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崩落のエデン  作者: だんご


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11/25

崩落

 報せは、昼食の最中に来た。


 四人が食堂のテーブルを囲んでいた。リーネが何かの話をしていた。内容は覚えていない。ヨナが笑っていた。アスカがパンを齧っていた。エルドがスープを飲んでいた。いつもの昼食。いつもの時間。


 通信兵が食堂に駆け込んできた。


 息を切らしている。顔が白い。食堂中の視線が集中した。通信兵は隊長を探して首を巡らせ、見つけて駆け寄り、何かを耳打ちした。


 隊長の顔が——凍った。


 エルドはそれを見ていた。隊長の表情が変わる瞬間を。血の気が引くのではなく、表情そのものが消えるのを。感情を処理することを放棄した顔。何かを受け入れるには大きすぎる情報を受け取った人間の顔。


 隊長が立ち上がった。食堂全体に声が響いた。


「——全員、聞け」


 食堂が静まり返った。スプーンを持つ手が止まり、会話が途絶え、咀嚼の音すら消えた。


「先刻、上層部より緊急通信が入った」


 隊長の声は平坦だった。感情を抜いた声。それが逆に、次の言葉の重さを予告していた。


「——第九の園が、崩落した」


 音が消えた。


 食堂から、全ての音が消えた。


「今朝未明、七大罪『怠惰』の分類に属する大規模悪魔群が第九の園を襲撃。防衛部隊は応戦したが、敵の数と質に圧倒され、浮遊機構への到達を許した。午前十時頃、浮遊機構が停止。第九の園は——落ちた」


 落ちた。


 天空から地上へ。人が住む街ごと。建物ごと。人ごと。全てが、落ちた。


「現時点で、生存者の情報はない。避難船が数隻確認されているが、収容人数は園の総人口の——一割に満たない」


 食堂にざわめきが広がった。悲鳴を上げる者。テーブルに拳を叩きつける者。声もなく涙を流す者。第九の園に知人がいた者。家族がいた者。あるいは——ただ、次は自分たちかもしれないという恐怖に打たれた者。


 エルドは——動かなかった。


 スプーンを持ったまま、スープの皿を見ていた。表情は変わらない。いつもと同じ顔。何も感じていない顔。


 第九の園。


 自分が生まれた場所。五歳まで暮らした場所。父がいた。母がいた。兄がいた。妹がいた。スープの匂いがする台所があった。窓から見える空があった。


 ——もう、ない。


 あの場所が空から落ちた。瓦礫を片付けて、建物を建て直して、知らない人たちの知らない街になったあの場所が——今度こそ、完全に消えた。


 「もう何もない場所」だった。家族の記憶以外、何も残っていない場所だった。エルドにとっては——もう関係のない場所のはずだった。


 なのに。


 スプーンを持つ手が——震えていないことを、エルドは確認した。震えていない。何も感じていない。大丈夫だ。何も変わらない。もう何もなかった場所が消えただけだ。それだけのことだ。


「エルド」


 リーネの声が聞こえた。エルドは顔を上げた。


 リーネがこちらを見ていた。目が——心配の色を帯びていた。リーネは知っている。エルドの故郷が第九の園だと。


「……大丈夫だ」


 エルドは答えた。声は平坦だった。いつもと同じ声。


「もう何もない場所だ。関係ない」


 リーネの表情が——少しだけ痛そうに歪んだ。エルドの「大丈夫」を、リーネは信じていない。信じていないが、今ここで追及しても意味がないこともわかっている。


「……そう」


 リーネはそれだけ言った。


 ヨナは——黙っていた。


 ヨナの顔は白かった。手が震えている。テーブルの下で、膝の上で、両手を固く握りしめている。第三の園の崩落を経験したヨナにとって、この報せは——自分の記憶を直接殴られるのと同じだ。


