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崩落のエデン  作者: だんご


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6/25

知らなかった時間

 数週間が経った。


 時間は、戦闘と非番の繰り返しの中で過ぎていく。小規模な悪魔の襲撃が週に一度か二度。そのたびに防衛部隊が出動し、アスカが前線を支え、エルドとリーネが後方から援護し、ヨナが後方支援に回る。死者が出る日もあれば、出ない日もある。そのどちらの日も、翌朝になれば兵舎の廊下を歩き、食堂でパンを齧り、詰所で装備の手入れをする。


 日常というものは、繰り返すことで輪郭を持つ。


 四人で行動することが、いつの間にか当たり前になっていた。


 朝は詰所に集合する。リーネが前日の夜に仕入れたどうでもいい話——食堂の新メニューが不評だったとか、隣の班の誰かが寝坊して班長に怒鳴られたとか——を一通り喋り、ヨナが穏やかに相槌を打ち、アスカが時折微笑み、エルドが黙って聞いている。任務が来れば動く。来なければ訓練か、装備の手入れか、報告書。


 非番の日は、四人で園を歩くようになった。


 最初はリーネが強引に誘った形だったが、いつの間にか誰も誘わなくても自然と集まるようになっていた。詰所を出て、市場を歩き、屋台で何かを買い食いし、展望広場で空を眺めて帰る。決まったルート。決まった時間。些細な、でも確かな習慣。


 今日もそうだった。


「今日はさ、市場の奥まで行ってみようよ。あっちに新しい店ができたって聞いたんだけど」


 リーネが先頭を歩く。いつもそうだ。リーネが先頭で、ヨナがその横、アスカが半歩後ろ、エルドがさらにその後ろ。この配置もいつの間にか定まっていた。


「何の店ですか?」とヨナが聞く。

「なんか、甘いもの。焼き菓子? 蜜漬けの果実を使ったやつらしいよ」

「蜜漬け……」


 アスカが小さく呟いた。その声のトーンに、微かな期待のようなものが混じっていることに、エルドは気づいていた。この数週間で学んだことだ。アスカは食べ物の話になると、ほんの少しだけ声が弾む。本人は意識していないかもしれない。だが確かに、食事に関してだけ——アスカの感情の温度が、わずかに上がる。


 市場の奥。石造りの建物が密集した一角に、小さな店があった。窓から甘い匂いが漂ってきている。焦がした砂糖と、果実の酸味。


「ここだ。——四つください」


 リーネが迷わず四人分を注文した。エルドの分も当然のように含まれている。抵抗する気力はとうになかった。


 焼き菓子が紙に包まれて渡される。表面に蜜が光っている。中に果実が練り込まれているらしく、赤い断面が見えている。


 四人で歩きながら食べた。リーネが最初に齧って「うっま」と声を上げた。ヨナが「本当だ、おいしいです」と続く。


 アスカが一口齧った。


 咀嚼する。表情が動く。目が——見開かれた。ほんの少しだけ。でも確かに。


「……おいしい」


 その声には、いつもの丁寧さの下に、剥き出しの驚きがあった。味に驚いている。甘さと酸味と焦げた香ばしさの混合に、本当に驚いている。


「ね? いいでしょ」

「はい。こんな——こんな味、初めてです」


 アスカはもう一口齧った。今度は少しゆっくりと。味わうように。噛むたびに表情が微かに変わる。眉がわずかに上がり、目が細くなり、口元が緩む。食べることに集中している。他の全てを忘れたかのように。


 ——初めて。


 アスカの口から、この数週間で何度聞いただろう。焼きたてのパンを食べたのが初めて。揚げ芋を食べたのが初めて。屋台で食べ歩きをしたのが初めて。四人で夕焼けを見たのが初めて。市場で土産を選ぶ光景を見たのが初めて。くだらない冗談で笑ったのが初めて。


 アスカはこれまで、戦闘と整備の繰り返しで生きてきた。兵器として製造され、兵器として運用され、戦場から戦場へ移動する日々。その中に「日常」と呼べるものはなかった。食事をする余裕も、景色を眺める時間も、誰かと連れ立って歩く習慣も。


