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崩落のエデン  作者: だんご


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7/25

ヨナの夜

 夜中に、声がした。


 エルドは眠りが浅い。昔からそうだ。深く眠ることができない。深く眠ると夢を見る。夢の中では五歳に戻る。五歳に戻れば——あの日に戻る。だから浅い眠りの水面をたゆたうように、意識の半分を覚醒側に残したまま、夜を過ごす。


 声は隣のベッドから聞こえた。


 ヨナだった。


 うなされている。体が丸まって、シーツを握りしめている。額に汗が浮いている。呼吸が荒い。唇が動いている。何かを言っている——声にならない声で。


「——か、さん……逃げ——待って——」


 断片的な言葉。叫びの残骸。夢の中で、ヨナは誰かを呼んでいる。


 エルドは天井を見ていた。


 起こすべきか。放っておくべきか。判断するまでもなかった。放っておいても、どうせヨナは自分で目を覚ます。そしてエルドに謝る。「ごめん、起こしちゃった」と。いつものことだ。


 ——いつものこと。


 この数週間で、ヨナが夜中にうなされるのを何度も聞いた。週に二度か三度。多い週は毎晩。決まって同じだ。汗をかいて、体を丸めて、声にならない声で誰かを呼ぶ。そして自分で目を覚まし、しばらく暗闇の中で荒い呼吸を繰り返し、水を飲んで、もう一度横になる。


 エルドはそのたびに、起きているふりをしなかった。眠っているふりをした。ヨナに気を遣わせたくなかった——わけではない。単に面倒だったのだ。声をかければ会話になる。会話になれば、何かを感じなければならない。何も感じたくなかった。


 だが今夜は——ヨナの声が、いつもより大きかった。


「——やめて、壊さないで——落ちる——落ちてく——」


 体がびくりと跳ねた。シーツが引き裂かれるような勢いで上体が起き上がる。ヨナが目を見開いた。暗闇の中で、目だけがぎらりと光った。汗だくだった。肩で息をしている。両手が震えている。


 数秒の間、ヨナは自分がどこにいるのかわかっていなかった。視線が泳ぎ、壁を、天井を、窓を順に見て——そしてようやく、ここが第七の園の兵舎であることを思い出したように、ゆっくりと呼吸を整え始めた。


 エルドは起き上がった。


 枕元の水差しからコップに水を注ぎ、ヨナのベッドの傍に立った。何も言わず、コップを差し出した。


 ヨナが顔を上げた。暗闇の中でエルドの輪郭を認識して——表情が崩れた。


「……ごめん。起こしちゃった」


 予想通りの言葉だった。


「起きてた」


 エルドは短く答え、コップをヨナの手に押しつけた。ヨナの手はまだ震えている。コップを受け取る指が、水面を揺らした。


 ヨナが水を飲む。一口。二口。喉が鳴る。コップを両手で包み込むように持って、膝の上に置いた。震えが少しずつ収まっていく。


 沈黙が流れた。


 エルドは自分のベッドに戻るべきだった。水を渡した。それで十分だ。これ以上ここにいる理由はない。ヨナは大丈夫だ。いつもそうだ。しばらくすれば落ち着いて、もう一度横になる。


 ——なのに、足が動かなかった。


 ヨナのベッドの脇に立ったまま、エルドは立っていた。なぜだかわからない。体が動かないのだ。正確には——動こうとしない。何かが、ここにいろと言っている。頭ではなく、もっと深い場所が。


 ヨナが顔を上げた。エルドが戻らないことに気づいて、少しだけ驚いた顔をした。


「……エルドさん?」

「…………」


 エルドはヨナのベッドの端に腰を下ろした。自分でも予想していなかった動きだった。


 また沈黙。


 窓の外では風が鳴っている。天空都市の夜風。冷たくて、薄くて、どこまでも透明な風。月明かりが窓から差し込んで、部屋を青白く染めている。


「……第三の園の夢?」


 エルドが聞いた。聞くつもりはなかった。口が勝手に動いた。最近、それが多すぎる。


 ヨナは少しだけ目を見開いて、それから力なく頷いた。


「……うん。いつも同じ夢。同じ場所、同じ光景。何回見ても、慣れない」


 コップの水面を見つめながら、ヨナは静かに話し始めた。


「第三の園が崩落したのは、僕が九歳のときでした」


 エルドは黙って聞いていた。


「朝だったんです。普通の朝でした。母さんがパンを焼いてて、父さんが窓を開けてて。妹がまだ寝てて、僕が起こしに行こうとして——」


 ヨナの声が、わずかに揺れた。


「——サイレンが鳴ったんです。一度も聞いたことない音でした。父さんの顔が真っ白になって。母さんがパンを落として。そこから先は——全部が、速かった」


 ヨナはコップを握りしめた。


「街が揺れて。壁が割れて。空が——空が、傾いたんです。園全体が、斜めになって。地面が斜面みたいになって、人が滑り落ちていって。建物が崩れて。母さんが妹を抱いて走って、父さんが僕の手を引っ張って——」


