配属
戦闘が終わったのは、夜だった。
南東区画の悪魔は全て掃討され、崩落警報は解除された。第七の園は落ちなかった。今回は。
兵舎に戻る道すがら、誰もが疲弊していた。肩を貸し合って歩く者、座り込んで動けなくなっている者、声もなく涙を流している者。死者は十七名。負傷者は五十を超えた。民間人にも犠牲が出た。南東区画の住宅地は半壊し、避難所には行き場を失った人々が溢れている。
エルドは無傷だった。
正確には、背中に打撲と擦過傷がある。リーネを庇って伏せたときのものだ。だが、それだけだ。あの場にいて、あの規模の悪魔に囲まれて、その程度で済んだのは——あの白髪の女のおかげだった。
兵舎に戻ると、リーネがエルドの隣に座り込んだ。壁に背を預けて、天井を仰ぐ。
「……すごかったね、あの子」
小さな声だった。疲労と感嘆が混ざっている。
「腕やられてたのに、片腕であの化け物倒したんだよ。何者なんだろ。特殊部隊とか?」
エルドは答えなかった。
特殊部隊。リーネにはそう見えたのだろう。常識外れに強い女の兵士。重傷を負いながらも気丈に戦い抜いた。人間の兵士として——リーネの目には、そう映っている。
エルドだけが知っている。あの断面を。血ではなく金属が覗いていたことを。
「問題ありません」——あの言葉が、まだ耳に残っている。あれは痛みを堪えた強がりではなく、文字通りの事実だったのだ。機械にとって腕の損傷は、人間にとっての擦り傷のようなものなのかもしれない。
言うべきか。リーネに、あの女は人間ではなかったと。
——言って、どうなる。
軍が秘匿している情報だ。「最強の兵器」が人の形をしていると知られていないのは、知らせないと決めた人間がいるからだ。一兵卒のエルドが、それを勝手に漏らしていい理由はない。
それに——正直なところ、エルド自身が処理しきれていない。あの少女が何なのか。人間ではない存在が、人間の顔をして、人間の声で「大丈夫ですか?」と聞いてきた。それをどう受け止めればいいのか、わからない。
「……さあ。知らない」
出てきたのはそれだけだった。嘘ではない。本当に知らないのだ。あの存在が何なのか。
リーネが横目でエルドを見た。何か言いたげな顔。でも結局、疲れが勝ったらしく、リーネはため息をひとつ吐いて目を閉じた。
「……ヨナは無事だった。後方支援班は被害なし。さっき連絡あった」
「そうか」
「『そうか』って……もうちょっと安心した顔しなよ」
安心。その感覚がどういうものだったか、エルドは思い出せない。
翌朝、兵舎の広間に全員が集められた。昨日の戦闘の報告と、今後の体制変更についての通達。隊長の顔は疲労で削られていたが、声は平坦に保たれていた。
「——昨日の防衛戦の戦果報告は各班に書面で配布する。損耗率、弾薬消費、被害状況については各自確認のこと」
隊長が一拍置いた。
「次に、人事異動の通達がある」
広間の空気が少し変わった。異動。この時期に。
「昨日の戦闘で各班の損耗が著しい。戦力再編のため、上層部より増援要員が配属される。第三班には一名を追加する」
戦力補充。昨日の戦闘で第三班も少なくない被害を受けた。増援は当然の措置だ。広間にいる兵士たちは特に反応しない。よくあることだ。
「——前へ」
広間の後方から、足音がした。
エルドの心臓が、一瞬だけ跳ねた。
兵士たちの間を縫って、一人の少女が前に出てくる。白い髪。長い手足。昨日と同じ——いや、今日は軍の標準的な制服を着ている。黒い戦闘服ではなく、他の兵士と同じ服。そして——左腕が、ある。昨日ちぎれたはずの左腕が、何事もなかったかのように元通りになっている。
修理。
エルドは目を細めた。当然だ。機械なのだから。壊れたら直す。部品を替える。それだけのことだ。——だが、その事実を知っているのは、この広間でエルドだけだ。他の兵士たちの目には、「昨日腕を負傷した兵士が、治療を受けて復帰した」ようにしか見えないだろう。包帯が取れた。完治が早い。その程度の認識。
「アスカです。本日付で第三班に配属されました。よろしくお願いします」
声は丁寧で、落ち着いていた。昨日、戦場で聞いた声と同じ。でも今は戦闘の緊迫感がなく、ただ礼儀正しい新任の挨拶に聞こえる。
広間にざわめきはなかった。白い髪が少し珍しいくらいで、それ以外は——どこからどう見ても、普通の少女だ。少し背が高い。手足が長い。顔立ちが整っている。それだけだ。彼女が「最強の兵器」であることなど、誰も想像すらしない。