 全てが初めてだった。


 その「初めて」が、一つずつ積み重なっていく。パンの味。夕焼けの色。笑い声。隣を歩く足音。全部が、アスカの中に降り積もっていく。


 降り積もっていることに、アスカ自身は気づいているのだろうか。


「リーネさん、これ、また買いに来てもいいですか」

「もちろん。毎週来ようよ」

「毎週……」


 アスカが小さく笑った。毎週。同じ場所に。同じ人たちと。その繰り返しが——日常という名前を持つことを、アスカはまだ知らない。


 市場の中を歩きながら、リーネが途中で足を止めた。布地を扱う店の前。


「ちょっと待って、これ見たい」


 リーネが手に取ったのは、淡い青色のリボンだった。


「弟の誕生日が来月でさ。何あげようか迷ってて。まあリボンじゃないんだけど、こういう色が好きなんだよね、あの子」


 リーネが品物を見ている間、ヨナがアスカに話しかけた。


「アスカさんは、誕生日っていつですか?」


 何気ない質問だった。ヨナにとっては当たり前の問い。


 アスカの手が、一瞬止まった。焼き菓子を持ったまま。


「……誕生日」


 その言葉を、舌の上で転がすように繰り返した。


「……ないです。多分」

「ない?」

「あ、いえ——ちゃんと覚えていないだけです。小さい頃のことで」


 嘘だ。エルドにはわかった。アスカに誕生日はない。製造日ならあるかもしれない。だがそれは「誕生日」とは呼ばない。呼ぶ人間がいない。


 ヨナは少し考えて、それから笑った。


「じゃあ、決めましょうよ。好きな日を誕生日にすれば——」


「——今日がいいんじゃない?」


 リーネが振り返って割り込んだ。布地の店から戻ってきている。


「今日?」とヨナ。


「だって、初めてこの菓子食べた日でしょ。記念日じゃん」


 冗談半分の提案だった。リーネはそういう人間だ。深い意味なく、明るく、軽く。


 アスカは——少しだけ、目を瞬かせた。


「……今日が、私の誕生日」


 その言葉を口にしたとき、アスカの表情が——変わった。


 笑顔が消えたのではない。むしろ深くなった。いつもの丁寧な笑顔の下から、別の層が浮かび上がってきた。唇の端が微かに震えて、目の奥に光が灯った。嬉しさとも困惑ともつかない、名前のない表情。


 一瞬だった。すぐにいつもの顔に戻った。


「……ありがとうございます。今日を覚えておきます」


 穏やかな声。整った笑顔。


 リーネは「じゃあ来年はケーキ買わなきゃね」と笑い、ヨナは「楽しみですね」と言った。二人にとっては、楽しい冗談の延長でしかない。


 エルドだけが——あの一瞬の表情を、見ていた。


 あれは——前にも見たことがある。展望広場で、リーネに「四人で来よう」と言われたときの、あの瞬間と同じだった。作り物ではない何か。仮面の下から零れ落ちた、生の感情。


