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崩落のエデン  作者: だんご


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3/25

日常の輪郭

 四人で行動するようになって、数日が経った。


 アスカの配属は、部隊の中に小さなさざ波を立てた程度で終わった。白い髪が目立つこと以外は、特筆すべきことのない新任兵士。少し無口で、礼儀正しくて、戦闘になると異常に強い——その程度の認識が、第三班の中で定着しつつあった。


 異常に強い、という部分だけが浮いている。だが戦時下のエデンにおいて、強さは歓迎される性質だ。疑問を持つ者がいたとしても、「強い兵士が来てくれて助かる」という実感がそれを上回る。


 誰もアスカの正体に辿り着かない。


 当然だ。人の形をした機械が存在するなどと、そもそも発想の外にある。「最強の兵器」が人間に見える少女だと——そんなことを想像する人間はいない。


 エルドだけが、知っている。


 その事実は重くも軽くもなく、ただそこにあった。任務中、アスカが他の兵士と言葉を交わしているのを見る。食堂で、アスカがリーネの隣に座っているのを見る。笑っている。頷いている。ごく自然に、人間の輪の中にいる。


 ——上手いものだな。


 そう思うことすら、もう少なくなっていた。


 朝の訓練が終わると、リーネがいつものように口を開いた。


「今日、非番じゃん。買い出し行かない?」


 詰所の机に足を投げ出して、リーネは天井を見上げている。ヨナが窓辺で鉢植えに水をやりながら「いいですね」と答えた。アスカは机の隅に座って装備の手入れをしていた——手入れといっても、銃の分解清掃だ。機械兵に銃が必要なわけではないが、人間の兵士のふりをするためには、人間の兵士と同じことをしなければならない。


「アスカさんも行こうよ。園の市場、案内してあげる」

「市場、ですか」

「そ。食べ物とか、日用品とか。あんた配属されたばっかりで、園のこと全然知らないでしょ」


 アスカは少し考える素振りを見せた。それから頷いた。


「……はい。お願いします」

「よし。エルドも行くよ」

「……別に用は——」

「用がなくても行くの。チーム行動。はい決定」


 反論の余地がなかった。リーネの「決定」は覆らないということを、エルドはこの数年で学んでいる。


 第七の園の市場は、園の中央区画にある。


 天空都市とはいえ、そこにあるのは普通の街だ。石造りの建物が並び、通りには屋台が並び、人々が行き交っている。パンを焼く匂い。果物を並べる商人の声。走り回る子供たち。洗濯物が二階の窓から垂れ下がり、風に揺れている。


 空の上に浮かぶ街なのに、人々は地上と変わらない暮らしをしている。いや——地上を知らない世代がもう大半だ。天空都市しか知らない人間にとって、ここが「普通」なのだ。パンの匂いも子供の笑い声も、空の上にしかない日常。


 この「普通」が、いつ崩れるかわからない。


 その緊張感は、市場を歩く人々の顔には見えない。見えないようにしている。南東区画の戦闘からまだ数日しか経っていないのに、市場は賑わっている。人間は忘れるのが上手い。忘れなければ生きていけないからだ。


「ほら、あそこ。あれが園で一番おいしいパン屋」


 リーネが指さした先に、小さな店があった。石窯から湯気が立ち昇っている。焼きたてのパンの匂いが通りに漂って、それだけで幸福な気配がする。


「ヨナのおすすめは木の実のパンだっけ? 私はくるみの入ったやつが好き」

「リーネさん、それ木の実のパンと何が違うんですか」

「全然違うよ! ヨナのは松の実でしょ。私のはくるみ。食感が違うの」


 リーネとヨナが些細な議論を始めている。その横で、アスカが店の前に立っていた。


 ガラス越しに並ぶパンを見ている。丸いパン。細長いパン。果物が練り込まれたパン。表面に粉砂糖がかかったパン。色々な形、色々な焼き色。アスカの目が、それらをひとつひとつ追っている。


「……こんなに種類があるんですね」


 小さな声だった。独り言のような。


 エルドはその声を聞いていた。聞くつもりはなかったのに、耳が拾った。


 こんなに種類がある。その言葉の裏にあるもの。今まで、選ぶという行為をしたことがなかったのかもしれない。与えられたものを食べ、与えられた場所で戦い、与えられた任務をこなす。パン屋の前で立ち止まって、どれにしようか迷う——そんな時間が、なかったのだ。


