それでも隣に
戦闘の翌朝、リーネの目には隈ができていた。
眠れなかったのだろう。エルドが詰所に入ると、リーネは自分の席で両手を組んで、じっと机の上を見つめていた。いつもの陽気さがない。声をかける前に、リーネのほうから口を開いた。
「ヨナには、今日話す」
静かな声だった。決意の色がある。
「……ああ」
エルドは自分の席に座った。それ以上何も言わなかった。リーネが決めたことだ。
「あんたは——アスカと話してくれる?」
「何を」
「みんな知ってるってこと。もう隠さなくていいってこと」
リーネの目がエルドを捉えた。昨日と違って、揺れはなかった。一晩かけて、リーネなりの答えを出したのだろう。答えがどういうものかは、エルドにはわからない。ただ、立っている。リーネは立っている。それだけは確かだった。
「……わかった」
ヨナが詰所に来たのは、朝食の後だった。
穏やかな顔。いつもと変わらない。昨日の戦闘の疲れはあるが、大きな怪我はない。後方支援に回っていたおかげだ。
「おはようございます。——アスカさんは?」
「まだ来てない」
リーネが答えた。声のトーンが低い。ヨナはそれに気づいた。気づいて、少しだけ表情を変えた。
「リーネさん、大丈夫ですか? 顔色が——」
「ヨナ」
リーネが遮った。
「話がある。座って」
ヨナが席に着いた。エルドは窓際に立っていた。この話はリーネがすべきだ。自分が口を出すことではない。
リーネは一度深く息を吸って、吐いた。
「昨日の戦闘で、アスカが怪我した——のは知ってるよね」
「はい。大きな傷だったって聞きました。でもアスカさん、大丈夫だって——」
「あれは怪我じゃない」
リーネの声が、硬かった。
「傷口から見えたの。アスカの体の中身。——血じゃなかった。肉じゃなかった。金属だった。回路だった。機械だった」
沈黙が落ちた。
ヨナの表情が固まった。目が見開かれ、口が僅かに開いた。処理している。リーネの言葉を、頭の中で反芻している。
「アスカは——人間じゃない。機械兵って言うらしい。国がエデン防衛のために作った……兵器。『最強の兵器』って呼ばれてたやつの正体が——あの子だった」
リーネの声が、最後のほうで少し揺れた。
ヨナは黙っていた。長い沈黙だった。詰所の時計の音だけが聞こえる。窓の外で風が鳴っている。
やがて、ヨナが口を開いた。
「……エルドさんは、知ってたんですか」
エルドは頷いた。
「最初の戦闘で、腕の断面を見た」
「……そうですか」
ヨナはまた黙った。今度は短い沈黙だった。何かを考えている。何かを——自分の中で、整理している。
リーネが不安そうにヨナの顔を見ていた。ヨナがどう反応するか。怖がるのか。拒絶するのか。混乱するのか。リーネ自身がそうだったから——ヨナもそうなるかもしれないと思っている。
ヨナが顔を上げた。
穏やかな目だった。
「……でも、アスカさんはアスカさんですよ」
リーネが目を瞬かせた。
「……え?」
「機械だって言われても——僕にはよくわかりません。でも、アスカさんが花を綺麗だって言ったのは本当だし、パンをおいしいって言ったのも本当だし、僕を庇ってくれたのも本当です。それは——変わらないですよね」
ヨナの声は静かだった。迷いがなかった。
「中身が何でできていても、アスカさんはアスカさんです。僕にとっては」
リーネがヨナを見た。その目が——少しだけ、潤んだ。
「……あんた、すごいね」
「すごくないですよ。ただ——」
ヨナが少しだけ笑った。
「失う痛みを知ってると、目の前にあるものを大事にしたくなるんです。それが何でできているかは——関係ないです」
エルドは窓際から動かなかった。ヨナの言葉を聞いていた。
失う痛みを知っているから、目の前の存在を大事にする。それがヨナだ。第三の園で全てを失ったヨナが辿り着いた結論。エルドと同じものを失い、正反対の答えに立っている男。
エルドは——ヨナのように言えない。「アスカはアスカだ」と、そう簡単には。でも——否定もできなかった。
リーネが立ち上がった。目元を手の甲で拭った。
「……よし。じゃあ——このこと、アスカに伝えないと。みんな知ってるって。もう隠さなくていいって」
その言葉の中に、リーネなりの覚悟があった。混乱はまだ完全には消えていないだろう。でもリーネは「それはそれとして、明日も一緒にいる」と決めた。リーネらしい答えだった。
「エルド、あんたから言ってよ。あんたが一番付き合い長いんだから」
「……俺が」
「あの子、あんたには少し心を開いてる。——気づいてないの?」
エルドは何も答えなかった。
昼前に、アスカが詰所に来た。