 声が止まった。数秒の沈黙。


「——途中で、手が離れたんです」


 ヨナの目が、遠くを見ていた。ここではない場所を。


「父さんの手が。瓦礫が落ちてきて、僕は反射的に手を離して——離してしまったんです。逃げてしまった。父さんが瓦礫の下に——」


 声が震える。


「母さんと妹は、園が傾いたときに——滑り落ちて。掴まる場所がなくて。僕は見たんです。母さんが妹を抱いたまま、園の縁から——」


 言葉が途切れた。


 エルドは黙っていた。何も言えなかった。何を言えばいいのかわからなかった。


 ヨナが続けた。声は震えていたが、止まらなかった。


「僕は生き残りました。避難船に乗れたんです。第七の園に来ました。何も持ってなかった。服一枚だけでした。——それから、ずっと」


 コップの水が揺れている。ヨナの手の震えが、まだ止まっていない。


「夢に見るんです。毎晩じゃないけど、何度も。父さんの手が離れる瞬間。母さんと妹が落ちていく姿。何もできなかった自分。——何回見ても、同じなんです。何回見ても、助けられない」


 ヨナが顔を上げた。エルドを見た。その目は赤かったが、涙は流れていなかった。泣くことすらできないほど、深い場所にある痛み。


「エルドさんは……似たような経験、あるんですよね」


 エルドの体が、微かに強張った。


「……リーネさんから聞きました。詳しくは聞いてないです。ただ——エルドさんも、小さい頃に園の襲撃で家族を亡くしたって。第九の園だって」


 リーネが話したのか。余計なことを——とは思わなかった。リーネにはリーネの判断がある。ヨナとエルドが似た過去を持っていることを、リーネは知っている。それを伝えたのは、多分——ヨナのためだ。同じ痛みを持つ人間が近くにいると知ることが、救いになることもある。リーネはそういう人間だ。


「……ああ」


 エルドは短く答えた。否定する理由がなかった。


「五歳のときだ。第九の園が悪魔に襲われた。家族は全員死んだ」


 淡々と言った。事実を述べるだけだ。そこに感情はない。ない——はずだ。


 ヨナはエルドの言葉を聞いて、少しだけ目を伏せた。


「……聞いてもいいですか」

「何を」

「エルドさんは——つらくないんですか」


 つらい。


 その言葉を聞いて、エルドの中で何かが軋んだ。微かに。かすかに。聞こえるか聞こえないかの音。


「……つらくない」


 答えた。嘘ではない。つらくないのだ。つらいと感じる回路を、とっくに閉じてしまった。五歳で閉じた。あの日、瓦礫の下で兄の体温が消えていくのを感じながら——全部、閉じた。何も感じなければ、何もつらくない。それがエルドの生き方だった。


「何も感じない。昔のことだ。もう終わったことだ」

「……そうですか」


 ヨナの声は、小さかった。否定ではない。でも納得でもない。


「僕は——つらいです。今でも」


 ヨナはコップを見つめた。


「終わったことだって、わかってます。もう取り戻せないって、わかってます。でも——終われないんです。僕の中では。毎晩夢に見るし、思い出すと手が震えるし。こうやって話してても——ほら」


 ヨナが右手を持ち上げた。まだ震えている。


「止まらないんです。もう何年も経つのに」


 エルドはヨナの手を見た。震える手。痛みが今もそこにある。生きている。ヨナの中で、あの日の記憶は生きている。死んでいない。風化していない。鮮明に、残酷に、ヨナの体に刻まれている。


 エルドの手は——震えない。


 同じものを見た。同じものを失った。なのにエルドの手は震えない。痛みがないからだ。正確には——痛みを感じないようにしたからだ。全てを手放したからだ。何も大事にしなければ何も失わない。何も感じなければ何もつらくない。そうやって生きてきた。


 ヨナは違う。


 ヨナは痛みを手放さなかった。手放せなかった。あの日の記憶を抱えたまま、震える手で銃を握り、戦場に立っている。つらいと言える。怖いと言える。それでも——


「でも」


 ヨナが顔を上げた。


「僕は、諦めたくないんです」


 その目は——真っ直ぐだった。震えていたはずの声が、不思議と澄んでいた。


「弱いですよ、僕は。戦闘では足を引っ張るし、いざってときに動けないし。この前もアスカさんに庇ってもらって、情けなくて」


 ヨナは苦笑した。自嘲ではない。自分の弱さを、正面から見つめている顔だった。


「僕は弱いよ。でも——弱いからって、諦めたくはないんだ」


 その言葉は、エルドに向けられていた。でも同時に、ヨナ自身に向けられてもいた。自分に言い聞かせるように。確認するように。


「第三の園を失って、家族を失って。何もなくなった。でも——ここに来て、リーネさんに会って、エルドさんに会って。今はアスカさんもいて。次の場所では誰も死なないでほしいって——そう思うことだけは、やめたくない」