「アスカさん、どれがいい?」


 ヨナが隣に来て聞いた。


「どれ……えっと、どれがおすすめですか」

「全部おすすめですけど……初めてなら、まずはプレーンなのを食べてみてください。パン自体のおいしさがわかるので」

「じゃあ、それで」


 アスカがパンを受け取る。一口齧る。


 咀嚼する。飲み込む。そして——ほんの少しだけ、目を見開いた。


「……おいしい」


 素直な声だった。飾りのない、ただの感想。「おいしい」。それだけの言葉なのに、アスカの声にはどこか新鮮な響きがあった。初めて知った味に驚いている——そういう声。


「でしょ? だから言ったのに」


 リーネが得意げに笑う。ヨナも嬉しそうだ。自分が勧めたものを気に入ってもらえた、という単純な喜び。


 エルドは少し離れた場所に立っていた。パンを一つ手に持っている。リーネが勝手に買って渡してきたものだ。齧る。味はする。いつもと同じパンだ。特別なものは何もない。


 ——なのに。


 アスカの「おいしい」という声が、耳に残っている。あの声は——本物だったのか? 機械が「おいしい」と感じることが、あるのか。味覚のセンサーがあって、それが「良い」と判定した結果を、言語に変換して出力しているだけではないのか。


 でも、あの目の動き。あの声の揺れ。あれが全てプログラムだとしたら——それはもう、「本物の感覚」と何が違うのだろう。


 考えても仕方がない。エルドはパンを齧った。


 市場を歩く。リーネが先頭を歩き、あちこちの店を覗いていく。弟への土産を選んでいるらしい。


「ねえ、これどう思う?」


 リーネが手にしているのは小さな木彫りの動物だった。犬のような形。


「弟が犬好きでさ。でもエデンに犬なんていないから、こういうのしかないんだよね」


 リーネには弟がいる。両親もいる。第七の園に住んでいる。リーネが兵士になったのは、その家族を守るためだ。戦う理由が明確で、揺るがない。だからリーネは非番の日に市場で弟への土産を選ぶし、任務の前に「帰ったらご飯作ってあげるんだ」と言う。


 普通のことだ。当たり前のことだ。でも——エルドにはない。帰る場所も、待っている人も、土産を選ぶ相手も。


「いいんじゃないか」


 エルドは短く答えた。


「何それ、雑すぎ。ヨナは?」

「かわいいと思います。弟さん、喜びますよ」

「だよね。アスカさんは?」


 アスカはリーネの手の中の木彫りを見た。小さな犬。丁寧に彫られている。


「……すごいですね。こういうもの、初めて見ました」

「え、木彫り?」

「お土産を選ぶ、ということが」


 リーネが一瞬きょとんとした。


「……お土産、買ったことない?」

「いえ、そもそも……こういうことをするんですね、皆さん。非番の日に市場に来て、誰かのために何か選ぶ、っていうこと」


 リーネの表情が、少しだけ変わった。同情ではない。驚きだ。この子は本当に知らなかったのだ。非番の過ごし方を。市場を歩く楽しさを。誰かへの贈り物を選ぶという行為を。


「今まで、ずっと任務ばっかりだったの?」

「……はい。遊撃配属だったので、拠点に長くいることがなくて。非番も、あまり外に出ませんでした」


 嘘ではない。ただ、「非番」という概念が機械兵にあったのかどうかは、エルドだけが疑問に思うことだ。


「じゃあ今日はいっぱい案内してあげる。ね、ヨナ」

「はい。屋台のほうにも行きましょう。揚げ芋がおいしいんですよ」

「揚げ芋。食べたことないです」

「マジで? じゃあ行こ行こ」


 リーネがアスカの背を押して歩き出す。今度はアスカも体を引かなかった。数日で、リーネの距離感に慣れたのかもしれない。あるいは——慣れたふりが上手くなったのか。


 エルドは三人の後ろを歩いた。いつもの位置だ。少し離れて、全体を見渡せる場所。別に警戒しているわけではない。ただ、人の輪の中に入るのが得意ではないだけだ。昔からそうだ。リーネとヨナとも、この距離感でずっとやってきた。


 屋台の並ぶ通りに入ると、油と香辛料の匂いが濃くなった。湯気を上げる鍋、串に刺さった肉、紙の皿に盛られた揚げ芋。ヨナがアスカに色々なものを勧め、アスカがひとつずつ食べていく。


