ヨナの夜
夜中に、声がした。
エルドは眠りが浅い。昔からそうだ。深く眠ることができない。深く眠ると夢を見る。夢の中では五歳に戻る。五歳に戻れば——あの日に戻る。だから浅い眠りの水面をたゆたうように、意識の半分を覚醒側に残したまま、夜を過ごす。
声は隣のベッドから聞こえた。
ヨナだった。
うなされている。体が丸まって、シーツを握りしめている。額に汗が浮いている。呼吸が荒い。唇が動いている。何かを言っている——声にならない声で。
「——か、さん……逃げ——待って——」
断片的な言葉。叫びの残骸。夢の中で、ヨナは誰かを呼んでいる。
エルドは天井を見ていた。
起こすべきか。放っておくべきか。判断するまでもなかった。放っておいても、どうせヨナは自分で目を覚ます。そしてエルドに謝る。「ごめん、起こしちゃった」と。いつものことだ。
——いつものこと。
この数週間で、ヨナが夜中にうなされるのを何度も聞いた。週に二度か三度。多い週は毎晩。決まって同じだ。汗をかいて、体を丸めて、声にならない声で誰かを呼ぶ。そして自分で目を覚まし、しばらく暗闇の中で荒い呼吸を繰り返し、水を飲んで、もう一度横になる。
エルドはそのたびに、起きているふりをしなかった。眠っているふりをした。ヨナに気を遣わせたくなかった——わけではない。単に面倒だったのだ。声をかければ会話になる。会話になれば、何かを感じなければならない。何も感じたくなかった。
だが今夜は——ヨナの声が、いつもより大きかった。
「——やめて、壊さないで——落ちる——落ちてく——」
体がびくりと跳ねた。シーツが引き裂かれるような勢いで上体が起き上がる。ヨナが目を見開いた。暗闇の中で、目だけがぎらりと光った。汗だくだった。肩で息をしている。両手が震えている。
数秒の間、ヨナは自分がどこにいるのかわかっていなかった。視線が泳ぎ、壁を、天井を、窓を順に見て——そしてようやく、ここが第七の園の兵舎であることを思い出したように、ゆっくりと呼吸を整え始めた。
エルドは起き上がった。
枕元の水差しからコップに水を注ぎ、ヨナのベッドの傍に立った。何も言わず、コップを差し出した。
ヨナが顔を上げた。暗闇の中でエルドの輪郭を認識して——表情が崩れた。
「……ごめん。起こしちゃった」
予想通りの言葉だった。
「起きてた」
エルドは短く答え、コップをヨナの手に押しつけた。ヨナの手はまだ震えている。コップを受け取る指が、水面を揺らした。
ヨナが水を飲む。一口。二口。喉が鳴る。コップを両手で包み込むように持って、膝の上に置いた。震えが少しずつ収まっていく。
沈黙が流れた。
エルドは自分のベッドに戻るべきだった。水を渡した。それで十分だ。これ以上ここにいる理由はない。ヨナは大丈夫だ。いつもそうだ。しばらくすれば落ち着いて、もう一度横になる。
——なのに、足が動かなかった。
ヨナのベッドの脇に立ったまま、エルドは立っていた。なぜだかわからない。体が動かないのだ。正確には——動こうとしない。何かが、ここにいろと言っている。頭ではなく、もっと深い場所が。
ヨナが顔を上げた。エルドが戻らないことに気づいて、少しだけ驚いた顔をした。
「……エルドさん?」
「…………」
エルドはヨナのベッドの端に腰を下ろした。自分でも予想していなかった動きだった。
また沈黙。
窓の外では風が鳴っている。天空都市の夜風。冷たくて、薄くて、どこまでも透明な風。月明かりが窓から差し込んで、部屋を青白く染めている。
「……第三の園の夢?」
エルドが聞いた。聞くつもりはなかった。口が勝手に動いた。最近、それが多すぎる。
ヨナは少しだけ目を見開いて、それから力なく頷いた。
「……うん。いつも同じ夢。同じ場所、同じ光景。何回見ても、慣れない」
コップの水面を見つめながら、ヨナは静かに話し始めた。
「第三の園が崩落したのは、僕が九歳のときでした」
エルドは黙って聞いていた。
「朝だったんです。普通の朝でした。母さんがパンを焼いてて、父さんが窓を開けてて。妹がまだ寝てて、僕が起こしに行こうとして——」
ヨナの声が、わずかに揺れた。
「——サイレンが鳴ったんです。一度も聞いたことない音でした。父さんの顔が真っ白になって。母さんがパンを落として。そこから先は——全部が、速かった」
ヨナはコップを握りしめた。
「街が揺れて。壁が割れて。空が——空が、傾いたんです。園全体が、斜めになって。地面が斜面みたいになって、人が滑り落ちていって。建物が崩れて。母さんが妹を抱いて走って、父さんが僕の手を引っ張って——」
声が止まった。数秒の沈黙。
