすでに前線の最前部で戦っている。


 市街地の通りで、悪魔と撃ち合う。建物の陰から飛び出してくる小型個体を撃つ。倒す。次が来る。弾が減っていく。


 リーネが隣で戦っている。リーネの射撃は正確だ。エルドより上手い。恐怖を感じながらも引き金を引ける。それがリーネの強さだ。


「エルド、右!」


 リーネの声に反応して横に跳ぶ。右から悪魔の爪が薙ぎ払われた。すれすれだった。体勢を立て直して撃つ。三発。悪魔が崩れる。


 前線が後退していく。じりじりと、市街地の奥へ。避難は完了しているが、建物が壊されていく。誰かの家が、誰かの店が、瓦礫に変わっていく。


 そして——上位個体が来た。


 空気が変わった。温度が下がった。いや——温度が変わったのではない。存在の圧が変わったのだ。


 通りの向こうから、一つの影が歩いてきた。


 人型だった。二メートルを超える長身。体は深い藍色で、表面が微かに光っている。四本の腕を持ち、それぞれの手に異なる形状の刃がある。顔は——美しかった。整った面立ち。だが目が六つあり、その全てが異なる方向を見ている。


 嫉妬の上位個体。


 七大罪「嫉妬」に分類される悪魔の中でも、突出した力を持つ存在。通常の悪魔が人間を殺す兵士だとすれば、これは——将だ。


 周囲の兵士たちが一斉に撃った。弾丸が上位個体に着弾する。——弾かれた。表面の光が弾丸を弾いている。銃弾では通じない。


 上位個体が腕を振った。一振り。ただそれだけで、前線の兵士三人が吹き飛ばされた。壁に叩きつけられ、動かなくなった。


「嘘——」


 リーネの声が震えた。一振りで三人。桁が違う。


 上位個体が歩を進める。ゆっくりと。急ぐ必要がない。ここにある全てを壊せると、知っている。その余裕が——傲慢さではなく、嫉妬の悪魔特有の、冷えた憎悪に裏打ちされている。


 お前たちが持っているものを。この街を。この空を。この生活を。——全て、引き裂く。


 白い影が走った。


 アスカだった。大剣を構え、上位個体に正面から突っ込んでいく。


 一撃目。大剣が上位個体の腕の一本に叩きつけられた。金属がぶつかるような音。火花が散る。上位個体の腕に傷が走った。——通じている。アスカの攻撃は通じる。


 上位個体が反撃する。四本の腕が同時に振るわれる。アスカは三本を躱し、一本を大剣で受けた。衝撃で体が後退する。足が地面を削る。


 打ち合いが始まった。


 アスカ対上位個体。一対一の、次元の違う戦い。周囲の兵士たちは手を出せない。近づけば巻き添えになる。ただ見ているしかない。


 エルドとリーネは、通りの陰から戦況を見ていた。


 アスカの動きは速い。大剣を振り、避け、蹴り、跳躍し、斬りつける。上位個体の四本腕を相手に、互角以上に渡り合っている。だが——互角は互角だ。圧倒できていない。通常の悪魔なら数秒で片付けるアスカが、この相手には時間がかかっている。


 三分。五分。十分。


 打ち合いが続く。アスカの体にも傷が増えていく。戦闘服が裂け、擦過痕が増える。だが致命的なものはない。上位個体にもアスカの斬撃による傷が蓄積されている。


 均衡が——崩れたのは、一瞬の出来事だった。


 アスカが大剣を振り下ろした。上位個体の腕の一本を切断した。藍色の血が飛び散る。上位個体が咆哮する。残る三本の腕が、怒りに任せて同時に振るわれた。


 アスカは二本を躱した。一本を大剣で受けた。だが三本目が——大剣を弾いた。


 手から大剣が離れた。


 その瞬間、上位個体の腕がアスカの胴を捉えた。


 横薙ぎ。刃が、アスカの左わき腹から右肩にかけて、斜めに切り裂いた。


 戦闘服が裂けた。その下の肌が裂けた。そして——


 エルドは見た。いつもと同じように。金属のフレーム。ケーブルの束。微かに光る回路。人の体の中にあるべきものが、一つもない。


 だが今回は——エルドだけではなかった。


 リーネが、すぐ隣にいた。


 リーネの目が、アスカの裂けた胴体を捉えていた。


 距離は近かった。十メートルもない。夕暮れの光の中、はっきりと見えた。アスカの体の中身が。赤い肉ではなく、銀色の金属。血ではなく、薄い光。人間の内臓ではなく、精密な機械の構造体。