 揚げ芋を食べたとき、アスカが小さく目を見開いた。


「……熱い。でも、おいしい」

「でしょ? 塩加減が絶妙なんですよ」

「塩……確かに。外はさくさくで、中がほくほくで——」


 アスカが食べ物の感想を述べている。それも、かなり具体的に。食感を言葉にしている。人間と全く同じように——いや、人間の中でもこれだけ丁寧に食べ物の感想を言う人間は少ないかもしれない。


「アスカさん、グルメだね」とリーネが笑った。


「そんなことは……ただ、初めてのものが多くて。ひとつひとつ、ちゃんと味わいたくて」


 ちゃんと味わいたい。


 その言葉が、エルドの中でひっかかった。機械が「味わいたい」と言う。それはプログラムの出力か。学習の結果か。それとも——


 ——考えるな。


 エルドは串焼きを齧った。味はする。いつもと同じ味だ。


 市場を一通り回った後、四人は園の展望広場に来た。第七の園の縁に近い場所で、柵の向こうには空が広がっている。下を見れば雲海。その遥か下に、地上がある。悪魔が支配する地上。


 夕方の光が、雲海を橙色に染めていた。


「きれい……」


 アスカが柵に手をかけて、空を見ていた。風が白い髪を揺らしている。夕焼けの光が顔に当たって、白い髪が薄い金色に見える。


「ここ、いい場所ですね。こんな場所があるなんて知りませんでした」

「あたしたちの秘密の場所。まあ、他にも来る人いるけどね」


 リーネが柵に寄りかかった。


「非番の日はよくここに来るんだ。三人で。——これからは四人か」


 リーネが笑って、アスカを見た。アスカは少し驚いたように瞬きをした。


「私も……いいんですか?」

「何言ってんの。同じ班じゃん。当たり前でしょ」


 当たり前。リーネにとっては当たり前のことだ。同じ班の仲間と一緒に過ごす。それだけのこと。


 アスカの表情が——ほんの一瞬、変わった。


 エルドはそれを見た。


 笑顔が消えたのではない。むしろ逆だ。今まで浮かべていた笑顔の下から、別の何かが一瞬だけ顔を出した。それは——楽しさ、だったように見えた。純粋な、混じりけのない、嬉しさとも楽しさともつかない表情。作り物ではない何か。


 一瞬だった。


 すぐにアスカはいつもの表情に戻った。丁寧で、穏やかで、少しだけ距離のある笑顔。


 リーネは気づいていない。ヨナも気づいていない。


 エルドだけが——見ていた。


 それが本物の感情の発露だったのか、機械の回路が一瞬だけ揺れただけなのか、エルドにはわからない。わからないが——あの表情は、今まで見たどのアスカの笑顔とも違っていた。


「帰ろっか。暗くなる前に」


 リーネが言って、四人は展望広場を後にした。


 帰り道、リーネが弟への木彫りの犬を袋から出して眺めていた。


「喜ぶかなあ」

「喜びますよ。リーネさんが選んでくれたものですから」


 ヨナの言葉に、リーネが照れたように笑う。


「ヨナはそういうこと言うの上手いよね。エルドも少しは見習いなよ」

「……別に」

「ほら、また『別に』。あんたの辞書に『別に』以外の言葉ないの?」


 リーネがエルドの背中を叩く。いつものやり取り。エルドは特に反応しない。


 アスカがその光景を見ていた。三人の——リーネとヨナとエルドの、何気ないやり取りを。彼女の目に、それがどう映っているのかはわからない。ただ、アスカは少しだけ歩幅を縮めて、三人に近い位置を歩いていた。朝の出発時より、半歩分だけ。


 兵舎に戻り、食堂で夕食を取った。


 四人がテーブルを囲む。リーネが今日の戦利品——弟への土産と、自分用に買った香辛料——を並べて見せる。ヨナが明日の任務の確認をする。アスカが黙って聞いている。エルドが黙って食べている。


 普通の夕食だった。


 エルドは気づいている。この数日で、自分の口数がほんの少しだけ増えていることに。リーネに「別に」と返すこと自体は変わらないが、それ以外の——たとえば任務の報告や、装備の確認や、些末な連絡事項——そういう場面で、以前より少しだけ言葉を発している。


