最強の兵器
「ありがとう。あなたに会えて、怖いって思えるようになった。死にたくないって思えた。それだけで、私は幸せだった」。
_________________
空が、落ちてくる。
そんな夢を何度も見た。足元の地面が割れて、頭上の青が砕けて、何もかもが下へ下へと引きずり込まれていく夢。目が覚めても心臓は跳ねない。汗も出ない。ああ、またか——それだけだ。
第七の園の朝は、いつも風が冷たい。
天空都市エデンは空の上にある。雲の遥か上、地上の惨禍が届かない高みに浮かぶ十二の人工大地。人はそれを「園」と呼んだ。第一の園から第十二の園。人類最後の居場所。楽園と呼ぶ者もいれば、鳥籠と呼ぶ者もいる。エルドにとっては、どちらでもなかった。ただ、ここに立っているだけだ。
兵舎の窓から見える空は薄い青灰色で、地平線の代わりに園の縁が視界を区切っている。縁の向こうは虚空。落ちれば死ぬ。それだけのことだ。
「——エルド。おい、エルド」
声に振り返ると、リーネが腕を組んで立っていた。明るい茶髪を無造作にひとつに束ねた同期の女。眉間に皺を寄せているのは、だいたいエルドに対してだけだ。
「朝礼始まるよ。何ぼーっとしてんの」
「……ああ」
「『ああ』じゃないって。もうちょっと生きてる顔しなよ、あんた」
リーネはそう言って、エルドの肩を軽く叩いて先に歩き出す。その背中を見ながら、エルドは思う。生きてる顔、というのがどういうものなのか、もうよくわからない。
兵舎の廊下は朝の慌ただしさで騒がしかった。すれ違う兵士たちは表情が硬い。今朝の空気がいつもと違うことに、誰もが気づいている。
——第三の園が崩落してから、もう二年になる。
崩落。その言葉を聞くたびに、エルドの胸の奥で何かが微かに軋む。痛みではない。痛みだったら、まだましだ。ただの残響。もう何も残っていない場所から聞こえてくる、意味のない音。
朝礼の広間に着くと、ヨナが隅のほうで壁に寄りかかっていた。小柄で細い体。穏やかな目。エルドやリーネより少し後に配属された年下の兵士で、第三の園からの難民だった。
「エルドさん、おはようございます」
ヨナは静かに頭を下げた。いつも丁寧で、いつも少しだけ怯えたような目をしている。
「……ああ」
同じ返事をまた繰り返す。リーネが後ろから「語彙」と呟いたのが聞こえた。
朝礼が始まる。隊長の声が広間に響く。
「——昨夜、第十一の園外周部にて悪魔の偵察個体が確認された」
空気が一段冷えた。隊長は淡々と続ける。
「現時点で大規模侵攻の兆候は確認されていないが、警戒態勢を引き上げる。各班、持ち場の再確認と装備点検を徹底せよ」
周囲のざわめきが広がる。第十一の園。近い。第七の園からそう遠くない位置に浮かぶ園だ。偵察個体の出現は、崩落の前兆であることが多い。第三の園もそうだった。最初は偵察。次に小規模な襲撃。そして——
「——なお」
隊長が一度言葉を切った。
「本件に関し、上層部は『最強の兵器』の投入を検討中である」
広間の空気が変わった。恐怖でも安堵でもない、妙な緊張。最強の兵器。国がエデン防衛の切り札として保有しているとされる存在。噂は誰もが聞いている。その兵器が投入された戦場では、悪魔が一方的に殲滅されたと。しかし、それが何なのかを知る者はいない。巨大な砲台なのか、特殊な爆弾なのか、それとも全く別の何かなのか。軍の機密。兵士たちに与えられているのは「最強の兵器が存在する」という事実だけで、その正体は一切明かされていなかった。
「以上。各自、持ち場へ」
解散の合図で兵士たちが動き始める。エルドも流れに乗って歩き出した。
「最強の兵器ねえ」
リーネが隣に並んで、腕を頭の後ろで組んだ。
「あんた、気にならない? 何なんだろうね、アレ」
「……別に」
「だと思った」
リーネは苦笑して、それから少しだけ声を落とした。
「……でもさ。本当に来るなら、第十一の園、やばいってことだよね」
エルドは答えなかった。やばいかどうかは、自分が考えることではない。命令が来たら動く。それだけだ。
「エルドさん」
後ろからヨナの声がした。振り返ると、ヨナが少しだけ青い顔をしている。手が微かに震えているのが見えた。
「——大丈夫か」
「はい。大丈夫です」
嘘だとわかる。第三の園が崩落したとき、ヨナはまだ子供だった。その記憶がどんなものかを、エルドは想像しない。想像する回路を、とうの昔に閉じてしまった。
「……大丈夫です。次は、誰も死なないでほしいって、思ってるだけです」