 リーネの顔から、色が消えた。


「——え?」


 声が漏れた。小さく。掠れて。


 目が見開かれている。口が半開きになっている。銃を持つ手が——止まっている。


 リーネの世界が、その瞬間に割れた。


 アスカは——人間ではなかった。


 一緒にパンを食べた。市場を歩いた。焼き菓子がおいしいと笑った。リーネの弟の話を聞いて「かわいいですね」と言った。展望広場で夕焼けを見た。「また来てもいいですか」と聞いた。


 全部が——全部、人間だと思っていた。


 なのに——中身が、機械だった。


 リーネの視界がぼやけた。理解が追いつかない。頭の中で情報が衝突している。アスカの笑顔。金属の断面。「おいしい」という声。ケーブルの束。「ありがとうございます」。回路の光。


「リーネ!」


 エルドの声が耳を打った。


 リーネがはっとした。戦場だ。今は戦場だ。目の前で上位個体が暴れている。立ち止まっている場合ではない。


「——っ」


 リーネは銃を構え直した。手が震えている。恐怖とは違う震え。混乱の震え。


 アスカは——胴を裂かれたまま、戦っていた。


 大剣を拾い直し、上位個体に斬りかかっている。体の左側から機械の中身が露出したまま。火花が散っている。ケーブルが垂れている。それでも——動きが止まらない。


 人間なら致命傷だ。人間なら、あの傷で立っていられるはずがない。


 なのにアスカは立っている。走っている。斬っている。


 ——だって、機械だから。


 リーネの頭の中で、その事実が反響した。機械だから。壊れても動ける。内臓がないから致命傷にならない。血が流れないから失血しない。


 機械だから——「平気」なのだ。


 「平気ですから」。あの言葉が、リーネの中で全く違う意味を帯びた。


 アスカの攻撃が上位個体を追い詰めていく。胴が裂けているのに、動きは衰えない。むしろ——加速している。体の損傷を無視して、出力を上げている。人間にはできないこと。機械にしかできないこと。


 最後の一撃。アスカの大剣が上位個体の胸を貫通した。藍色の血が噴き出す。上位個体が絶叫し、体が崩れ、黒い霧に還っていく。


 終わった。


 上位個体が消えると同時に、周囲の通常悪魔たちも退き始めた。指揮系統が崩れたのだ。撤退していく黒い影を、防衛部隊が追撃する。


 アスカが剣を下ろした。


 立っている。胴の左側が大きく裂けたまま。戦闘服の下から、金属のフレームが見えている。ケーブルが数本、切断されて垂れ下がっている。火花が断続的に散っている。


 アスカは——残った右手で、裂けた戦闘服の端を掴んで、傷口を覆った。応急的に。完全には隠しきれないが、遠目にはわかりにくくなる。


 それから振り返った。


 エルドとリーネを見た。


「——大丈夫です」


 笑った。


 いつもの笑顔。穏やかで、丁寧で、少しだけ距離のある笑顔。何事もなかったかのように。胴が裂けているのに。中身が露出したのに。


「大丈夫ですから」


 リーネの体が——震えた。


 あの笑顔が。いつも見ていたあの笑顔が。同じ笑顔のはずなのに——もう、同じに見えなかった。


 あの笑顔の裏に、金属がある。回路がある。ケーブルがある。人間の表情をしているのに、その下には人間のものが何一つない。


 ——なのに、笑っている。「大丈夫です」と言っている。


 リーネは何も言えなかった。口を開いたが、声が出なかった。頷くこともできなかった。ただ立っていた。震えながら。


 エルドがリーネの前に出た。


 アスカと目を合わせた。アスカの目が——一瞬だけ揺れた。リーネが見た。リーネに見られた。そのことをアスカは理解していた。


 エルドは何も言わなかった。ただ、視線でアスカに伝えた。——わかっている。


 アスカは小さく頷いた。それだけだった。


 戦闘後の処理が始まる。負傷者の搬送。戦死者の確認。壁の修復。通りの瓦礫の撤去。兵士たちが動き回る中、アスカはいち早く姿を消した。「修理」に行ったのだろう。自室か、あるいは人目のない場所で。


