第九の園
夢を見た。
久しぶりの夢だった。前の夜、ヨナの悪夢を聞いたからかもしれない。あるいは——最近、何かが変わり始めているからかもしれない。閉じていたはずの扉が軋み、隙間から風が入り込んでくるように。
夢の中で、エルドは五歳だった。
小さな手。小さな足。視界が低い。世界が大きい。天井が高くて、窓の外の空が広くて、父の背中が山のように見えた。
第九の園。エルドの故郷。
朝の光が窓から差し込んでいた。台所で母が何かを作っている。湯気が立ち昇っている。スープの匂いだ。温かくて、少しだけ甘い匂い。
テーブルの向かい側で、兄が本を読んでいた。十二歳の兄。名前は——
夢の中で、名前が出てこない。
兄の名前を思い出せない。顔は見える。肩の広い、日焼けした少年。よく笑う兄だった。エルドを肩車して園の中を歩いてくれた。高いところが好きだった。兄の肩の上から見る景色は、世界で一番高い場所だと思っていた。
名前が——出てこない。
忘れたのではない。思い出さないようにしたのだ。いつからか。名前を思い出すと、そこに痛みがあるから。痛みを感じたくないから、名前ごと閉じた。だから出てこない。
兄がエルドを見て、何か言った。声が聞こえない。夢の中では、いつも声が消えている。口が動いている。笑っている。何か面白いことを言ったのだろう。エルドも笑っている。五歳のエルドは、笑い方を知っていた。
妹が泣いた。
一歳の妹。母の腕の中で泣いている。小さな顔。小さな手。赤い顔をして、何が不満なのか、泣いている。母がそれをあやしている。「はいはい、大丈夫よ」と。母の声だけは——なぜか、聞こえる。夢の中で、母の声だけが残っている。
父が窓を開けた。朝の風が入ってくる。冷たい風。第九の園の朝の風は、第七の園と少しだけ違う。もう少し湿っていて、もう少し重い。その違いを、五歳の体が覚えている。
——ここまでが、エルドが持っている「幸福」の記憶の全てだ。
次の瞬間、世界が裂けた。
音が先だった。園全体を叩き割るような轟音。地面が揺れた。食器が棚から落ちて割れた。母が妹を抱きしめた。父が振り返った。兄が立ち上がった。
窓の外が——赤かった。
五歳のエルドには、それが何なのかわからなかった。空が赤い。建物の向こうが赤い。そして黒い影が、赤い空を横切っていく。無数の影。蠢く影。
悪魔だった。
サイレンが鳴った。エルドが生まれて初めて聞く音だった。耳が痛くなるほど高い音。母が叫んだ。父が何かを叫んだ。兄がエルドの手を掴んだ。
家を出た。通りが人で溢れていた。泣き叫ぶ人たち。走る人たち。倒れる人たち。空から悪魔が降ってきた。灰色の体。歪んだ顔。刃のような爪。
兄がエルドを抱え上げた。走り出した。父が先導している。母が妹を抱いて後ろを走っている。家族で逃げた。どこへ逃げればいいのかわからないまま。
通りの向こうで建物が崩れた。瓦礫が降ってきた。父が叫んだ。「こっちだ」。方向を変えた。別の通りに入った。
その通りにも、悪魔がいた。
正面から来た。灰色の巨体。四つの目。裂けた口。父が——立ちはだかった。素手で。武器など持っていない。ただの市民だ。ただの父親だ。それでも、家族の前に立った。
「——行け!」
父の声が聞こえた。夢の中でも、この声は聞こえる。
兄がエルドを抱えたまま走った。母が泣きながら走った。背後で、何かが潰れる音がした。エルドは兄の肩越しに振り返った。
父が——倒れていた。
赤い。地面が赤い。父の体が——
五歳の目に焼きついた映像。それ以上は見えなかった。兄がエルドの頭を自分の胸に押しつけて、「見るな」と言った。その声は震えていた。十二歳の兄の声が、震えていた。
走った。どこまでも走った。園の端に避難所があるはずだった。避難船が出ているはずだった。
途中で——道が塞がれた。
建物が崩壊して、通りが瓦礫で埋まっていた。迂回するしかない。兄が方向を変えた。母が——ついてこなかった。
振り返ると、母が瓦礫の前で立ち止まっていた。妹を抱いたまま。瓦礫の山を見上げて——動けなくなっていた。足がすくんでいたのか。妹を抱えたままでは乗り越えられないと判断したのか。