制服姿。昨日の損傷は修理されている。体のどこにも傷はない。完璧に元通り。——機械だから。壊れたら直す。部品を替える。昨日あれだけの傷を負って、今日にはもう何の痕跡もない。
人間なら、あの傷は数週間——いや、二度と完全には治らないかもしれない。
アスカは詰所に入った瞬間、空気の違いに気づいたようだった。足が一瞬止まった。三人の顔を見回した。リーネの顔。ヨナの顔。エルドの顔。
何かが変わっている。それを、アスカは察知した。
「……おはようございます」
声は平坦だった。いつもの声。でも——目だけが、僅かに警戒の色を帯びていた。
リーネがアスカを真っ直ぐに見ていた。ヨナも。エルドも。三人の視線がアスカに集中している。いつもと違う。明らかに違う。
アスカの体が、微かに強張った。
「——何か、ありましたか」
その声に、ほんの僅かな震えがあった。
気づいている。リーネが見たことを。そして——リーネがヨナに話したであろうことを。三人全員が自分の正体を知っている。この空気は、それを意味している。
アスカの手が——拳を握った。太ももの横で。気づかれないように。でもエルドは見ていた。
拒絶されるかもしれない。距離を置かれるかもしれない。今まで何度も経験してきたことが、また起きるかもしれない。笑ってくれた人たちが、離れていくかもしれない。
パンを一緒に食べた人たちが。焼き菓子を「おいしい」と分け合った人たちが。誕生日を作ってくれた人たちが。
アスカの目の奥で、何かが揺れていた。恐怖だ。拒絶への恐怖。あの朝、メンテナンスを見られて体が跳ねたときと同じ——見られることへの、知られることへの恐怖。
沈黙が長く感じた。実際には数秒だっただろう。
リーネが口を開いた。
「アスカ」
呼び方が変わっていた。「アスカさん」ではなく「アスカ」。敬称が取れていた。リーネはそういう人間だ。距離が縮まったとき、自然と呼び方が変わる。
「昨日、見た。あんたの——体の中身」
アスカの肩が、微かに揺れた。
「リーネさん——」
「ヨナにも話した。エルドは最初から知ってた。——つまり、もう全員知ってる」
リーネの声は真っ直ぐだった。回りくどい言い方はしない。それがリーネだ。
アスカの顔から、表情が消えた。笑顔が消えたのではない。笑顔を作ろうとする力が、消えた。仮面を支える力が尽きたように、素の顔になった。
何も描かれていない、空白の表情。
「……そう、ですか」
声が小さかった。覚悟していたはずの言葉なのに。いつか来るとわかっていたはずなのに。実際にその瞬間が来ると——声が、こんなにも小さくなる。
「すみません。気持ち悪い思いを——」
「してない」
リーネが遮った。強い声だった。
「気持ち悪いなんて思ってない。——正直、混乱はした。昨日の夜、全然眠れなかった。あんたが機械だって、頭ではわかっても感覚がついてこなくて」
リーネは一歩、アスカに近づいた。
「でもさ」
リーネの声が——柔らかくなった。
「別に何も変わんないよ」
アスカが目を見開いた。
「明日も一緒にご飯行くからね。焼き菓子の店も行くし、展望広場も行くし。——あんたの誕生日、来年ちゃんとケーキ買うって言ったでしょ。あれ、本気だから」
アスカの唇が——震えた。
「リーネ、さん——」
「さん付けやめなよ。もうそういう段階じゃないでしょ」
リーネが笑った。少しだけ無理をしている笑顔だった。完全には消化しきれていない。でも——それでも笑った。それがリーネの答えだった。
ヨナが立ち上がった。アスカの前に来て、穏やかに微笑んだ。
「アスカさん。僕は——何も変わりません。昨日までと同じです」
ヨナの声は静かだった。温かかった。
「アスカさんが花を綺麗だと言ったこと、覚えてます。パンをおいしいと言ったこと、覚えてます。僕を庇ってくれたこと、覚えてます。——それが全部です。それ以外に、必要なことはありません」
アスカがヨナを見た。ヨナの目は穏やかだった。何も変わっていなかった。最初の日と同じ目だった。鉢植えの花に水をやりながら「気に入ってもらえて嬉しい」と笑った、あの目と同じだった。
アスカの視線が——エルドに移った。
エルドは窓際に立っていた。いつもの位置。少し離れた場所。
アスカの目が問いかけている。あなたは——どうですか。
エルドは何も言わなかった。言葉が見つからなかった。リーネのように「何も変わらない」と明るく言い切れない。ヨナのように「それが全部です」と穏やかに微笑めない。エルドはそういう人間ではない。
だから——何も言わなかった。
何も言わず、いつもの位置に立っていた。
立っていた。
離れなかった。
それがエルドの答えだった。
アスカはしばらくエルドを見ていた。エルドの無言を、読み取ろうとしていた。そして——何かを受け取ったように、微かに目を細めた。