 ヨナがエルドを見た。


「だから僕は、つらくても、怖くても、ここにいます。何もできないかもしれない。守れないかもしれない。でも——いたいんです。ここに」


 エルドは何も言えなかった。


 ヨナの言葉が、胸の中に落ちていく。重い。軽くない。確かな重さを持って、エルドの中のどこかに沈んでいく。


 ——弱いからって、諦めたくはない。


 エルドには、その言葉が眩しかった。


 自分は諦めた。五歳で諦めた。全てを手放して、何も感じないようにして、空っぽになった。痛みから逃げた。つらさから逃げた。生きることからも死ぬことからも逃げて、どちらでもない場所に立っている。


 ヨナは逃げなかった。痛みを抱えて、震えながら、それでも「ここにいたい」と言える。弱いと知っていて、弱いまま立っている。


 同じものを失った二人。同じ痛みを与えられた二人。


 なのに——


 片方は空っぽになり、片方は空っぽにならなかった。


 その差は何だ。何がヨナとエルドを分けたのだ。


 ——わからない。


 わからないが、ヨナの言葉は確かにエルドの中に届いた。届いて、沈んで、消えなかった。


「……すみません、こんな話。重いですよね」


 ヨナが苦笑した。コップの水を飲み干して、ベッドの横に置く。


「もう大丈夫です。——ありがとう、エルドさん。水」


 エルドは立ち上がった。自分のベッドに戻ろうとして——足が、止まった。


 背中をヨナに向けたまま、口を開いた。


「……俺は」


 声が出た。出すつもりはなかった。


「俺は——お前みたいに、つらいとは思えない。何も感じない。昔からそうだ」


 沈黙。


「でも——」


 言葉が詰まった。何を言おうとしている。自分でもわからない。何かを伝えようとしている。伝えるべき言葉を、持っていないのに。


「……お前が弱いとは、思わない」


 それだけだった。それだけしか出なかった。


 背中越しに、ヨナの気配が動いた。何かを言おうとして、でも飲み込んだような間。


「……ありがとう」


 小さな声だった。震えていた。でも、悪夢のときとは違う震え方だった。


 エルドは自分のベッドに横になった。天井を見る。月明かりが窓から斜めに差し込んで、天井に青白い四角を描いている。


 ヨナの寝息が、少しずつ穏やかになっていく。眠りに落ちていく。今度は悪夢を見ないでほしいと——


 ——待て。


 今、何を思った。


 エルドは天井を見つめたまま、自分の思考を反芻した。


 「悪夢を見ないでほしい」。


 そう思った。確かに思った。ヨナに対して。悪夢を見ずに朝を迎えてほしいと。


 ——それは、何だ。


 心配か。気遣いか。そんなものが、自分の中に残っていたのか。五歳で全て焼き切ったはずの回路が、まだどこかに——


 いや。違う。気のせいだ。ただの思考の残滓だ。ヨナの話を聞いた直後だから、影響を受けただけだ。明日になれば消えている。


 ——本当に?


 エルドは目を閉じた。


 暗闇の中で、ヨナの言葉が反響している。


 「弱いからって、諦めたくはない」


 その言葉の隣に、別の声が並んだ。


 「私は平気ですから」


 アスカの声だった。


 ヨナは弱いと認めて、それでも立っている。アスカは平気だと言って、立っている。二人とも立っている。震えながら、嘘をつきながら、それでも。


 エルドは——立っているだけだ。立っているのは同じでも、そこに意志がない。理由がない。退く理由がないから立っているだけで、立つ理由があるわけではない。


 それは——立っていると言えるのか。


 わからない。何もわからない。


 ただ——今夜、ヨナに水を渡した。ベッドの端に座った。話を聞いた。「弱いとは思わない」と言った。全部、自分の意志でやったことだ。命令ではなく、義務でもなく。自分が——そうしたいと思ったから。


 そうしたい。


 その感覚が、エルドの中で微かに息をしている。


 何かが戻りつつある。壊れた回路の、どこかに、微かな電流が流れ始めている。まだ弱い。まだ不確かだ。でも——ある。確かに、ある。


 それが何に繋がるのか、エルドにはまだ見えない。


 月明かりが窓から差し込んでいる。ヨナの寝息が静かに聞こえる。冷たい風が窓枠を鳴らす。


 夜は深い。でも——朝は来る。


 明日もまた、四人で顔を合わせる。リーネが喋り、ヨナが笑い、アスカが微笑み、エルドが黙っている。いつもと同じ朝が来る。


 いつもと同じ——のに、少しだけ違う朝が。


 エルドは目を閉じたまま、眠りを待った。今夜は——いつもより、少しだけ深く眠れそうな気がした。


 夢は、見なかった。


『ヨナの夜』 了

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