ヨナはそう言って、無理に笑った。その笑顔が痛々しいことに、エルドは気づいている。気づいていて、何も言えない。何を言えばいいのかがわからない。
——俺も、同じだったはずだ。
ほんの一瞬、そんな思考が頭をよぎった。すぐに消えた。
装備点検。銃の整備。弾薬の補充。与えられた作業を淡々とこなしていく。手は正確に動く。訓練の成果だ。考えなくても体が動く。それでいい。考えることなど何もない。
午後に入って、風向きが変わった。
比喩ではない。実際に、園の外周から吹き込む風の温度が変わった。温かい。地上から吹き上げてくる風だ。天空都市の風は本来冷たい。それが温もりを帯びるのは——
サイレンが鳴った。
甲高い警報音が園全体に反響する。赤い警告灯が兵舎の壁に点滅し始めた。
「崩落警報——悪魔侵攻確認! 第七の園外縁部、南東区画! 全防衛部隊、ただちに配置につけ!」
エルドは銃を取った。迷いはない。恐怖もない。ただ、体が動く。それだけだ。
廊下を走る。周囲の兵士たちの足音と息遣い。誰かが祈りの言葉を呟いている。誰かが歯を食いしばっている。リーネが横に並んだ。表情は険しいが、目は据わっている。怖い——けど逃げない。そういう顔だ。
「ヨナは?」
「後方支援班に回された。……よかった」
リーネの声にほんの少し安堵が混じる。ヨナの腕前では最前線は厳しい。後方ならまだ——。
兵舎を出た瞬間、空気が変わった。
南東の空が、黒い。
雲ではない。無数の影だ。蠢く黒い塊が、園の縁の向こうから這い上がってくる。悪魔。地上を支配する化け物ども。翼を持つもの、四足で駆けるもの、人の形を歪めたもの。それらが群れをなして、天空都市の縁にしがみつき、乗り越え、侵入してくる。
理屈はない。彼らがここを攻める理由に、戦略も目的もない。ただ、憎いから。天に逃げた人間が憎い。その純粋な衝動だけで、悪魔は空を昇ってくる。
「——防衛線、構築! 第一射撃開始!」
号令とともに銃声が連なった。エルドも引き金を引く。照準。射撃。反動。排莢。再装填。照準。射撃。訓練通りの手順を繰り返す。弾丸が悪魔の体に着弾し、黒い霧のようなものが散る。だが、倒れない。数発を撃ち込んでようやく一体が崩れ落ちる。そして、その後ろから三体が這い上がってくる。
「数が多い……!」
リーネの声が銃声の合間に聞こえた。その通りだ。偵察個体の出現から本格侵攻までが早すぎる。通常の崩落パターンとは違う。
前線が押され始めた。隣の班の兵士が叫び声を上げた。悪魔の爪が彼の肩を裂き、血が飛び散る。別の兵士が悲鳴を上げながら倒れる。エルドの視界の端で、人が死んでいく。
心は動かない。
怖くないのではない。悲しくないのではない。ただ——何も感じない回路が、とっくに焼き切れている。
南東区画の外壁が一部破壊され、悪魔が市街地に侵入し始めた。民間人の避難はまだ完了していない。
「第三班、市街地防衛に転進! 民間人の避難経路を確保しろ!」
エルドの班に命令が飛ぶ。走る。市街地の路地を駆け抜ける。普段は人々が行き交う通りが、今は悲鳴と破壊音で満ちている。逃げ惑う人々の波に逆行して走る。
角を曲がった瞬間、目の前に悪魔がいた。
人の形をしている。だが人ではない。肌は灰色で、目が四つあり、口が耳まで裂けている。両腕が異様に長く、指先が刃のように鋭い。嫉妬の悪魔。他者の持つものを引き裂くことだけを望む個体。
エルドは銃を構えた。距離が近い。至近距離。悪魔の腕が振り下ろされる。横に跳んで避ける。壁に背中をぶつけた。痛みはある。でも恐怖はない。
引き金を引く。悪魔の頭部に二発。よろめくが、倒れない。三発目。四発目。悪魔が咆哮する。鼓膜が震える。五発目で、ようやく悪魔の体が黒い霧に還った。
息を吐く。弾倉を確認する。残り少ない。
「エルド! 無事!?」
リーネが走ってきた。エルドは頷く。
「弾が——」
言いかけた瞬間、背後の建物が吹き飛んだ。
轟音。瓦礫が降り注ぐ。エルドは咄嗟にリーネを庇って伏せた。背中に石片が当たる。痛い。でも動ける。顔を上げる。
瓦礫の向こうに、大きな影があった。
先ほどの個体とは比較にならない。体長は五メートルを超える。四足歩行。体表は赤黒い鱗で覆われ、背中から無数の棘が生えている。憤怒の悪魔。破壊そのものが存在意義であるかのような、圧倒的な暴力の塊。
エルドの手が止まった。
恐怖ではない。計算だ。手持ちの弾薬で、あれは倒せない。周囲の兵士を集めても、厳しい。この区画にいる戦力では——
憤怒の悪魔が、こちらを見た。
