あなたは怖くないんですか❓
防衛戦の翌日は、非番だった。
損耗した部隊の再編と装備の補充に時間がかかるため、前線に出ていた班は一日の休養を与えられる。休養といっても、やることがないわけではない。装備の手入れ、報告書の作成、次の任務に向けた準備。ただ、戦場に立たなくていい一日だ。
エルドは朝食を済ませ、兵舎の中を歩いていた。特に目的はない。詰所にいてもやることがない。リーネは家族に会いに行くと言っていた。弟に昨日の木彫りの犬を渡すのだろう。ヨナは図書室にいると言っていた。ヨナは本を読む。園の小さな図書室に通って、地上にあった時代の本を読んでいる。植物の図鑑が好きらしい。名前のわからない花の正体を、いつか突き止めたいのだと。
エルドには、非番の日にすることがなかった。
昔からそうだ。リーネに誘われなければ市場にも行かない。ヨナのように趣味もない。部屋にいれば天井を見て、外に出れば空を見る。何かをしたいという欲求がない。何かをしなければという義務もない。ただ、時間が過ぎていく。
それでいい。いつもそうだった。
兵舎を出て、訓練場の方へ歩いた。訓練場は非番の日は閑散としている。広い砂地と、的が並んだ射撃レーン。周囲には物資の倉庫が点在している。人気がない。静かだ。
倉庫の裏手に回ったとき、微かな音が聞こえた。
金属が擦れるような音。小さく、規則的に。
エルドは足を止めた。
倉庫の裏——人目につかない場所に、アスカがいた。
壁に背を預けて座り込んでいる。黒い戦闘服の上半身を脱ぎ、肌着一枚の姿だった。そして——左手で、背中に手を回している。昨日の傷の箇所だ。指先から小さな工具が伸びている。いや、指先が工具に変形している。人間の指ではあり得ない動き。関節がひとつ多い角度に曲がり、先端が細いドライバーのような形状になっている。
メンテナンスだった。
昨日の戦闘で裂けた背中の修理を、自分でやっている。人目のない場所を選んで。一人で。
エルドの足音に、アスカが気づいた。
体が跳ねた。
文字通り、跳ねた。猫が不意を突かれたように体を硬直させ、瞬時に工具状の指を元の形に戻し、戦闘服を掴んで胸元に引き寄せた。目が大きく開いている。——恐怖。そう呼べる表情がそこにあった。
見られた。正体が。
アスカの目がエルドを捉え——そして、認識した。エルドだと。正体を知っている唯一の人間だと。
体から力が抜けるのが見えた。硬直が解け、肩が落ちる。大きく息を吐く。
「……エルドさんか」
その声には、明確な安堵があった。
「……驚かせてすみません」
「驚いたのはそっちだろう」
エルドは立ったまま、アスカを見下ろしていた。去るべきかもしれない。見なかったことにして、踵を返して。だが足が動かなかった。
「……ここで、やってるのか。メンテナンス」
「はい。自室だと同じ階の人に音を聞かれるかもしれないので。ここなら、誰も来ない——はずだったんですが」
アスカが苦笑した。困ったような、照れたような、曖昧な笑顔。
「……座りますか?」
なぜそう言ったのか、アスカ自身もわかっていないような声だった。去ってほしいなら「お気になさらず」と言えばいい。でもアスカはそう言わなかった。
エルドは少し迷って、壁の反対側に腰を下ろした。アスカから二メートルほど離れた位置。近くはない。遠くもない。
アスカは少しの間エルドを見ていたが、やがて諦めたように——いや、許容したように、再び背中の作業に戻った。指先が再び工具の形に変形する。金属が擦れる小さな音。
人間の形をした手が、人間ではないものに変わる。その様子を、エルドは黙って見ていた。
奇妙な時間だった。
倉庫の裏で、機械兵が自分の体を修理している。その隣に、人間の兵士が座っている。会話はない。ただ、金属の擦れる音と、風の音だけがある。
「……気持ち悪くないですか」
アスカが聞いた。作業の手は止めないまま。
「何が」
「これ。私の指が——こうなるの。人間の手じゃないでしょう」
エルドはアスカの手を見た。工具に変形した指先。関節が通常ではあり得ない方向に曲がっている。確かに人間の手ではない。
「……別に」
いつもの答えだった。本当に何も感じないのだ。気持ち悪いとも、怖いとも思わない。何も感じない。
「……本当に変わった方ですね、エルドさんは」
アスカが小さく笑った。前にも同じことを言われた。
「普通の人は、もう少し——反応しますよ。せめて目を逸らすとか」
「逸らす理由がない」
「理由がなくても、生理的に受け付けないものはあるでしょう。人間って、そういうものだと思うんですけど」