兄が叫んだ。「母さん!」。
そのとき、上から瓦礫が落ちてきた。
崩れかけの建物の壁が、母と妹の上に——
音がした。重い。鈍い。人の体が潰れる音を、五歳のエルドはそのとき初めて聞いた。聞いて、わからなかった。何が起きたのかわからなかった。瓦礫の山の下に、母と妹が——
兄がエルドを降ろした。走り出そうとした。瓦礫をどかそうとした。十二歳の腕で。
「——来るな!」
兄がエルドに叫んだ。
「お前は行け! 避難所に行け!」
五歳のエルドは動けなかった。足が地面に縫い付けられたように動かなかった。何が起きているのかわからなかった。父がいない。母がいない。妹がいない。兄が瓦礫を掘っている。爪が割れて血が出ている。
——そのとき、悪魔が来た。
背後から。五歳のエルドの背後に、灰色の影が立った。爪が振り上げられた。
兄が——飛び込んできた。
瓦礫を掘る手を止めて、エルドの前に割り込んで、爪を受けた。背中で。十二歳の細い背中に、悪魔の爪が突き刺さった。
血が飛んだ。エルドの顔に。温かかった。兄の血が、温かかった。
兄がエルドを突き飛ばした。最後の力で。エルドの体が転がった。路地の脇に。暗い隙間に。
兄が倒れた。
動かなくなった。
五歳のエルドは、暗い隙間の中で、動かなくなった兄を見ていた。声が出なかった。涙も出なかった。何もわからなかった。何が起きたのかわからなかった。
全部が——一瞬だった。
朝の食卓。スープの匂い。兄の笑顔。妹の泣き声。父の背中。母の声。全部がそこにあった。全部が一瞬で消えた。
残ったのは、エルドだけだった。
——夢が終わった。
目を開けた。
天井。兵舎の天井。第七の園の兵舎。
エルドは横たわったまま、天井を見ていた。心臓は跳ねていない。汗も出ていない。涙も出ていない。
いつもそうだ。この夢を見ても、体が反応しない。五歳の頃は泣いた——と思う。泣いたかどうかすら、もう覚えていない。いつからか泣かなくなり、いつからか夢を見ても何も感じなくなった。
全部を閉じたからだ。
兄の名前も。母の顔も。父の声も。妹の泣き声も。全部を箱に入れて、鍵をかけて、胸の奥に沈めた。開けない。開けたら壊れる。五歳の自分が壊したものを、今さら取り出しても元には戻らない。
隣のベッドで、ヨナが寝息を立てている。穏やかな寝息。昨夜の悪夢のあとは、わりと深く眠れるらしい。吐き出したから少し楽になったのだろう。
エルドはそっと起き上がった。音を立てないように部屋を出る。
兵舎の廊下は薄暗い。夜明け前。まだ誰も起きていない時間。
屋上に出た。第七の園の空が広がっている。東の空が白み始めている。夜明け前の、一番暗くて一番冷たい時間。
風が吹いていた。冷たい風。天空都市の風。
第九の園は——まだ、ある。
エルドが五歳のとき、第九の園は悪魔の襲撃を受けた。多くの人が死んだ。エルドの家族も死んだ。でも園自体は崩落しなかった。防衛部隊がどうにか悪魔を撃退し、園は生き残った。復興した。瓦礫は片付けられ、壊れた建物は建て直され、新しい人々が住み始めた。
エルドは孤児として第七の園に移された。第九の園には一度も戻っていない。
戻る理由がない。
あの街には——もう、何もない。家族の墓もない。遺体は瓦礫の下から回収されたのかどうかすら、エルドは知らない。知ろうとしなかった。知ってどうなる。死んだ人間は戻らない。瓦礫の下も、墓の中も、同じことだ。
第九の園は復興して、知らない人たちの知らない街になった。エルドの家族が暮らした家は、もう別の建物に置き換わっているだろう。スープの匂いがした台所も、兄が本を読んでいたテーブルも、妹がよく泣いていた部屋も——全部が更地になって、別の何かに生まれ変わった。
エルドにとって、第九の園は「もう何もない場所」だ。
何も感じない。感じるはずがない。感じる理由がない。
——のに。
今朝、夢を見た。久しぶりに。閉じていたはずの箱が、ほんの少しだけ開いた。あの朝の光。スープの匂い。兄の笑顔。
開いてしまった。ほんの隙間だけ。でも——開いた。