昨日の戦闘で彼女の活躍を直接見た兵士は限られている。南東区画の混乱の中、あの白髪の女がどれほどの力を振るったか——見た者がいたとしても、「とんでもなく強い兵士がいた」としか認識していないだろう。そもそも、腕の断面を見たのはエルドだけだ。
「第三班班長、受け入れを頼む」
「了解」
それだけだった。何の波風もなく、一人の兵士が配属された。それだけの出来事。
——のはずだった。
「ねえ、あの子さ」
リーネが小声でエルドに囁いた。
「昨日の子じゃない? あの、めちゃくちゃ強かった——」
「……ああ」
「やっぱり! うちの班に来るんだ。ラッキーじゃん、あんな強い子が味方にいたら」
リーネの反応は純粋だった。昨日窮地を救ってくれた強い兵士が、自分たちの班に来る。心強い。それだけだ。アスカが人間であることに、リーネは微塵も疑いを持っていない。
エルドは黙っていた。
朝礼が終わり、兵士たちが散っていく。アスカはその場に少しだけ残って、きょろきょろと周囲を見回していた。どこに行けばいいのかわからない、という顔だった。軍の制服を着て、配属の挨拶をして、人間の兵士のふりをして——それでも、この場所に慣れていないことは隠せないらしい。
リーネが真っ先に動いた。
「ねえ、アスカさん、だっけ。こっちこっち。第三班の詰所はあっちだから」
アスカがリーネを見た。一瞬、目を瞬かせた。それから——笑った。
「ありがとうございます。えっと、あなたは?」
「リーネ。昨日、あんたに助けてもらったうちの一人。覚えてる?」
「……あ、あのときの。すみません、戦闘中だったのであまり顔を——」
「気にしないで。命の恩人に道案内するって変な感じだけど、まあいいか」
リーネはそう言って、半ば強引にアスカの手を引こうとした。アスカが僅かに体を引く。一瞬だった。リーネは気づかなかったかもしれない。だがエルドは見た。アスカが、触れられることを——ほんの一瞬だけ、避けたことを。
手を握られたら。温度が違うと、気づかれるかもしれない。肌の質感が、微かに違うかもしれない。
アスカはすぐに表情を戻し、「すみません、ちょっと驚いて」と笑ってリーネの隣を歩き始めた。自然な笑顔。自然な足取り。自然な会話。何もかもが自然で、だからこそ——エルドには、その「自然さ」の精度が怖かった。
ヨナがそっとエルドの隣に来た。
「……あの人、昨日助けてくれた方ですよね。すごく強いって、後方でも噂になってました」
「ああ」
「同じ班になれて、心強いですね」
ヨナは穏やかに笑っている。純粋に安心している。強い味方が来た。ただそれだけ。
——お前たちが見ているのは、人間じゃない。
その言葉が喉元まで来て、飲み込んだ。言えない。言う理由がない。軍の秘密だから——それもある。だがそれ以上に、エルド自身がまだ、この事実をどう扱えばいいかわからなかった。
第三班の詰所は、兵舎の二階にある狭い部屋だ。机がいくつかと、壁に地図が貼ってある。窓からは南東区画の方角が見える。昨日の戦闘で損壊した建物の残骸が、まだ片付けられていない。
リーネがアスカを連れて詰所に入ってきた。ヨナが続き、エルドが最後に入る。四人が狭い部屋に収まった。
「はい、ここが第三班の根城。狭いけど」
リーネがそう言って、自分の席に腰を下ろした。アスカは部屋を見回していた。地図を見て、机を見て、窓の外を見て——それから、窓辺に置かれた小さな鉢植えに目を留めた。
「……花?」
ヨナが少し照れたように頷いた。
「僕が育ててるんです。園の外周区画に自生してた種を拾って。……すみません、邪魔ですよね」
「いえ。かわいい」
アスカはしゃがみ込んで、鉢植えの花を覗き込んだ。小さな白い花。天空都市の限られた土と日光で、どうにか咲いている頼りない花。
「綺麗ですね。なんという名前ですか?」
「わからないんです。図鑑にも載ってなくて。園の上でだけ咲く花かもしれない」
「名前がないんですか。……ちょっと、かわいそうですね」
その横顔を、エルドは見ていた。
機械だ。中身は金属とケーブルだ。昨日、この目で見た。なのに——花を見つめるその表情は、どう見ても「きれいだ」と感じている顔だった。