四つの目が赤く燃えている。口が開く。咆哮。空気が震え、足元の地面にひびが走る。
リーネの体が強張るのがわかった。怖がっている。当然だ。あれを前にして怖がらないほうがおかしい。エルドは——怖くない。怖くないのは勇気ではない。自分が死んでも構わないと思っているだけだ。だから銃を構え直す。無意味かもしれない。でも、命令は民間人の避難経路確保だ。ここで退くわけにはいかない。
退く理由がないのと、退かない理由があるのとは、全く違う。
エルドにあるのは前者だけだ。
悪魔が突進してきた。地面を砕きながら、まっすぐに。エルドは引き金を引いた。弾丸は鱗に弾かれる。リーネも撃つ。同じだ。通じない。
——ここで死ぬのか。
その思考に、感慨はなかった。
ああ、そうか。この程度か。生まれて、何もなくて、兵士になって、死ぬ。五歳の時に終わった人生の、惰性の続きが、ここで終わる。それだけのことだ。
悪魔の腕が振り上げられる。
視界がスローモーションになる。腕が落ちてくる。エルドは目を閉じなかった。閉じる理由がなかった。
——白い光が、走った。
音よりも先に光が来た。横薙ぎの一閃。白銀の残像が視界を灼く。悪魔の腕が、根元から断ち切られた。
黒い血が噴き出す。悪魔が絶叫する。だがその声はすぐに途絶えた。二撃目。今度は縦。巨大な悪魔の体が頭頂から股下まで一直線に両断される。左右に分かれた体が、黒い霧になって崩れ落ちる。
一瞬だった。
エルドの目が、光の残像を追った。そしてそこに——人がいた。
白い髪。ボブくらいの短さで、戦闘の風に揺れている。背は高く、手足が長い。軍の制服とは違う、黒を基調とした戦闘服。その右手に握られた大剣は、彼女の身長ほどもあるのに、まるで木の枝でも持っているかのように軽々と振るわれていた。
少女だった。いや——女だった。年齢がわからない。十代にも二十代にも見える。顔立ちは整っている。どう見ても兵士には見えない。
——人間か?
エルドの思考が一瞬止まった。人間がそんなことをできるはずがない。だが目の前の存在は、どう見ても人の形をしている。
白髪の女は周囲を一瞥し、すぐに前を向いた。南東区画の奥から、さらに悪魔の気配が押し寄せてくる。五体、六体——いや、もっと多い。
彼女は走り出した。速い。人間の速度ではなかった。地を蹴るたびに石畳が陥没する。一体目の悪魔に到達する。大剣の一振り。悪魔が横に吹き飛び、建物の壁を突き破って消えた。二体目。回転斬り。三体目と四体目をまとめて薙ぎ払う。
圧倒的だった。
美しかった、と言ってもいい。その動きには無駄がなく、力強さの中に流麗さがあった。まるで踊っているかのように——いや、踊りよりも正確で、踊りよりも苛烈で、踊りよりも静かだった。
リーネがエルドの隣で呆然と立ち尽くしている。「……なに、あれ」という呟きが聞こえた。エルドにも答えようがない。
白髪の女が六体目の悪魔を斬り伏せたとき、南東区画の奥から一際大きな影が這い出てきた。先ほどの憤怒の悪魔と同程度の巨体。いや——それ以上。体表が黒く脈動している。傲慢の悪魔。群体の中でも上位の個体。
白髪の女は立ち止まらなかった。まっすぐに突っ込んでいく。大剣を構え、跳躍する。人の身体で可能な高さではなかった。悪魔の頭上に達し、渾身の力で剣を振り下ろす。
刃が悪魔の肩に食い込む。だが——止まった。鱗が硬い。刃が途中で止まっている。悪魔が腕を振るう。白髪の女は剣を手放して後方に跳んだ。
着地。距離を取る。悪魔が剣を肩から引き抜いて投げ捨てる。黒い血が流れている。怒っている。明確に怒っている。
白髪の女が構え直す。今度は素手だ。剣を失った。だが——彼女は躊躇しなかった。再び踏み込む。悪魔の爪が振り下ろされる。横に躱す。懐に潜り込む。拳を叩き込む。悪魔の腹部が陥没する。人の拳で。信じられない光景だった。
悪魔が体を捻り、尾を薙ぎ払ってきた。白髪の女は跳んで避ける——が、着地の瞬間、足元の瓦礫が崩れた。わずかに体勢が乱れる。その隙を、悪魔は見逃さなかった。
巨大な爪が、白髪の女の左腕を捉えた。
——鈍い音がした。
肉を裂く音ではなかった。金属が軋み、断裂する音だった。
白髪の女の左腕が、肘から先で引きちぎれた。
エルドは見た。
断面を。
そこに血はなかった。赤い肉もなかった。代わりにあったのは——金属のフレーム。束になったケーブル。微かに火花を散らす回路。人の腕の形をした、精密な機械の内部。
世界が、一瞬止まった。
——機械?
