平気という嘘
警報は、夜明け前に鳴った。
まだ暗い空に甲高いサイレンの音が響き渡り、兵舎が一斉に動き始める。エルドは目を開けた。体は既に起き上がっている。意識が追いつくより先に、訓練された反射が体を動かしていた。
隣のベッドでヨナが慌てて起き上がるのが見える。寝汗で額が光っている。また悪夢を見ていたのかもしれない。
「——悪魔確認。園外縁部、北西区画。規模小。偵察部隊と推定。第三班、迎撃に向かえ」
通信機から班長の声が飛ぶ。規模小。偵察部隊。前回の南東区画の大規模侵攻とは違う。日常的な、と言ってしまえるほどの——小規模な襲撃。
装備を整え、兵舎を出る。廊下でリーネと合流した。
「北西か。あっちは外壁がまだしっかりしてるから、まだマシだね」
リーネの声には緊張があるが、前回ほどの切迫感はない。小規模な偵察部隊。対処可能な範囲。それでも——悪魔と戦うことに変わりはない。
「ヨナ、大丈夫?」
リーネがヨナの顔を覗き込んだ。ヨナは頷いたが、手が微かに震えていた。いつものことだ。ヨナは戦闘の前に必ず手が震える。怖いのだ。当然だ。第三の園の崩落を経験した人間が、悪魔と対峙して怖くないわけがない。
それでもヨナは銃を握る。「次は誰も死なないでほしい」と願いながら。
兵舎の出口で、アスカが待っていた。黒い戦闘服——配属時は軍の制服を着ていたが、戦闘時はこちらに切り替わる。アスカだけが着ている特殊な装備。他の兵士たちは「特殊部隊の支給品だろう」と解釈している。
「おはようございます」
アスカが三人に頭を下げた。夜明け前の戦場に向かうというのに、声は落ち着いている。
「おはよ。……行こうか」
リーネの声に全員が頷き、北西区画へ走り出した。
園の北西外縁部。分厚い石壁が園の端を守っている。壁の向こうは虚空だ。悪魔はその虚空から這い上がってくる。地上から空を昇り、園の壁にしがみつき、乗り越えてくる。
到着したとき、既に先行部隊が応戦していた。壁の上に悪魔の影が見える。数は十体ほど。前回の南東区画の群れと比べれば少ない。だが、一体一体が人を殺せる怪物であることに変わりはない。
「第三班、壁際の防衛線を補強しろ!」
班長の指示が飛ぶ。エルド、リーネ、ヨナが銃を構えて壁際に展開する。アスカは——
「アスカ、前に出られるか」
「はい」
短い返答の後、アスカが前に出た。
壁を乗り越えてきた悪魔の一体が、着地と同時に兵士たちに向かって突進してくる。灰色の肌、歪んだ四肢、裂けた口。嫉妬の悪魔。小型だが素早い。
アスカが走った。
速い。人間の走る速度ではなかった——が、暗闘の中、その速度の異常さに気づく者は少ない。アスカは悪魔との距離を一瞬で詰め、大剣を振り抜いた。一閃。悪魔の胴体が横に両断される。黒い霧が散った。
続けて二体目。壁の上から飛び降りてきた悪魔を、アスカは跳躍して空中で斬り捨てた。着地。三体目が横から襲いかかる。大剣の柄で殴り飛ばし、よろめいた隙に斬り下ろす。
三体。十秒もかからなかった。
エルドは壁際から、その戦いを見ていた。
前回の南東区画では、混乱の中でアスカの戦いを断片的にしか見ていなかった。しかし今回は違う。小規模な戦闘で、視界が通っている。アスカの動きの全てが、はっきりと見える。
圧倒的だった。
美しかった、と思った。前回も同じことを思ったが、今回はより鮮明にそう感じた。アスカの剣は力任せではない。体の動きに無駄がなく、剣の軌道は最短距離を描いている。踏み込みの深さ、回転の速度、刃の角度——すべてが精密に計算されている。それでいて、機械的な冷たさはない。流れるような連続動作には、躍動感がある。
人間離れしている。文字通り。
リーネが銃を構えたまま、呆然とアスカの戦いを見ていた。
「……すごい。やっぱりすごい」
素直な感嘆だった。リーネの目に映っているのは、信じられないほど強い兵士の姿だ。人間の限界を超えた動き——だが、それを「人間ではないから」とは考えない。考える理由がないのだ。
ヨナも目を見開いていた。銃を構えてはいるが、撃つ必要がない。アスカが全て片付けてしまう。