「——途中で、手が離れたんです」
ヨナの目が、遠くを見ていた。ここではない場所を。
「父さんの手が。瓦礫が落ちてきて、僕は反射的に手を離して——離してしまったんです。逃げてしまった。父さんが瓦礫の下に——」
声が震える。
「母さんと妹は、園が傾いたときに——滑り落ちて。掴まる場所がなくて。僕は見たんです。母さんが妹を抱いたまま、園の縁から——」
言葉が途切れた。
エルドは黙っていた。何も言えなかった。何を言えばいいのかわからなかった。
ヨナが続けた。声は震えていたが、止まらなかった。
「僕は生き残りました。避難船に乗れたんです。第七の園に来ました。何も持ってなかった。服一枚だけでした。——それから、ずっと」
コップの水が揺れている。ヨナの手の震えが、まだ止まっていない。
「夢に見るんです。毎晩じゃないけど、何度も。父さんの手が離れる瞬間。母さんと妹が落ちていく姿。何もできなかった自分。——何回見ても、同じなんです。何回見ても、助けられない」
ヨナが顔を上げた。エルドを見た。その目は赤かったが、涙は流れていなかった。泣くことすらできないほど、深い場所にある痛み。
「エルドさんは……似たような経験、あるんですよね」
エルドの体が、微かに強張った。
「……リーネさんから聞きました。詳しくは聞いてないです。ただ——エルドさんも、小さい頃に園の襲撃で家族を亡くしたって。第九の園だって」
リーネが話したのか。余計なことを——とは思わなかった。リーネにはリーネの判断がある。ヨナとエルドが似た過去を持っていることを、リーネは知っている。それを伝えたのは、多分——ヨナのためだ。同じ痛みを持つ人間が近くにいると知ることが、救いになることもある。リーネはそういう人間だ。
「……ああ」
エルドは短く答えた。否定する理由がなかった。
「五歳のときだ。第九の園が悪魔に襲われた。家族は全員死んだ」
淡々と言った。事実を述べるだけだ。そこに感情はない。ない——はずだ。
ヨナはエルドの言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。
「……聞いてもいいですか」
「何を」
「エルドさんは——つらくないんですか」
つらい。
その言葉を聞いて、エルドの中で何かが軋んだ。微かに。かすかに。聞こえるか聞こえないかの音。
「……つらくない」
答えた。嘘ではない。つらくないのだ。つらいと感じる回路を、とっくに閉じてしまった。五歳で閉じた。あの日、瓦礫の下で兄の体温が消えていくのを感じながら——全部、閉じた。何も感じなければ、何もつらくない。それがエルドの生き方だった。
「何も感じない。昔のことだ。もう終わったことだ」
「……そうですか」
ヨナの声は、小さかった。否定ではない。でも納得でもない。
「僕は——つらいです。今でも」
ヨナはコップを見つめた。
「終わったことだって、わかってます。もう取り戻せないって、わかってます。でも——終われないんです。僕の中では。毎晩夢に見るし、思い出すと手が震えるし。こうやって話してても——ほら」
ヨナが右手を持ち上げた。まだ震えている。
「止まらないんです。もう何年も経つのに」
エルドはヨナの手を見た。震える手。痛みが今もそこにある。生きている。ヨナの中で、あの日の記憶は生きている。死んでいない。風化していない。鮮明に、残酷に、ヨナの体に刻まれている。
エルドの手は——震えない。
同じものを見た。同じものを失った。なのにエルドの手は震えない。痛みがないからだ。正確には——痛みを感じないようにしたからだ。全てを手放したからだ。何も大事にしなければ何も失わない。何も感じなければ何もつらくない。そうやって生きてきた。
ヨナは違う。
ヨナは痛みを手放さなかった。手放せなかった。あの日の記憶を抱えたまま、震える手で銃を握り、戦場に立っている。つらいと言える。怖いと言える。それでも——
「でも」
ヨナが顔を上げた。
「僕は、諦めたくないんです」
その目は——真っ直ぐだった。震えていたはずの声が、不思議と澄んでいた。
「弱いですよ、僕は。戦闘では足を引っ張るし、いざってときに動けないし。この前もアスカさんに庇ってもらって、情けなくて」
ヨナは苦笑した。自嘲ではない。自分の弱さを、正面から見つめている顔だった。
「僕は弱いよ。でも——弱いからって、諦めたくはないんだ」
その言葉は、エルドに向けられていた。でも同時に、ヨナ自身に向けられてもいた。自分に言い聞かせるように。確認するように。