リーネとヨナには、ただ「花を見て素直に反応する優しい子」に映っているだろう。それでいい。それが正しい認識かもしれない。機械かどうかなど関係なく、あの表情が本物かどうかなど関係なく——目の前のアスカは、花を見て「かわいそう」だと言う存在だ。
そう思おうとした。そう思ったほうが楽だった。
だが、知ってしまった。エルドだけが知っている。あの腕の断面。あの金属の中身。そのことが、どうしても視界の隅にちらつく。
エルドは窓際から離れ、自分の机に座った。アスカとの間に、物理的な距離を取った。
「——で、アスカさん。あんた普段はどうしてんの? 前はどこの部隊にいたの?」
リーネが聞いた。当然の質問だ。新任の兵士に聞く、普通の質問。
アスカは一瞬だけ間を置いた。
「……あちこちを転々と。固定の配属先がなかったので」
「遊撃部隊とか?」
「……そんな感じです」
嘘ではないのだろう。機械兵として各地の戦場に投入されてきた。それを人間の兵士の文脈に変換すれば、「遊撃部隊」で通る。アスカの声に淀みはなかった。慣れている。人間のふりをすることに。
「じゃあ宿舎とかもなかったの?」
「はい。任務ごとに移動していたので、決まった場所は……」
「それ大変じゃん。こっちでちゃんと部屋もらいなよ。兵舎の空き部屋あるし」
「ありがとうございます。もう手配していただけたみたいで」
自然な会話。何のほころびもない。リーネは少しも疑っていない。
ヨナもアスカに話しかけた。
「アスカさん、お昼は食堂で食べますか? ここの食堂、パンがおいしいんですよ」
「パン……はい、ぜひ」
「僕のおすすめは木の実のパンです」
「木の実のパン。覚えておきます」
ヨナは自然にアスカに優しい。それがヨナという人間だ。目の前にいる存在を、そのまま受け入れる。アスカが何者であるかなど、ヨナは知らなくても——仮に知っていても——同じように接するだろう。
アスカがヨナの優しさに少し戸惑っているのが見えた。嬉しそうで、でも居心地が悪そうで。その微妙な表情の揺れが——リーネやヨナには「人見知りの新任」に見えるだろう。エルドには、それがもう少し複雑なものに見えた。
優しくされることに、慣れていない。それは人間の新任兵士でもあり得ることだ。でもアスカの場合——そもそも「人として扱われる」こと自体が、稀だったのではないか。
考えすぎだ。とエルドは思った。考えるな。あいつが何であろうと、自分には関係ない。
「エルドも一緒にお昼行くでしょ?」
リーネが聞いた。
「……ああ」
今回は断らなかった。断る理由がなかった。——いや、断る理由はあった。アスカと同じ席に座りたくなかった。彼女の笑顔を見るたびに、あの断面がちらつく。人間の顔をした機械。その笑顔は本物なのか。その声に込められた感情は本物なのか。知りたくないことばかりが頭に浮かぶ。
でも、断れば理由を聞かれる。不自然になる。だから行く。
昼食は四人で食堂のテーブルを囲んだ。リーネが喋り、ヨナが相槌を打ち、アスカが時折微笑み、エルドが黙っている。
アスカはパンを食べていた。
食べる。咀嚼する。飲み込む。「おいしい」と言う。その一連の動作が、完璧に人間だった。もし一生あの断面を見なければ、誰もこの少女を人間以外の何かだとは思わないだろう。
「ヨナさんの言った通りですね。この木の実のパン、すごくおいしいです」
「よかった。気に入ってもらえて」
「園にこんなおいしいパン屋さんがあるなんて知りませんでした。今まで、食事をゆっくり取ることがなかったので」
「忙しかったんだ。遊撃部隊って大変そうだもんね」
リーネの言葉に、アスカは曖昧に笑った。忙しかった。そうだろう。戦場から戦場へ、兵器として移動する日々に、パン屋で焼きたてのパンを食べる時間などなかっただろう。
エルドはパンを齧りながら、横目でアスカを見ていた。見ないようにしているのに、視線が勝手に動く。
アスカがパンを口に運ぶとき、少しだけ——ほんの少しだけ——目が細くなる。美味しいものを食べたときの、無意識の表情。子供が好物を食べるときに似ている。それが作られた反応なのか、本物の感覚なのか。エルドにはわからない。
わからないのに——その表情が、妙に引っかかる。
「そういえばさ」
リーネが声のトーンを少し落とした。
「昨日の戦闘のこと。あんた、腕やられてたよね。もう大丈夫なの?」
空気がわずかに変わった。