エルドの思考が停止した。目の前の存在は人間だと思っていた。人の形をしていた。どう見ても、普通の少女にしか見えなかった。
だが、断面から覗くのは、紛れもない機械の構造だった。
——最強の兵器。
国がエデンを守るために保有する切り札。誰もその正体を知らない。巨大な砲台か、特殊な爆弾か——そう想像していた。まさか。まさか、それが——
——人の形を、しているのか。
リーネの位置からは、断面は見えていなかった。角度が違う。リーネの目に映っているのは、腕を失った少女の背中だけだ。そこから見えるのは血の代わりに何かが散った——くらいの認識しかないだろう。戦場の混乱の中、あの一瞬の断面を正確に見たのは、真正面にいたエルドだけだった。
白髪の女は——機械兵は——左腕を失ってもなお、表情を変えなかった。
断面から火花が散る。ケーブルの束がぶらりと垂れる。それでも彼女は右腕だけで構え直し、再び悪魔に向かっていった。
右の拳が悪魔の顎を打ち上げる。巨体がよろめく。追撃。蹴り。回し蹴りが悪魔の側頭部を捉え、鱗ごと砕く。悪魔がたたらを踏む。さらに踏み込む。右腕一本で、変わらない精度で、変わらない力で——いや、むしろ加速している。
最後の一撃。跳躍。落下の勢いを全て乗せた右の拳が、悪魔の頭蓋を貫通した。
悪魔の体が震え、ゆっくりと崩れ落ちる。黒い霧になって消えていく。
白髪の女が着地した。右手が黒い血で濡れている。左腕は肘から先がない。断面の機械部品が露出したまま——だが、彼女はすぐに残った右手で断面を覆い隠すような仕草をした。無意識か、意図的か。戦場の砂埃が傷口を覆い、遠目にはただの負傷にしか見えなくなる。
そして、振り返った。
エルドとリーネを見た。
「——大丈夫ですか?」
その声は、静かだった。丁寧で、落ち着いていて、戦場にいるとは思えないような温度を持った声。左腕がちぎれているのに。中身が機械なのに。何事もなかったかのように、こちらを案じている。
リーネが「え——あ、うん、大丈夫……あんたこそ、腕——」と声を絞り出した。
「問題ありません。これくらいは」
白髪の女は淡々と答えた。「これくらい」。腕がちぎれて、「これくらい」。リーネの目には、とんでもなく強い少女が重傷を負いながらも気丈に振る舞っている——そう映っているだろう。人間の兵士が、痛みを堪えて立っている。そういう光景に見えるだろう。
エルドだけが知っている。あの断面に血はなかった。肉もなかった。あったのは金属と回路だった。
「問題ありません」——その言葉の意味が、エルドとリーネでは全く違って聞こえている。
遠くでサイレンが鳴り続けている。南東区画の戦闘はまだ続いている。白髪の女は一度だけこちらを見て、小さく頷いた。それから踵を返し、戦場の奥へと走り去っていった。左腕のない背中が、砂煙の向こうに消えていく。
リーネが呆然とその背中を見送っていた。
「……何者なの、あの子。腕、あんなに……大丈夫なわけないのに」
「……ああ」
エルドは答えた。それ以上の言葉は出なかった。
何も答えられなかった。
あれが「最強の兵器」だ。国が秘匿してきた切り札。兵士たちが想像していた巨大砲台でも特殊爆弾でもない。人の形をした、機械。見た目は人間と変わらない。声も、表情も、こちらを気遣う仕草も——全部、人間そのものだった。
なのに、中身は。
取り残された路地に、黒い霧の残滓が漂っている。ちぎれたアスカの左腕がどこかに落ちているはずだが、瓦礫に埋もれて見えない。リーネはそのことに気づいていない。
エルドだけが知っている。
あの少女の正体を。あの断面の意味を。
——そしてあの「問題ありません」の裏側を。
何かが胸の底で、小さく、動いた。
それが何なのかを、エルドはまだ知らない。
サイレンが鳴り止まない。空は薄い青灰色のまま、何も答えない。
第七の園は、まだ落ちていない。
かなりの自信作です
ぜひ続きを楽しみに