「第三の園を失って、家族を失って。何もなくなった。でも——ここに来て、リーネさんに会って、エルドさんに会って。今はアスカさんもいて。次の場所では誰も死なないでほしいって——そう思うことだけは、やめたくない」
ヨナがエルドを見た。
「だから僕は、つらくても、怖くても、ここにいます。何もできないかもしれない。守れないかもしれない。でも——いたいんです。ここに」
エルドは何も言えなかった。
ヨナの言葉が、胸の中に落ちていく。重い。軽くない。確かな重さを持って、エルドの中のどこかに沈んでいく。
——弱いからって、諦めたくはない。
エルドには、その言葉が眩しかった。
自分は諦めた。五歳で諦めた。全てを手放して、何も感じないようにして、空っぽになった。痛みから逃げた。つらさから逃げた。生きることからも死ぬことからも逃げて、どちらでもない場所に立っている。
ヨナは逃げなかった。痛みを抱えて、震えながら、それでも「ここにいたい」と言える。弱いと知っていて、弱いまま立っている。
同じものを失った二人。同じ痛みを与えられた二人。
なのに——
片方は空っぽになり、片方は空っぽにならなかった。
その差は何だ。何がヨナとエルドを分けたのだ。
——わからない。
わからないが、ヨナの言葉は確かにエルドの中に届いた。届いて、沈んで、消えなかった。
「……すみません、こんな話。重いですよね」
ヨナが苦笑した。コップの水を飲み干して、ベッドの横に置く。
「もう大丈夫です。——ありがとう、エルドさん。水」
エルドは立ち上がった。自分のベッドに戻ろうとして——足が、止まった。
背中をヨナに向けたまま、口を開いた。
「……俺は」
声が出た。出すつもりはなかった。
「俺は——お前みたいに、つらいとは思えない。何も感じない。昔からそうだ」
沈黙。
「でも——」
言葉が詰まった。何を言おうとしている。自分でもわからない。何かを伝えようとしている。伝えるべき言葉を、持っていないのに。
「……お前が弱いとは、思わない」
それだけだった。それだけしか出なかった。
背中越しに、ヨナの気配が動いた。何かを言おうとして、でも飲み込んだような間。
「……ありがとう」
小さな声だった。震えていた。でも、悪夢のときとは違う震え方だった。
エルドは自分のベッドに横になった。天井を見る。月明かりが窓から斜めに差し込んで、天井に青白い四角を描いている。
ヨナの寝息が、少しずつ穏やかになっていく。眠りに落ちていく。今度は悪夢を見ないでほしいと——
——待て。
今、何を思った。
エルドは天井を見つめたまま、自分の思考を反芻した。
「悪夢を見ないでほしい」。
そう思った。確かに思った。ヨナに対して。悪夢を見ずに朝を迎えてほしいと。
——それは、何だ。
心配か。気遣いか。そんなものが、自分の中に残っていたのか。五歳で全て焼き切ったはずの回路が、まだどこかに——
いや。違う。気のせいだ。ただの思考の残滓だ。ヨナの話を聞いた直後だから、影響を受けただけだ。明日になれば消えている。
——本当に?
エルドは目を閉じた。
暗闇の中で、ヨナの言葉が反響している。
「弱いからって、諦めたくはない」
その言葉の隣に、別の声が並んだ。
「私は平気ですから」
アスカの声だった。
ヨナは弱いと認めて、それでも立っている。アスカは平気だと言って、立っている。二人とも立っている。震えながら、嘘をつきながら、それでも。
エルドは——立っているだけだ。立っているのは同じでも、そこに意志がない。理由がない。退く理由がないから立っているだけで、立つ理由があるわけではない。
それは——立っていると言えるのか。
わからない。何もわからない。
ただ——今夜、ヨナに水を渡した。ベッドの端に座った。話を聞いた。「弱いとは思わない」と言った。全部、自分の意志でやったことだ。命令ではなく、義務でもなく。自分が——そうしたいと思ったから。
そうしたい。
その感覚が、エルドの中で微かに息をしている。
何かが戻りつつある。壊れた回路の、どこかに、微かな電流が流れ始めている。まだ弱い。まだ不確かだ。でも——ある。確かに、ある。
それが何に繋がるのか、エルドにはまだ見えない。
月明かりが窓から差し込んでいる。ヨナの寝息が静かに聞こえる。冷たい風が窓枠を鳴らす。
夜は深い。でも——朝は来る。
明日もまた、四人で顔を合わせる。リーネが喋り、ヨナが笑い、アスカが微笑み、エルドが黙っている。いつもと同じ朝が来る。
いつもと同じ——のに、少しだけ違う朝が。
エルドは目を閉じたまま、眠りを待った。今夜は——いつもより、少しだけ深く眠れそうな気がした。
夢は、見なかった。
『ヨナの夜』 了