 何を感じたのかはわからない。嬉しかったのか。悲しかったのか。それとも、嬉しいことが悲しかったのか。


 エルドにはわからない。わからないが——あの表情は確かに存在した。プログラムされたものではない、何かが。


 市場を一通り回った後、四人はいつもの展望広場に来た。


 夕方の光が園を染めている。雲海が橙色に変わり始めている。風が柔らかい。四人とも柵に寄りかかって、空を見ている。


「いい天気だったね、今日」


 リーネが伸びをした。


「焼き菓子おいしかったし、いい非番だった」

「はい。僕も楽しかったです」


 ヨナがそう言って、ふとアスカのほうを見た。


「アスカさんは? 楽しかったですか?」


 楽しい。


 その問いに、アスカは少し黙った。


 黙って、空を見た。夕焼けの光が白い髪を染めている。風が頬を撫でている。手には食べかけの焼き菓子の紙。隣にはリーネとヨナがいて、少し離れた場所にエルドがいる。


「……わからないです」


 アスカの声は静かだった。


「楽しい、が何なのか、正直まだよくわからなくて。こういう時間を過ごすこと自体が初めてで——比較するものがないんです」


 ヨナは黙って聞いていた。


「でも……嫌ではないです。全然」


 アスカが少しだけ俯いた。


「パンがおいしいとか、空が綺麗だとか、リーネさんの話がおもしろいとか、ヨナさんが優しいとか。一つ一つは——わかるんです。いいな、って思います。でも、それを全部まとめて『楽しい』と呼んでいいのか——」


「いいに決まってるでしょ」


 リーネがあっさりと言い切った。


「難しく考えすぎ。嫌じゃなくて、またやりたいって思うなら、それは楽しいの。以上」


 リーネらしい断言だった。哲学も理屈も必要ない。シンプルな答え。


 ヨナが穏やかに頷いた。


「リーネさんの言う通りですよ。楽しいかどうかは、自分が決めていいんです」


 自分が決めていい。


 アスカがその言葉を、受け止めるように——飲み込むように——少しだけ時間をかけた。


「……また、来てもいいですか。ここに」

「だから何回言わせんの。当たり前でしょ」


 リーネが笑った。ヨナも笑った。


 アスカが顔を上げた。


「……また来ます。ここに」


 その声は柔らかかった。決意とも約束ともつかない、でも確かな意志のある声だった。


 エルドは柵に肘をついて、四人から少しだけ離れた場所に立っていた。


 三人の会話を聞いていた。聞くつもりはなかったのに、全部聞こえていた。


 アスカの「わからない」。ヨナの「自分が決めていい」。リーネの「当たり前でしょ」。


 エルドは——


「楽しい」がわからないのは、アスカだけではない。


 エルドにも、わからない。この数週間、四人で市場を歩き、屋台で食べ、展望広場で空を見た。パンを齧り、焼き菓子を食べ、リーネの話を聞き、ヨナの笑顔を見た。


 楽しかったのか。エルドにはわからない。何も感じないはずだった。何に対しても無関心のはずだった。


 ——のに。


 この数週間、非番の日にリーネが「行こうよ」と言うのを、断らなくなった。断る理由がないからだと思っていた。でも——本当にそうか。断る理由がないのではなく、断りたくないのではないか。