壁の上に残った悪魔は四体。うち一体が、壁から兵士たちの方へ飛び降りてきた。大きい。体長三メートルほどの、四足歩行の悪魔。強欲の分類。目が六つあり、そのすべてがぎょろぎょろと動いている。
アスカがそちらに向かおうとしたとき——壁の反対側から、もう一体が飛び降りた。背後からの挟撃。アスカは前方の大型個体に向き直る。
背後の悪魔は、防衛線の兵士たちが対処するしかない。
だがその悪魔は、兵士たちの防衛線を突破するように走った。速い。小型で、四足で、地面を這うように——防衛線の横をすり抜けた。その先にいたのは、ヨナだった。
ヨナが気づいた。振り返る。悪魔が跳躍する。爪が光る。
ヨナの体が固まった。
銃を構えている。引き金に指がかかっている。でも——体が動かない。恐怖だ。悪魔が目の前に迫る。爪が振り下ろされる。第三の園の記憶が、一瞬で蘇る。崩れる街。逃げ惑う人々。届かなかった手。
引き金が、引けない。
「——ヨナさん!」
白い影が割り込んだ。
アスカだった。前方の大型個体との交戦中だったはずが、一瞬でヨナの前に移動していた。ヨナとの間に体を滑り込ませ、背中で悪魔の爪を受けた。
鈍い音。
アスカの背中が、肩甲骨の辺りから斜めに裂けた。黒い戦闘服が破れ、その下の——
エルドは息を呑んだ。
裂けた箇所から覗いたのは、一瞬だった。人間の肌の色をした外装の下に、金属のフレームが微かに光った。血ではなく、薄い光が漏れた。だがそれは本当に一瞬で——アスカはすぐに体を捻り、振り返りざまに大剣で悪魔を斬り上げた。悪魔の体が宙を舞い、黒い霧に還る。
ヨナの前に立ったまま、アスカは前方の大型個体にも目を向けた。まだ片付いていない。
「——大丈夫です。私は平気ですから」
振り返りもせず、アスカはそう言った。ヨナに向けた言葉だった。
背中の傷が見える。戦闘服が裂けている。傷は深い——少なくとも、人間なら深い傷だ。だがアスカの動きに淀みはない。痛みで身を竦める様子もない。そのまま大型個体に向かって走り出す。
「ア、アスカさん——!」
ヨナが声を絞り出した。
「ありがとう——でも、無茶しないで……!」
アスカは走りながら、わずかに首だけ動かした。
「無茶ではありません。これが私の仕事です」
それだけ言って、大型個体に斬りかかった。
一撃目。大剣が悪魔の前脚を切断する。バランスを崩した悪魔の懐に潜り込み、二撃目。腹部を貫く。三撃目。頭蓋を割る。大型個体が崩れ落ち、黒い霧になって消えた。
壁の上に残っていた最後の悪魔たちは、先行部隊と他の班が掃討した。
戦闘が終わった。空が白み始めている。夜明けだ。
エルドは銃を下ろした。今回、自分が撃った弾は三発だけだった。そのうち悪魔に有効だったのは一発。残りはアスカが全て処理した。
ヨナが座り込んでいた。膝を抱えて、荒い呼吸を繰り返している。手が震えている。引き金を引けなかった自分への——怒りか、情けなさか、あるいはその両方。
リーネがヨナの傍に寄った。
「ヨナ、大丈夫。怪我ない?」
「……はい。僕は——アスカさんが、庇ってくれて——」
ヨナの声が詰まった。
「僕、動けなかった。目の前に来たのに、銃も撃てなくて。それなのにアスカさんが——背中で——」
リーネはヨナの肩を叩いた。「大丈夫。生きてるんだから、大丈夫」と言った。リーネの声にも、わずかに震えがあった。リーネだって怖かったのだ。でもリーネは引き金を引ける。怖くても戦える。それがリーネの強さだ。
アスカが戻ってきた。大剣を背中に収め、歩いてくる。背中の傷はまだ見えている。戦闘服の裂け目から、傷口が——いや、傷口に見えるものが覗いている。
「ヨナさん、大丈夫ですか?」
アスカがヨナの前にしゃがみ込んだ。声は穏やかだった。戦闘中の鋭さが嘘のように。
「は、はい。すみません、アスカさん。僕のせいで——」
「ヨナさんのせいではありません。敵の動きが速かっただけです」
「でも、あなたの背中——」