なぜ今なのか。なぜ数週間も夢を見なかったのに、今夜に限って。
答えは——わかっている。わかりたくないが、わかっている。
ヨナの話を聞いたからだ。ヨナが自分の痛みを語ったからだ。同じものを失った人間の声を聞いて、閉じていた箱が軋んだ。
そして——もう一つ。
最近、何かを大事に思い始めている自分がいるからだ。四人でいる時間。パンの味。夕焼けの色。リーネの声。ヨナの笑顔。アスカの——
何かを大事に思えば、失うことが怖くなる。失うことが怖くなれば、かつて失ったものの痛みが戻ってくる。
箱が開いたのは——何かを、持ち始めているからだ。
「何も持たなければ何も失わない」。五歳で学んだ教訓。それが揺らいでいる。
「……エルドさん?」
声がした。
振り返ると、アスカが屋上の入口に立っていた。制服姿。髪が風に揺れている。白い髪が、夜明け前の薄明かりの中で淡く光っている。
「……何してるんですか、こんな時間に」
「……眠れなかった」
「……私もです」
アスカが近づいてきた。エルドの横に——少し離れて——立った。同じ方向を見ている。東の空。白み始めている空。
沈黙が流れた。
アスカは何も聞かなかった。なぜ眠れないのか。何があったのか。聞かなかった。ただ隣に立っていた。
エルドは——それに救われた。
救われた、という言葉が正しいのかわからない。だが、何も聞かれないことが——詮索されないことが——ただそこにいてくれることが、今のエルドにはちょうどよかった。
何分経っただろう。五分か、十分か。空が少しずつ明るくなっていく。星が消えていく。雲海の端が灰色から白に変わっていく。
「……エルドさん」
アスカが口を開いた。
「私は——故郷がないので。こういうとき、何を感じるのが正しいのか、わかりません」
エルドはアスカを見た。アスカは空を見ている。横顔。
「でも——」
アスカが少しだけ声を落とした。
「ここにいます」
それだけだった。
不器用な言葉だった。的外れかもしれない。エルドが何に苦しんでいるのか——苦しんでいるかどうかすら——アスカにはわかっていないだろう。故郷を失った人間の痛みを、故郷のない機械が理解できるはずがない。
でも。
「ここにいます」。
その一言が——エルドの胸の中で、何かに触れた。
閉じた箱が軋む。痛みが滲む。五歳のあの朝。失ったもの。もう戻らないもの。それら全部が、箱の隙間から溢れ出そうとしている。
——でも、隣に誰かがいる。
その事実が、箱の蓋を完全には吹き飛ばさなかった。溢れ出しかけたものを、どうにか留めた。壊れるほどには開かなかった。
エルドは何も言わなかった。言えなかった。ありがとうとも、助かったとも、何も。
ただ——いつもより少しだけ長く、アスカの隣にいた。
空が明るくなっていく。朝が来る。
兵舎から人の気配が動き始めた。起床時間だ。日常が始まる。
「……戻りましょうか」
アスカがそう言って、先に歩き出した。エルドも続いた。
屋上の扉をくぐる前に、エルドは一度だけ振り返った。東の空を見た。第九の園がある方角。ここからは見えない。見えないが——あの場所がまだ空の上にあることを、エルドは知っている。
何もない場所。もう何もない場所。
——のはずなのに。
胸の奥で、五歳の自分が、まだあの台所に立っている。スープの匂いを嗅いでいる。兄の笑顔を見上げている。
全部を閉じたつもりだった。何も残っていないつもりだった。
でも——残っていた。深い場所に。手の届かない場所に。エルドが見ないようにしていた場所に。
スープの匂いが、まだ残っていた。
エルドは前を向いた。アスカの白い髪が、廊下の薄明かりの中で揺れている。
何も言わなかった。何も言えなかった。
でも——今朝、初めて思った。
あの夢を見ても壊れなかったのは——隣に、誰かがいたからかもしれない。
それが何を意味するのか、エルドはまだわからない。わからないまま、廊下を歩いた。アスカの後ろを。いつもの距離で。いつもの速度で。
でも今日は——その距離が、少しだけ近い気がした。
気のせいかもしれない。
気のせいで、いい。
今はまだ。
『第九の園』 了