アスカの手が、一瞬だけ止まった。パンを持ったまま。ほんの一拍。すぐに動き出す。
「はい。もう大丈夫です。手当てしてもらったので」
「手当てって……あんな傷、そんな簡単に治るもの?」
「見た目ほど深くなかったので。出血もすぐ止まりましたし」
嘘だ。
出血はそもそもしていない。あの断面から出たのは血ではなく火花だった。
エルドは口を閉じたまま、アスカの嘘を聞いていた。滑らかだった。慣れている。人間のふりをして、人間の言葉で、人間の怪我を装う。何度もやってきたことなのだろう。
リーネは「そう? まあ、元気ならいいけど。無茶しないでよ」と納得した。疑う理由がない。左腕はここにある。動いている。完治している。——修理されたのだと疑う人間はいない。
「ありがとうございます。心配していただいて」
アスカが微笑む。その笑顔が——どこか、薄い硝子のように見えた。きれいで、透明で、でも触れたら割れそうな。
エルドは目を逸らした。
食事が終わり、午後の任務が始まった。南東区画の復旧作業と警戒巡回。第三班にもシフトが割り当てられた。
巡回は二人一組が基本だ。リーネとヨナが先に組み、エルドは——アスカと組まされた。班長命令だ。新任を既存メンバーと組ませて連携を確認する。理には適っている。
南東区画の通りを歩く。瓦礫はまだ残っている。壊れた壁。砕けた石畳。焦げた跡。ところどころに黒い染みがある。悪魔の血の痕だ。乾くと黒く変色して、なかなか消えない。
アスカはエルドの半歩後ろを歩いていた。無言。エルドも無言。二人の間に会話はなく、ただ足音だけが重なっている。
アスカの足音は——普通だった。金属の音はしない。靴底が石畳を踏む、ごく普通の音。重量も、歩幅も、人間と変わらない。目を閉じて聞いていたら、隣を歩いているのが機械だとは気づかないだろう。
沈黙が続いた。エルドは何も話す気がなかった。いつもそうだ。巡回中に雑談をする兵士もいるが、エルドにはその習慣がない。特にアスカと——何を話せばいい。普通の会話をすればいいのか。天気の話でもするのか。機械相手に。
「……エルドさん」
アスカが口を開いた。
エルドは振り返らなかった。
「昨日は、ありがとうございました」
「何が」
「あの戦闘のとき。私の——」
一瞬の間。
「私の状態を見ても、何も言わないでいてくれたこと」
エルドの足が止まった。
振り返る。アスカの顔を見る。
アスカは真っ直ぐにエルドを見ていた。その目には——何があるのか、エルドには読めなかった。感謝なのか。警戒なのか。それとも——
「……見た、ということは。やっぱり、わかってるんですよね。私が何なのか」
静かな声だった。確認するような、でもどこか覚悟を決めたような。
「……ああ」
エルドは短く答えた。隠す意味がない。
「あの断面は——機械だった。お前は人間じゃない」
アスカは瞬きをした。一度。それからゆっくりと、小さく頷いた。
「はい。私は機械兵です。国がエデン防衛のために製造した——『最強の兵器』と呼ばれているもの」
自分の口で、そう言った。淡々と。事実を述べるように。
「リーネさんとヨナさんには——」
「言ってない」
「……ありがとうございます」
アスカの声に、微かな安堵が混じった。知られたくないのだ。人間ではないことを。機械であることを。
「できれば……このままにしていただけると、助かります。知られると、その……」
言葉が詰まった。アスカは視線を落とした。
「……距離を、置かれるので」
その言い方で、エルドは理解した。以前にもあったのだ。正体を知られて、態度を変えられたことが。遠ざけられたことが。人間ではないと——兵器だと——そう扱われたことが。
エルドは何も感じなかった。同情も、共感も、湧いてこなかった。いつもそうだ。何に対しても。
「……俺は別に、どっちでもいい」
出てきたのはそれだけだった。
「お前が機械でも人間でも、俺には関係ない。言う理由もない」
冷たい言い方だっただろう。突き放しているように聞こえただろう。だが嘘はなかった。本当にどうでもいいのだ。アスカが何であろうと、エルドの生活は変わらない。命令に従い、任務をこなし、生きても死んでも何も思わない。それが、エルドという人間だ。
アスカはエルドの言葉を聞いて、少しだけ目を見開いた。
「……変わった方ですね」