アスカの声は淡々としていた。自分の手を「生理的に受け付けないもの」と——自分の体を、そう分類している。
「……前にもあったのか。見られて」
エルドは聞いた。聞くつもりはなかった。口が勝手に動いた。最近、それが多い。
アスカの手が、一瞬止まった。
「……何度か。前の配属先で。メンテナンス中に見られたことがあります」
声が少しだけ低くなった。
「そのとき、その人は——走って逃げました。次の日から、口をきいてくれなくなりました」
淡々と。事実を述べるように。感情を排した声で。
「別の人は、吐きました。私の手を見て」
エルドは黙っていた。
「それ以来、メンテナンスは必ず一人でやるようにしています。見られないように。——バレないように」
バレないように。その言い方が——逃げている人間の言い方だった。隠さなければ拒絶される。拒絶された経験がある。だから隠す。人間と同じだ。
いや。人間以上に切実だ。アスカにとっては自分の体——自分の存在そのものを隠さなければならない。
「……大変だな」
また、同じ言葉が出た。前回も同じことを言った。他に言葉が見つからないのだ。
アスカは少し驚いたように——それから、ふっと息を吐いた。
「二回目ですね、それ」
「……ああ」
「大変、ですか。そうかもしれません。でも——仕方ないですから」
仕方ない。その言葉を、アスカは穏やかに受け入れている。諦めでもなく、嘆きでもなく。ただ、事実として。自分は機械で、人間ではなく、それを知られれば距離を置かれる。仕方のないことだ。——そう割り切っている。
割り切っている、ように見える。
メンテナンスが終わったらしい。アスカの指が人間の形に戻った。工具だった先端が、すらりとした指先に戻る。何事もなかったかのように。アスカは戦闘服を着直し、ボタンを留めた。
「ありがとうございます。付き合わせてしまって」
「付き合ったつもりはない。たまたまだ」
「……そうですね」
アスカが壁に背を預け直した。二人とも座ったまま、正面の空を見ている。訓練場の向こうに、園の外縁部が見える。空は薄く晴れている。風が穏やかに吹いている。非番の日の、静かな午前。
沈黙が流れた。不快ではない沈黙。
「エルドさん」
アスカが口を開いた。声のトーンが変わっていた。少しだけ——真剣な響き。
「はい」
「エルドさんは——戦場で、怖くないんですか?」
その問いは、不意に来た。
エルドはアスカを見た。アスカは正面を向いたまま、空を見ている。横顔。白い髪が風に揺れている。
「……怖くない」
エルドは答えた。事実だ。
「怖くない。死ぬかもしれないと思っても、何も感じない」
嘘はなかった。嘘をつく理由もない。戦場に立って、悪魔に囲まれて、死ぬかもしれないと思っても——心が動かない。恐怖がない。焦りがない。命を惜しむ感覚がない。
アスカが頷いた。
「……私も、怖くないです」
アスカの声は静かだった。穏やかで、平坦で、嘘の匂いがしなかった。
「戦場に立つことも、傷つくことも、壊れることも。怖いと思ったことがありません。——だってそれが、私が作られた理由ですから」
作られた理由。守るために戦い、守るために壊れる。それが機械兵の存在意義。怖いと思う必要がない。怖いと思う機能が、そもそも必要ない。
「私たちは似てますね」
アスカが微かに笑った。
「二人とも、怖くない」
似ている。
エルドはその言葉を、黙って受け取った。
似ている——のか。
エルドは怖くない。自分の命に価値を感じていないから。生きていたいと思ったことがないから。死んでも何も変わらない。何も失わない。失うものがそもそもない。
アスカは怖くない。そう作られたから。守るために壊れることが使命だから。
同じ「怖くない」だ。二人とも戦場で怖がらない。二人とも死を前にして顔色を変えない。
でも——
エルドの「怖くない」は、空っぽだからだ。何もないからだ。
アスカの「怖くない」は——
エルドはアスカの横顔を見た。
空を見ている。穏やかな顔。怖くないと言い切った顔。微笑んでいる。いつもの——距離のある、丁寧な笑顔。
昨日の防衛戦。ヨナを庇って背中を裂かれた直後の、あの一瞬の空白。「平気です」と言うまでのコンマ数秒。あの間に、何かがあったように見えた。
そして今日。エルドの足音に気づいたときの、あの反応。体が跳ねた。目が見開かれた。あの表情は——恐怖だった。見られることへの恐怖。正体がバレることへの恐怖。
怖くない人間は、あんな顔をしない。