 四人でいる時間が——嫌ではない。


 嫌ではない。それはアスカと同じ答えだ。


 「嫌じゃなくて、またやりたいって思うなら、楽しい」とリーネは言った。


 またやりたいと思っているか。エルドは自問する。答えは——


 ——わからない。


 わからないが、明日もリーネに誘われたら、多分行く。


 それが答えなのかもしれない。


 夕焼けが深まっていく。空の色が橙から赤へ、赤から紫へと変わっていく。雲海の端が金色に光っている。


 リーネが「帰ろっか」と言った。四人が動き出す。展望広場を後にして、兵舎への道を歩く。


 帰り道、リーネが鼻歌を歌っていた。知らない旋律。多分、この園の子供たちが歌う歌だ。ヨナがそれに合わせて小さく口ずさんでいる。


 アスカが二人の歌を聞いていた。知らない歌だ。聴いたことがないメロディ。でも、二人が歌っているのを聞いているだけで——口元が、ほんの少し、緩んでいた。


 エルドはその後ろを歩いていた。


 いつもの位置。少し離れた場所。でも——


 今日は、いつもより少しだけ距離が近かった。自分では気づいていない。半歩。たった半歩。でも数週間前と比べたら、確かに近い。


 リーネは気づいている。前にも気づいたように。でも何も言わない。笑うだけだ。


 兵舎に着いた。食堂で夕食を取った。四人がテーブルを囲んだ。いつもの配置。リーネが喋り、ヨナが笑い、アスカが微笑み、エルドが黙っている。


 ——いや。


 今日のエルドは、一度だけ口を開いた。


「……焼き菓子、悪くなかった」


 小さな声だった。誰に向けたともない呟き。


 リーネが目を丸くした。ヨナが顔を上げた。アスカが——瞬きをした。


「え、エルドが感想言った……?」


 リーネが大袈裟に驚いてみせた。


「記念日だ。今日はアスカさんの誕生日だけじゃなくて、エルドが食べ物の感想を言った日でもある」

「……うるさい」


 エルドは視線を逸らした。言わなければよかったと思った。だが——


 テーブルの向こうで、アスカが笑っていた。


 いつもの笑顔ではなかった。もっと小さくて、もっと控えめで、でも——何かが違った。何が違うのか、エルドにはまだ言語化できない。ただ、いつもの「丁寧な笑顔」よりも——ほんの少しだけ、温度が高かった。


 そしてそれは一瞬で消えた。アスカはすぐにいつもの表情に戻り、「おいしかったですよね」と穏やかに言った。


 一瞬の笑顔。


 今日、三度目だ。リボンの話のとき。展望広場のとき。そして今。


 その笑顔はいつも一瞬で、いつもすぐに仮面の下に隠れる。アスカが意識して隠しているのか、無意識に戻しているのか、エルドにはわからない。


 ただ——その一瞬の笑顔が、回を重ねるごとに頻度を増しているような気がした。


 アスカの中に、何かが積み重なっている。パンの味。夕焼けの色。リーネの声。ヨナの優しさ。焼き菓子の甘さ。市場の雑踏。くだらない会話。誕生日。——そういうものが、一つずつ、アスカの中に降り積もっている。


 そしてそれは——アスカにとって「失いたくないもの」になりつつあるのかもしれない。


 アスカ自身は、まだそれに気づいていないだろう。失いたくない、と思うためには、まず「持っている」と自覚しなければならない。アスカはまだ「楽しい」すらわからないと言っている。自分が何かを得ていることに、まだ気づいていない。


 でも——体は知っている。


 一瞬の笑顔が、そう言っている。


 食事が終わり、四人は食堂を出た。廊下で別れる。リーネが「おやすみ」と手を振り、ヨナが会釈をする。アスカが「おやすみなさい」と言う。エルドが黙って頷く。


 それぞれの部屋に戻っていく。いつもと同じ夜。


 エルドは自室のベッドに横になった。


 天井を見る。いつもと同じ天井。何もない部屋。何もない自分。


 ——のはず、だった。


 今日の非番を思い返す。市場。焼き菓子。アスカの「おいしい」。リボンの店。ヨナの「楽しい?」。アスカの「わからない」。展望広場。夕焼け。帰り道の鼻歌。


 全部が——鮮明に残っている。


 いつもなら、非番の日に何をしたかなど、翌朝には忘れている。記憶に残す価値がないからだ。何をしても同じだ。どこに行っても同じだ。全部が灰色で、何の色もつかない。


 今日は——違う。


 鮮明だった。色がついていた。焼き菓子の赤い断面。夕焼けの橙。アスカの白い髪。リーネの笑い声。ヨナの穏やかな目。全部に、色がある。


 ——いつから、こうなった。


 エルドは目を閉じた。


 わからない。いつからかわからない。気づいたら、こうなっていた。四人でいる時間に、色がついている。灰色だった日常の中に、一箇所だけ、色のある場所がある。


 それが何を意味するのか、エルドにはまだわからない。


 でも——


 明日もリーネに誘われたら、行くだろう。明後日も。その次も。


 嫌じゃないから。


 リーネの言葉を借りるなら——それは「楽しい」ということなのかもしれない。


 エルドは寝返りを打った。認めたくなかった。何かが変わり始めていることを。長い間凍っていたものが、溶け始めていることを。


 認めたら——失うものができてしまう。


 五歳で学んだ教訓が、胸の奥で警告を発している。何も持つな。何も大事にするな。そうすれば何も失わない。


 でも、目を閉じると——


 焼き菓子を食べて目を細めるアスカの顔が、まぶたの裏にある。


 消えない。もう、消えない。


『知らなかった時間』 了

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