ヨナが立ち上がりかけて、アスカの背中を見ようとした。アスカは素早く体の向きを変え、背中がヨナの視界に入らないようにした。自然な動作だった。自然すぎて、ヨナは気づかなかっただろう。
「これくらい、大したことありません。すぐ治ります」
「でも、血が——」
「もう止まりましたから。本当に平気です」
平気。また、その言葉。
リーネがアスカの横に来た。
「アスカさん、本当に大丈夫? 背中見せてよ、手当てしないと」
「大丈夫です。自分で処置しますので」
アスカはやんわりと、しかし明確に断った。背中を見せるわけにはいかないのだ。あの傷口から見えるものは——人間の体の中身ではない。
「……そう? でもあとでちゃんと医務室行きなよ」
「はい。ありがとうございます」
アスカが笑った。いつもの笑顔。穏やかで、丁寧で、少しだけ距離のある笑顔。
リーネはその笑顔を見ながら——ほんの少しだけ、眉をひそめた。
違和感。それは言語化できるほど明確なものではなかった。ただ何かが、ほんの少しだけ引っかかった。アスカの「平気です」の言い方。背中にあれだけの傷を負いながら、顔色ひとつ変えない。平気だと言い切る。強い。本当に強い。——でも。
でも、何かが。
リーネは首を振った。疲れているのだ。戦闘直後で神経が昂っている。気のせいだろう。アスカは強い兵士で、痛みに強い。それだけのことだ。
——少なくとも、今はそう思うことにした。
エルドは少し離れた場所に立って、一部始終を見ていた。
アスカの背中を。あの傷を。リーネに背中を見せまいとした仕草を。「平気です」の声を。そして——ヨナを庇った、あの一瞬を。
身を挺して庇った。背中に傷を受けた。
機械にとって、それはどういう行動だろう。プログラムか。「人間の兵士を守る」という命令に基づいた、自動的な反応か。損傷を許容しても人間を守る——そういう設計。当然だ。機械兵は「守るために死ぬ」ことを使命として作られている。ヨナを庇うのは、使命の遂行に過ぎない。
だが、もしそうなら。
——「平気」と言う必要はない。
エルドはそのことに気づいていた。最初の防衛戦のときから、薄々感じていたことだ。アスカは傷を負うたびに「平気です」「大丈夫です」「問題ありません」と言う。繰り返し、繰り返し。
本当に平気なら——本当に何も感じていないなら——わざわざ「平気です」と言う意味がない。
人間が「平気」と言うのは、平気ではないからだ。痛いから。辛いから。怖いから。それでも大丈夫だと——自分に、あるいは周囲に——言い聞かせるために、「平気」と言う。
アスカの「平気です」は——どちらだ。
機械だから本当に何も感じておらず、人間への配慮として「平気です」と言っているのか。それとも——
——何かを感じていて、それを隠すために「平気です」と言っているのか。
エルドにはわからなかった。わかる方法もなかった。アスカの中身は金属と回路だ。あの断面を見た。あの事実は動かない。機械は痛みを感じない。感じるはずがない。
——でも。
ヨナを庇った直後のアスカの表情を、エルドは見ていた。振り返って「大丈夫です」と言うまでの、わずかな間。ヨナの前で笑顔を作るまでの、コンマ数秒の空白。
その空白の中に、何かがあったように見えた。
見間違いかもしれない。戦闘の混乱の中、正確に表情を読み取れたとは限らない。
でも——もし、あの一瞬に何かがあったのなら。
「平気」は——嘘だ。
エルドは目を閉じた。考えるな。考えても仕方がない。
帰営の途中、ヨナがアスカの横を歩いていた。
「アスカさん。本当にありがとうございました。あなたがいなかったら、僕は——」
「気にしないでください。仕事ですから」
「でも……無茶しないでほしいです。アスカさんだって痛いでしょう?」
アスカが一瞬、足を止めた。
ほんの一拍。すぐに歩き出す。
「大丈夫ですよ。私は頑丈にできてますから」
笑って言った。軽い口調で。冗談のように。
頑丈にできている。その言い方には二重の意味がある。ヨナには「体が頑丈な兵士」と聞こえる。エルドには——文字通りの意味に聞こえる。金属と回路で作られた体。人間より物理的に頑丈。