アスカが三人を見回した。リーネ。ヨナ。エルド。
全員が、ここにいる。
知った上で、ここにいる。
離れていない。
「…………ありがとう、ございます」
アスカの声が——震えていた。
微かに。でも確かに。いつもの平坦な声ではなかった。いつもの穏やかな笑顔ではなかった。笑顔を作ろうとして——作れなかった。唇が震えて、形を保てなかった。
目が潤んでいた。
涙は出なかった。でも——潤んでいた。
アスカは俯いた。顔を隠すように。両手を胸の前で握りしめた。小さく、硬く。
「……今まで——こういうこと、なかったので」
声が途切れ途切れだった。
「知られたら——いつも、離れていかれたので。だから——隠してて。ずっと。隠さないと——いられなかったから」
リーネの目から、涙が一筋こぼれた。拭わなかった。
「でも——皆さんは——」
アスカの声が詰まった。言葉にならない。何を言いたいのか、自分でもわかっていないのかもしれない。ただ——喉の奥から、何かが溢れ出そうとしている。
ヨナが静かにアスカの横に立った。何も言わず。ただ、隣に。
リーネが反対側に立った。涙を流したまま、腕を組んで。「泣くなよ、もらい泣きするじゃん」と小さく言った。
エルドは——動かなかった。
窓際に立ったまま、三人を見ていた。アスカが震えている。リーネが泣いている。ヨナが微笑んでいる。
胸の中で、何かが——大きく動いた。
今まで感じたことのない重さだった。痛みではない。温かさでもない。もっと複雑で、もっと深い。名前のつけようがない感覚。何かが壊れて、何かが生まれて、それらが同時に起きている。
——ああ。
エルドは思った。
この四人の中にいることが。この場所にいることが。——嫌ではない。嫌ではないどころか——
言葉にならなかった。まだ。
でも、エルドはそこに立っていた。離れなかった。
それだけが、今のエルドにできる全てだった。
しばらくして、アスカが顔を上げた。目元が赤い。でも——笑っていた。
いつもの笑顔ではなかった。丁寧で、距離のある、整った笑顔ではなかった。もっと不格好で、もっと歪んで、でも——
温かかった。
今まで見たどの笑顔よりも、温かかった。
「……ありがとうございます。本当に」
その声は、もう震えていなかった。
リーネが鼻をすすった。
「だーかーら、さん付けやめなって」
「……ありがとう。リーネ」
リーネが——泣き笑いの顔で頷いた。
「ヨナさん——ヨナも。ありがとう」
「こちらこそ。話してくれて、ありがとうございます」
「エルド——さん」
アスカがエルドを見た。
エルドは何も言わなかった。
ただ——ほんの僅かに、頷いた。
それだけだった。それだけで十分だった。
アスカが笑った。あの不格好な、温かい笑顔で。
四人が詰所にいる。いつもと同じ部屋。いつもと同じ机。窓辺にはヨナの鉢植えの花が咲いている。名前のない白い花。
何かが変わった。秘密がなくなった。隠す必要がなくなった。アスカの中で、長い間閉じていた何かの蓋が——少しだけ、開いた。
それは同時に——アスカの中に、「失いたくないもの」が確定した瞬間でもあった。
この場所。この人たち。この時間。
アスカはまだそれを「失いたくない」とは言語化できていない。「楽しい」すらまだわからないと言っているのだから。でも——体が知っている。心が知っている。機械の体の、どこかにある何かが。
これを失いたくない。
その感情が、アスカの奥で、静かに、確かに、根を張り始めていた。
「……で、今日非番でしょ。焼き菓子買いに行かない?」
リーネが目元を拭いながら、何事もなかったかのように言った。
「あ、あの——さっきまで泣いてたのに——」とヨナが戸惑う。
「泣いたら腹減るじゃん。行こうよ。四人で」
リーネの声が、いつもの明るさを取り戻していた。完全にではない。でも——戻ろうとしている。日常に。四人の日常に。
「……行きましょう」
アスカが答えた。その声は柔らかかった。
四人が詰所を出る。廊下を歩く。兵舎を出る。市場に向かう。
リーネが先頭を歩く。ヨナがその横。アスカが半歩後ろ。エルドがさらにその後ろ。いつもの配置。いつもの距離。
でも——何かが違う。
アスカの歩き方が、ほんの少しだけ軽かった。肩の力が抜けていた。隠す必要がなくなった体が、無意識に楽になっている。
空は晴れていた。昨日の重い空が嘘のように、薄い青が広がっている。風は穏やかで、パンの匂いがどこかから漂ってきている。
第七の園は、まだ立っている。四人は、まだ一緒にいる。
——まだ。
その「まだ」の中に、どれだけの重さがあるか。それを知るのは——もう少し、先のことだ。
『それでも隣に』 了