 変化と呼べるほどのものではない。ただの誤差だ。そう思う。


「ねえ、アスカさん。今日どうだった? 市場」


 リーネが食事の手を止めて聞いた。


 アスカはスプーンを持ったまま、少し考えた。


「……楽しかったです。多分」


 多分。


「多分って何よ。楽しいかどうかくらいわかるでしょ」

「すみません。こういう時間を過ごすのが初めてで、これが『楽しい』なのか、まだよくわからなくて。でも……嫌ではなかったです。全然」


 ヨナが穏やかに笑った。


「それ、楽しいってことですよ」

「……そうですか?」

「そうです。嫌じゃなくて、もう一回やりたいって思ったら、それは楽しいってことです」

「もう一回……」


 アスカは少しだけ目を伏せた。


「……また、行ってもいいですか。市場」

「当たり前じゃん! 来週の非番も行こうよ」


 リーネが即答した。ヨナも頷いた。


 アスカが顔を上げた。「ありがとうございます」と言った。その声は柔らかかった。


 エルドはスプーンを動かしながら、考えていた。


 アスカは「楽しい」がわからないと言った。嘘か本当かはわからない。だが、「もう一回やりたい」かどうかを考えている時点で——何かを感じているのは確かだ。感じていなければ、「もう一回」という発想は出てこない。


 機械にそれがあるのか。


 あるのだとしたら——それは、何なのか。


 食事が終わった。リーネが「おやすみ」と手を振って食堂を出ていく。ヨナも続く。アスカが席を立ち、食器を片付ける。エルドも立ち上がる。


 食堂を出て、廊下を歩く。アスカが少し先を歩いている。エルドはその後ろにいた。たまたま同じ方向だっただけだ。


 アスカが足を止めた。振り返る。


「エルドさん」

「何だ」

「……今日、ありがとうございました」

「俺は何もしてない」

「いてくれました」


 意味がわからなかった。


「一緒に来てくれた、ということです。エルドさんは多分、一人のほうが楽なんだと思います。でも来てくれた。それが——嬉しかったです」


 嬉しい。またその言葉だ。「おいしい」「きれい」「嬉しい」。アスカの口から出てくる感情の言葉が、ひとつずつ増えていく。


「……リーネに断れなかっただけだ」

「そうですか」


 アスカは微笑んだ。その笑顔は——食堂でリーネに見せるものとは少し違った。もう少し薄くて、もう少し静かで、でもどこか——諦めに似た何かが混じっている。


 エルドが自分の正体を知っていること。そして、それに対して何の感情も持っていないこと。アスカはそれをわかっている。わかっていて、それでも「嬉しい」と言った。


「おやすみなさい」


 アスカが背を向けた。廊下の向こうに歩いていく。白い髪が薄暗い廊下に浮かんでいる。


 エルドは動かなかった。


 あの笑顔に含まれていたもの。あの声のトーン。「いてくれました」という言葉の選び方。全部が——人間だった。人間としか思えなかった。


 あの断面を見ていなければ。あの金属とケーブルを見ていなければ。自分は今頃、何の疑問も持たずに——


 ——何だ。何の疑問もなく、何をするんだ。


 エルドは自分の思考を遮断した。意味のない仮定だ。見たのだ。知っているのだ。それは変わらない。


 自室に戻る。ベッドに横になる。今日一日のことを思い返す——つもりはなかったのに、勝手に映像が再生される。


 市場で目を見開くアスカ。揚げ芋を食べて「熱い」と言うアスカ。展望広場で夕焼けを見るアスカ。「こういうことをするんですね、皆さん」と呟くアスカ。


 そして——リーネに「四人で来よう」と言われたときの、あの一瞬の表情。


 あれが何だったのか、まだわからない。


 でも——あの表情は、「平気です」と笑うアスカとは全く違っていた。作り物ではなかった。少なくとも、エルドにはそう見えた。


 あれが本物の感情なら。あの一瞬だけが本物で、それ以外の笑顔が全て仮面なら。


 ——なら、何だ。それがわかって、俺にどうしろと。


 答えは出ない。考える必要もない。自分には関係のないことだ。アスカが何を感じていようと、何を隠していようと。エルドは命令に従い、任務をこなし、明日も同じように生きる。それだけだ。


 でも——目を閉じると。


 夕焼けに染まった白い髪が、まぶたの裏に残っている。


 消えない。


 エルドは寝返りを打った。消えないなら、消えないでいい。どうせ明日には忘れる。忘れなかったとしても、何も変わらない。


 何も変わらないはずだ。


 ——はずだった。


『日常の輪郭』 了

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