「よく言われる」
「褒めてるんです。……多分」
アスカが微かに笑った。その笑顔は——食堂でリーネに見せた笑顔とは、少し違っていた。何が違うのか、エルドにはわからない。ただ、さっきよりほんの少しだけ、硝子の厚みが減ったような気がした。
巡回は続いた。それ以上の会話はなかった。
壊れた通りを歩きながら、エルドは前を向いていた。もうアスカを見なかった。見る必要がない。あの少女が何であろうと、自分には関係ない。そう決めた。
——なのに。
背後を歩くアスカの足音が、妙に鮮明に聞こえていた。規則正しく、軽く、人間と寸分違わぬその足音が。
夕方、巡回を終えて兵舎に戻ると、食堂にリーネとヨナがいた。
「おかえり。どうだった、二人で巡回」
リーネが皿を持ったまま聞いてきた。
「別に」
「出た。アスカさん、こいつ何か喋った?」
「……少しだけ」
アスカはリーネの隣に座った。自然な動作だった。朝はまだ所在なげだったのに、半日でリーネとの距離が縮まっている。
「少しだけかあ。まあエルドだしね。ヨナ、あんたからも話しかけてあげてよ」
「僕は……巡回一緒じゃなかったですし。でも、アスカさん、何か困ってることあったら言ってくださいね」
「ありがとうございます、ヨナさん。皆さん優しいですね」
ヨナは穏やかに笑っている。リーネは陽気に場を回している。アスカは丁寧に受け答えしている。普通の——どこにでもある、新任兵士を迎えた班の風景。
エルドだけが知っている。この中に、人間でないものが一人いることを。
それは重い秘密か。エルドは自問する。いや、重くない。重いと感じる回路が、自分にはない。知っている。それだけだ。何も変わらない。
——のに。
アスカが笑うたびに、あの断面がちらつく。金属のフレーム。火花。ケーブル。あの中身で——この少女は「おいしい」と言い、花を「かわいそう」と言い、「距離を置かれるので」と声を落とす。
どうでもいい。自分には関係ない。
食事を終え、それぞれが席を立った。
「じゃあ明日の朝、詰所に集合ね。アスカさん、場所わかる?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます、リーネさん」
アスカは手を振って、廊下の向こうに消えていった。制服姿の背中。他の兵士たちとすれ違っても、誰も振り返らない。白い髪が少し目を引くくらいで、それ以外は——完全に、人間の兵士に紛れている。
リーネが伸びをしながら呟いた。
「いい子だね、アスカさん。ちょっと大人しいけど、真面目そうだし。強いし」
「……ああ」
「明日からよろしくね。——おやすみ」
リーネが去り、ヨナも会釈をして部屋に戻った。
エルドは一人、廊下に立っていた。
窓の外は暗い。天空都市の夜は、地上のそれより暗く、静かだ。星が近い。雲が下にある。
——あいつは機械だ。
そう自分に言い聞かせた。機械だ。兵器だ。壊れたら直す。腕がちぎれても翌日には元通りだ。人の形をしているだけだ。人ではない。
「距離を置かれるので」。
あの声が耳に残っている。あの言葉の響きが——何かに似ている。何に似ているのか、エルドにはわからない。わからないが、聞いたことがあるような気がする。ずっと昔に。もう思い出せないほど昔に。
自室に戻り、ベッドに横になった。目を閉じる。
眠れない。
天井を見上げる。暗い天井。何もない部屋。何もない自分。それでよかったはずだ。何も持たなければ、何も失わない。五歳の時に学んだ、唯一の教訓。
白い髪。花を覗き込む横顔。パンを食べて目を細める仕草。「距離を置かれるので」。「変わった方ですね」。「褒めてるんです。……多分」。
消えない。振り払っても、消えない。
エルドは腕で目を覆った。
明日もあの女は詰所にいる。明日も笑っているのだろう。人間の顔で。人間の声で。人間のふりをして。そしてリーネとヨナは、それを本物だと信じている。エルドだけが知っている。
知っているのに——
——あの笑顔が、偽物だと切り捨てられない自分がいる。
答えは出ないまま、夜が更けていく。天空都市の風が窓枠を鳴らす。冷たい風。いつもと同じ風。でも今夜は、少しだけ——ほんの少しだけ、その冷たさを自覚している自分がいた。
エルドは気づかない。それが、長い間凍っていた何かが、溶け始めている証だということに。
『配属』 了