 また園が落ちた。また人が死んだ。また、全てが失われた。


 ヨナは何も言わなかった。言えなかった。ただ白い顔で座っていた。


 アスカは——エルドを見ていた。


 静かに。何も言わず。エルドの顔を、エルドの手を、エルドの目を、見ていた。


 昼食は誰も完食しなかった。食堂の空気は重く沈み、兵士たちは三々五々と散っていった。


 午後は臨時の全体会議が開かれた。第九の園崩落を受けての、防衛態勢の強化。第七の園への脅威の再評価。避難計画の見直し。上層部からの通達が次々と読み上げられる。


 十二あった園が、十になった。


 第三の園。第九の園。二つが落ちた。残り十。人類の居場所が、また狭まった。


 園が落ちるたびに、残った園に避難民が流入する。第七の園にも、今日から第九の園の生存者が来るだろう。少ない生存者が。一割に満たない人々が。


 会議が終わった。任務が割り振られた。警戒態勢の強化。外縁部の巡回増。市民への告知。避難民の受け入れ準備。


 エルドは淡々と任務をこなした。いつもと同じように。命令を受け、体を動かし、作業をこなす。手は正確に動く。声は平坦に出る。何も変わらない。


 何も変わらない——はずだった。


 夕方の巡回を終えて兵舎に戻ったとき、リーネがエルドの腕を掴んだ。


「ちょっと来て」


 リーネはエルドを廊下の隅に連れていった。人がいない場所。


「あんた、本当に大丈夫?」

「大丈夫だと言っただろう」

「嘘つき」


 リーネの声は低かった。


「あんた、今日一日ずっと——いつも以上に何も感じてない顔してた。普段のあんたは『何も感じてない』けど、今日のあんたは『何も感じないようにしてる』顔だった。違いわかるよ、何年一緒にいると思ってんの」