怖くない機械は——あんな顔を、するだろうか。
エルドは口を開きかけた。何を言おうとしたのか自分でもわからない。「本当に怖くないのか」と聞こうとしたのか。「嘘じゃないのか」と。
——やめた。
聞いてどうする。聞いたところで、アスカは「怖くないです」と答えるだろう。いつもの笑顔で。いつもの声で。そしてエルドには、それが嘘かどうかを証明する手段がない。
だから何も言わなかった。
「……そうだな。似てるのかもしれない」
それだけ返した。
アスカがエルドを見た。ほんの少しだけ目を細めた。笑っている——が、その笑顔の温度がわずかに低い。
「……ですね」
短い返事。それだけ。
沈黙が戻った。風が吹いている。訓練場の砂が微かに舞う。空は相変わらず薄い青灰色で、雲が遠い。
エルドは考えていた。
二人とも「怖くない」と言った。同じ言葉を使った。同じ結論に立っている。でもその意味は——全く違うかもしれない。
エルドの「怖くない」は、壊れた結果だ。五歳で全てを失い、何も感じないようになった。空っぽだから怖くない。
アスカの「怖くない」は——何だ。本当に怖くないのか。設計通りなのか。それとも——壊れているのではなく、押し殺しているのか。
わからない。わからないが——
二人の「怖くない」の間には、見えない溝がある。同じ言葉を使って、全く別の場所に立っている。その溝の深さを、二人ともまだ知らない。
——いや。
知らないのは、本当に二人ともなのか。
アスカは——自分の「怖くない」が嘘であることに、気づいているのか。気づいていないのか。気づいていて、なお「怖くない」と言い続けているのか。
エルドにはわからなかった。
自分のことすら、わからないのだ。何も感じないはずの自分が、なぜアスカの笑顔に引っかかるのか。なぜ「平気です」の裏側が気になるのか。なぜ今、この倉庫の裏で、機械の隣に座っていることに——居心地の悪さを感じていないのか。
——感じていない?
エルドは自分の内側を覗き込もうとした。そこに何があるのか。空洞か。灰色の無か。それとも——何かの芽のようなものが、うっすらと。
わからない。まだ。
「……そろそろ戻りますね」
アスカが立ち上がった。戦闘服の埃を払い、服装を整える。完璧に人間の少女だ。さっきまで指が工具に変形していたとは、誰にも見えない。
「リーネさんとヨナさんが心配するといけないので」
心配される——ということを、アスカは知っている。それを避けるために行動を調整している。人間の社会で、人間のふりをして生きるために必要な計算。
エルドも立ち上がった。砂を払う。
二人は並んで兵舎に向かって歩き始めた。今度は横並びだった。後ろでも前でもなく、同じ位置に。
「エルドさん」
「何だ」
「今日のこと……メンテナンスを見たこと、黙っていてくれますか」
「言う相手がいない」
「……それは、そうですね」
アスカが小さく笑った。エルドも——笑ったわけではないが、口の端がわずかに動いた。自分でも気づかないほど微かに。
兵舎が近づいてくる。日常が戻ってくる。リーネの声が聞こえてくる。ヨナの穏やかな相槌が聞こえてくる。四人の場所が、そこにある。
エルドは歩きながら、一つだけ考えていた。
二人とも「怖くない」。
でも、もしいつか——片方が嘘だと気づいたら。
あるいは、もう片方の「怖くない」が——「怖くない」でなくなったら。
そのとき、何が変わるのだろう。
答えは出ない。出す必要もない。今はまだ。
兵舎の入口でリーネの声が飛んできた。
「あ、いたいた! 二人ともどこ行ってたの。お昼一緒に食べよ」
ヨナが後ろからひょこりと顔を出した。「パン屋で新しい味が出てたんですよ」と嬉しそうに言った。
「行きましょう」とアスカが微笑んで応えた。
四人で食堂に向かう。リーネが弟の反応を嬉しそうに報告している。「めっちゃ喜んでた。ずっと抱きしめてて離さないの」。ヨナが「よかったですね」と笑う。アスカが「かわいいですね」と相槌を打つ。
エルドは黙って歩いている。いつもの位置に。少し離れて。でも——今日は半歩だけ、いつもより近い場所にいた。
自分では気づいていない。
気づいているのは——リーネだけだった。リーネはちらりとエルドを見て、何も言わなかった。ただ少しだけ口元が緩んだ。それだけだった。
第七の園の空は薄く曇っている。風は穏やかで、パンの匂いがどこかから漂ってきている。
楽園はまだ、落ちていない。
その猶予の中で——四人の時間が、静かに重なり始めている。
『あなたは怖くないんですか』 了