 リーネは、通りの壁に背を預けて座り込んでいた。


 銃を膝の上に置いて、天井——空を見上げている。目が虚ろだった。


 エルドがその傍に立った。


「……リーネ」

「……知ってたんだ」


 リーネの声は平坦だった。感情を消そうとしているのではなく、感情が処理しきれていないだけの平坦さ。


「あんた、最初から知ってたんだ。アスカが——」


 言葉が詰まった。


「——機械だって」


 声に出して言うと、その事実が確定するようだった。リーネは自分の言葉に打たれたように目を閉じた。


「……ああ。第一話の——最初の戦闘で、腕の断面を見た」


 エルドは隠さなかった。もう隠す段階ではない。


「なんで……言ってくれなかったの」


 リーネの声が、少しだけ揺れた。怒りではなかった。困惑だった。


「軍の機密だ。それに——」


 エルドは少し間を置いた。


「言って、どうなる。お前の態度が変わるだけだ」


 リーネが目を開けた。エルドを見上げた。


「……変わる? 私が?」


 リーネは自分に問いかけるように呟いた。変わるのか。アスカが機械だと知って、自分は変わるのか。


「……わかんない」


 リーネは膝を抱えた。


「わかんないよ。だって——あの子、笑うんだよ。おいしいって言うんだよ。弟の話聞いて『かわいいですね』って。花を見て『綺麗ですね』って。——全部、人間じゃん。全部、本物に見えるじゃん」


 声が震え始めた。


「なのに中身が——あんなの——人間じゃないって——でもあの子は——」


 リーネの目が赤くなっていた。泣きそうだった。でも泣いていなかった。涙の手前で、感情がぐちゃぐちゃに絡まって、出口を失っている。


 エルドは黙っていた。何を言えばいいかわからなかった。最初にあの断面を見たとき、エルドは何も感じなかった。何も感じない人間だから。でもリーネは違う。リーネは感情がある。まっすぐに感じて、まっすぐに揺れる人間だ。


「……俺も、わからなかった」


 エルドは口を開いた。自分でも予想していなかった言葉が出た。


「あいつが何なのか。今でもわからない。機械なのか、人間に近いのか、それとも全く別の何かなのか。——わからないまま、ここまで来た」


 リーネがエルドを見た。


「でも——」


 エルドは言葉を探した。見つからなかった。見つからないなら見つからないまま、出た言葉をそのまま出すしかなかった。


「あいつの笑顔が偽物かどうか、俺にはわからない。でも——偽物だと、切り捨てられなかった」


 リーネの目が——少しだけ、揺れた。


 エルドの言葉。エルドが——あの、何にも興味を持たないエルドが、「切り捨てられなかった」と言った。


 リーネは何も返さなかった。ただ膝を抱えたまま、しばらく黙っていた。


 風が吹いている。戦闘の残滓——黒い霧と瓦礫の埃——が風に流されていく。空は暗い。今日は一日中、暗かった。


 やがてリーネが立ち上がった。埃を払い、銃を肩にかけ直した。


「……ヨナには、私から話す」

「……いいのか」

「隠し続ける意味ないでしょ。——それに、ヨナは強いから。あいつは大丈夫」


 リーネの声は、まだ揺れていた。でも——立ち上がった。それがリーネだ。揺れながら、震えながら、それでも立つ。


「あんたさ」


 リーネが歩き出しながら、振り返らずに言った。


「アスカのこと——ちゃんと見ててよ。あんたしか最初から知らなかったんだから。あの子のこと、一番長く見てたのは、あんただから」


 それだけ言って、リーネは戦場の後処理に戻っていった。


 エルドは一人、壁の前に立っていた。


 アスカの「大丈夫です」が、耳の奥で響いている。いつもと同じ笑顔。いつもと同じ声。胴が裂けていても。中身が見られても。


 「大丈夫」の裏側に何があるのか——リーネは、これから考え始めるのだろう。


 エルドは——もうずっと、考えていた。


 答えは、まだ出ていない。


『綻び』 了

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