 エルドは何も答えなかった。


 リーネの言葉は——正確だった。


「無理に吐き出せとは言わない。でも——一人で抱え込むなよ。あんたにはそれが一番まずい。何も感じないまま沈んでいくから」


 リーネはそれだけ言って、エルドの腕を離した。


「……おやすみ」


 リーネが去った。


 エルドは廊下に立っていた。窓の外は暗い。夜。天空都市の夜。星が近い。雲が下にある。


 第九の園があった方角を——見ようとして、やめた。もう何も見えない。あの場所は空にはない。地上に落ちた。悪魔の支配する地上に。


 自室に戻った。ヨナはまだ戻っていない。図書室にいるのかもしれない。あるいは——一人で、どこかで。


 ベッドに座った。


 靴を脱いだ。上着を脱いだ。シャツ一枚になった。


 手を見た。


 ——震えていた。


 右手が。左手が。両方。微かに。でも確かに。震えている。


 食堂では震えていなかった。巡回中も震えていなかった。人前では震えていなかった。今——一人になって、ようやく体が反応している。


 何も感じていないはずだ。もう関係のない場所だ。何もなかった。何も残っていなかった。


 ——嘘だ。


 残っていた。


 第八話の朝、夢に見た。スープの匂い。兄の笑顔。母の声。あの台所。あの窓。あの朝の光。全部が——あの場所にあった。あの場所にしかなかった。


 その場所が、消えた。


 永遠に。


 もう夢に見ることもできない。あの台所は地上に落ちた。あの窓は砕けた。あの朝の光は——もう、どこにもない。


 エルドは——何も感じていない。何も感じていないはずだ。悲しくない。つらくない。寂しくない。何も——


 手が震えている。


 何も感じていないのに。頭では何も感じていないのに。体が——五歳の体が、覚えている。あの場所の温度を。あの場所の匂いを。あの場所の重力を。


 それが消えた。体がそれを知って、震えている。


 エルドは震える手を見つめた。止められなかった。握りしめても震えが止まらない。膝の上に置いても止まらない。


 ——ドアが、叩かれた。


 小さなノックの音。


「……エルドさん」


 アスカの声だった。


 エルドは答えなかった。声を出したくなかった。震える手を見られたくなかった。何も感じていない、と言い続けたかった。


「……入っても、いいですか」


 答えなかった。


 数秒の沈黙の後——ドアが開いた。アスカが入ってきた。制服姿。白い髪が薄暗い部屋の中で浮かんでいる。


 アスカはエルドを見た。ベッドに座っているエルドを。震える手を。


 何も言わなかった。


 ドアを閉めて、エルドのベッドの反対側——ヨナのベッドに、静かに腰を下ろした。


 二メートルの距離。近くはない。遠くもない。


 沈黙。


 窓の外で風が鳴っている。夜の風。冷たい風。


 アスカは何も聞かなかった。「大丈夫ですか」と聞かなかった。「つらいですか」と聞かなかった。何も聞かずに、ただ——そこにいた。


 前にも、同じことがあった。


 第八話の朝。屋上で。夢を見た朝。アスカは何も聞かずに隣に立って、「ここにいます」と言った。


 今夜も——同じだった。


 何分経っただろう。五分か。十分か。もっとか。


 アスカが口を開いた。


「……私には、故郷がありません」


 前にも聞いた言葉だった。でも今夜は——その言葉の響きが、少し違った。


「作られた場所はあります。工廠です。でもそこは——私にとって故郷ではありません。帰りたい場所ではなかったから」


 アスカの声は静かだった。


「だから——園が落ちる、ということが、どういう痛みなのか。正直、わかりません。わからないのに、わかったふりをしたくありません」


 エルドは手を見ていた。まだ震えている。


「でも——」


 アスカの声が、少しだけ柔らかくなった。


「エルドさんの手が震えているのは、見えます」


 エルドの体が強張った。見られている。震えを。何も感じないはずの自分の、体だけが正直に反応している弱さを。


「何も感じないって言うんだと思います。いつもそう言うから。でも——手は、震えてます」


 アスカの声に責める色はなかった。指摘する色もなかった。ただ——事実を、静かに、受け止めている声だった。


「私は何もわかりません。何も言えません。正しい言葉を知りません。でも——」


 あの言葉が来るとわかっていた。


「ここにいます」


 同じ言葉。前と同じ言葉。不器用で、的外れかもしれない。故郷を持たない機械が、故郷を失った人間に言う言葉としては——何の慰めにもならないかもしれない。


 でも。


 エルドの手の震えが——少しだけ、小さくなった。


 止まったわけではない。まだ震えている。でも——さっきより、少しだけ。


 誰かがそこにいる。何も聞かず、何も求めず、ただそこにいる。その存在が——震えの波を、ほんの少しだけ吸い取っている。


 エルドは口を開いた。声が出るかどうかわからなかった。


「……兄の名前を、思い出せない」


 出た。掠れた声だった。


「ずっと思い出さないようにしてた。名前を思い出すと——そこに、全部がある。だから閉じてた。ずっと」


 アスカは黙って聞いていた。


「あの園が復興したとき——知らない街になったとき。これでいいと思った。あの場所がもう別のものになった。俺の知ってた場所はもうない。それで——もう終わったと思った」


 声が詰まりかけた。でも——続けた。


「でも——終わってなかった。あの場所がまだ空にあるっていう事実だけが——どこかで、残ってた。もう何もないのに。何も残ってないのに。あの場所が空の上にあるっていう——それだけが」


 エルドは手を握りしめた。震える手を。


「それが——今日、なくなった」


 声が止まった。


 それ以上は出なかった。言葉が枯れた。言えることを全て言った。多分——生まれて初めて、こんなに言葉を吐き出した。


 沈黙。


 アスカは何も言わなかった。感想も、慰めも、同意も。何も。


 ただ——そこにいた。


 二メートルの距離で。ヨナのベッドに座って。白い髪が暗い部屋の中で微かに光って。


 時間が流れた。


 エルドの震えが、ゆっくりと収まっていった。完全には止まらなかった。でも——体が少しずつ弛緩していく。緊張が解けていく。箱の蓋が、また閉まっていく。でも今回は——前ほど固くは閉まらなかった。少しだけ隙間が残った。


「……すまない」


 エルドが呟いた。


「何がですか」

「こんな話を——」

「謝らないでください」


 アスカの声は静かだった。でも強かった。


「私に話してくれたんですから。——それは、謝ることじゃないです」


 エルドはアスカを見た。暗がりの中で、アスカの顔がぼんやりと見える。いつもの笑顔ではなかった。笑っていなかった。でも——穏やかだった。静かで、まっすぐで、ただそこにある顔。


「……ありがとう」


 その言葉が出たことに、エルド自身が驚いた。


 ありがとう。いつ以来だろう、その言葉を言ったのは。覚えていない。誰かに感謝を伝えたことが——思い出せないほど、昔のことだ。


 アスカが——少しだけ、目を見開いた。


 それから——笑った。小さく。ほんの少しだけ。


「……いえ。何も、してませんから」


 してる、とエルドは思った。口には出さなかった。


 ここにいる。それだけで——十分だった。


 アスカが立ち上がった。


「もう遅いですね。——おやすみなさい」

「……ああ」


 アスカがドアに向かう。ドアノブに手をかけて——一度だけ振り返った。


「エルドさん」

「何だ」

「明日も——いつも通りですから。リーネが朝からうるさくて、ヨナがパンを買ってきて、私がそれを食べて。いつもと同じです」


 いつもと同じ。


 その言葉が——重かった。いつもと同じ朝が来る。失ったものは戻らない。でも、明日も四人でテーブルを囲む。その事実が——今のエルドには、何よりも重かった。


「……ああ」


 アスカが出ていった。ドアが閉まった。


 エルドは一人、暗い部屋に座っていた。


 手を見た。震えは——止まっていた。


 窓の外の空を見た。第九の園があった方角。もう何もない。空の上にも、地上にも。あの場所は完全に消えた。


 でも——エルドの中には、まだある。


 スープの匂い。兄の笑顔。母の声。名前は思い出せないまま。でも——あった。確かに、あった。五歳のエルドが知っていた温もりが。


 それは消えていない。場所が消えても。建物が消えても。人がいなくなっても。エルドの中に——まだ、残っている。


 閉じた箱の隙間から、微かに、匂いがする。スープの匂いが。


 エルドは目を閉じた。


 明日は——いつも通りだ。リーネが朝からうるさくて、ヨナがパンを買ってきて、アスカがそれを食べて。四人でテーブルを囲む。


 その日常が——今は、ただ、ありがたかった。


 ありがたい。その感覚を——エルドは、十数年ぶりに思い出していた。


『第九の園、崩落』 了

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