ヨナは「それでも、です。庇ってくれる人が怪我をしたら、庇われた側はもっと辛いですから」と言った。
アスカは少しだけ目を丸くした。
「……そういうものですか」
「そういうものです」
ヨナの言葉は静かで、まっすぐだった。優しさだけでできている。アスカは何かを返そうとして、結局小さく頷いただけだった。
「……覚えておきます」
その声は、いつもの「平気です」とは少し違う温度を持っていた。
兵舎に戻ってから、エルドは一人で装備の手入れをしていた。詰所にはまだ誰もいない。リーネはヨナを食堂に連れていった。アスカは自室に戻った。背中の「手当て」をするために。
——手当て。修理、だろう。
エルドは銃の部品を拭きながら、考えていた。考えまいとしているのに、思考が勝手に動く。最近、それが多い。
アスカは「平気です」と言った。何度も。
もし本当に平気なら、それでいい。機械が機械として正常に動作している。それだけのことだ。
もし平気でないなら——
——なら、何だ。俺にどうしろと。
エルドは部品を机に置いた。
どうもしない。何もしない。自分には関係のないことだ。アスカが何を隠していようと、何を演じていようと。エルドは命令に従い、任務をこなす。それだけだ。
それだけのはずだ。
なのに——
「平気です」のあの声が、頭の中で反響している。何度も。何度も。あの笑顔の裏に何かがあるかもしれないという可能性が、エルドの中に沈殿して消えない。
詰所のドアが開いた。アスカだった。着替えたらしい。制服に戻っている。背中の傷は——制服の下に隠れて、何も見えない。
「エルドさん。一人ですか」
「ああ」
アスカは少し迷ったように立っていて、それから自分の席に座った。二人きりの詰所。静かだった。
「……さっきの戦闘、見てましたよね。私の背中」
アスカが切り出した。声は低く、慎重だった。
「ああ」
「……見えましたか。中が」
「一瞬だけ。ヨナとリーネには見えていない」
アスカがわずかに息を吐いた。安堵の吐息だった。
「助かります。……あまり大きな損傷を受けると、隠しきれなくなるので。気をつけないと」
気をつける。自分の正体がバレないように。怪我をしても平気な顔をして、傷口を見せないようにして、修理を「手当て」と言い換えて。
「……大変だな」
その言葉は、エルドの口から自然に出た。言うつもりはなかった。
アスカが驚いた顔をした。エルドを見る。
「……何がですか?」
「隠すのが」
短い沈黙。
アスカは目を伏せた。少しだけ——本当に少しだけ、笑顔が薄れた。
「……慣れてます」
慣れている。その言葉の重さを、エルドは感じた——感じた、のか? 何かが胸の底で動いた気がした。だがそれが何なのかわからない。同情ではない。エルドには同情の回路がない。共感でもない。ただ——
——「慣れてます」と言うアスカの声が、エルドの「別に」と同じ響きを持っていた。
何も感じないふりをする言葉。本当にそうなのかどうかは、本人にもわからないのかもしれない。
エルドは何も言わなかった。アスカも何も言わなかった。二人は黙って詰所にいた。沈黙は重くなかった。ただ、静かだった。
やがてリーネとヨナが戻ってきて、詰所に日常が戻った。リーネが「お腹空いた」と言い、ヨナが「パン買ってきました」と袋を差し出し、四人で遅い朝食を取った。
アスカがパンを齧って「おいしい」と言った。ヨナが笑った。リーネが「あんたいつも同じ感想だね」とからかった。
普通の朝だった。戦闘の後の、束の間の普通。
エルドはパンを齧りながら、アスカの横顔を見ていた。
「平気です」とこの少女は言う。腕をもがれても。背中を裂かれても。平気だと。
——嘘だとしたら。
嘘だとしたら——この少女はずっと、嘘をつき続けている。誰にも気づかれないまま。気づく者がいないまま。笑顔の裏で、ずっと。
エルドにはわからない。わかる気もない。自分には関係がない。
——のに。
「平気」という言葉が、耳の奥に棲みついて、離れない。
『平気という嘘』 了




