崩落
報せは、昼食の最中に来た。
四人が食堂のテーブルを囲んでいた。リーネが何かの話をしていた。内容は覚えていない。ヨナが笑っていた。アスカがパンを齧っていた。エルドがスープを飲んでいた。いつもの昼食。いつもの時間。
通信兵が食堂に駆け込んできた。
息を切らしている。顔が白い。食堂中の視線が集中した。通信兵は隊長を探して首を巡らせ、見つけて駆け寄り、何かを耳打ちした。
隊長の顔が——凍った。
エルドはそれを見ていた。隊長の表情が変わる瞬間を。血の気が引くのではなく、表情そのものが消えるのを。感情を処理することを放棄した顔。何かを受け入れるには大きすぎる情報を受け取った人間の顔。
隊長が立ち上がった。食堂全体に声が響いた。
「——全員、聞け」
食堂が静まり返った。スプーンを持つ手が止まり、会話が途絶え、咀嚼の音すら消えた。
「先刻、上層部より緊急通信が入った」
隊長の声は平坦だった。感情を抜いた声。それが逆に、次の言葉の重さを予告していた。
「——第九の園が、崩落した」
音が消えた。
食堂から、全ての音が消えた。
「今朝未明、七大罪『怠惰』の分類に属する大規模悪魔群が第九の園を襲撃。防衛部隊は応戦したが、敵の数と質に圧倒され、浮遊機構への到達を許した。午前十時頃、浮遊機構が停止。第九の園は——落ちた」
落ちた。
天空から地上へ。人が住む街ごと。建物ごと。人ごと。全てが、落ちた。
「現時点で、生存者の情報はない。避難船が数隻確認されているが、収容人数は園の総人口の——一割に満たない」
食堂にざわめきが広がった。悲鳴を上げる者。テーブルに拳を叩きつける者。声もなく涙を流す者。第九の園に知人がいた者。家族がいた者。あるいは——ただ、次は自分たちかもしれないという恐怖に打たれた者。
エルドは——動かなかった。
スプーンを持ったまま、スープの皿を見ていた。表情は変わらない。いつもと同じ顔。何も感じていない顔。
第九の園。
自分が生まれた場所。五歳まで暮らした場所。父がいた。母がいた。兄がいた。妹がいた。スープの匂いがする台所があった。窓から見える空があった。
——もう、ない。
あの場所が空から落ちた。瓦礫を片付けて、建物を建て直して、知らない人たちの知らない街になったあの場所が——今度こそ、完全に消えた。
「もう何もない場所」だった。家族の記憶以外、何も残っていない場所だった。エルドにとっては——もう関係のない場所のはずだった。
なのに。
スプーンを持つ手が——震えていないことを、エルドは確認した。震えていない。何も感じていない。大丈夫だ。何も変わらない。もう何もなかった場所が消えただけだ。それだけのことだ。
「エルド」
リーネの声が聞こえた。エルドは顔を上げた。
リーネがこちらを見ていた。目が——心配の色を帯びていた。リーネは知っている。エルドの故郷が第九の園だと。
「……大丈夫だ」
エルドは答えた。声は平坦だった。いつもと同じ声。
「もう何もない場所だ。関係ない」
リーネの表情が——少しだけ痛そうに歪んだ。エルドの「大丈夫」を、リーネは信じていない。信じていないが、今ここで追及しても意味がないこともわかっている。
「……そう」
リーネはそれだけ言った。
ヨナは——黙っていた。
ヨナの顔は白かった。手が震えている。テーブルの下で、膝の上で、両手を固く握りしめている。第三の園の崩落を経験したヨナにとって、この報せは——自分の記憶を直接殴られるのと同じだ。
また園が落ちた。また人が死んだ。また、全てが失われた。
ヨナは何も言わなかった。言えなかった。ただ白い顔で座っていた。
アスカは——エルドを見ていた。
静かに。何も言わず。エルドの顔を、エルドの手を、エルドの目を、見ていた。
昼食は誰も完食しなかった。食堂の空気は重く沈み、兵士たちは三々五々と散っていった。
午後は臨時の全体会議が開かれた。第九の園崩落を受けての、防衛態勢の強化。第七の園への脅威の再評価。避難計画の見直し。上層部からの通達が次々と読み上げられる。
十二あった園が、十になった。
第三の園。第九の園。二つが落ちた。残り十。人類の居場所が、また狭まった。
園が落ちるたびに、残った園に避難民が流入する。第七の園にも、今日から第九の園の生存者が来るだろう。少ない生存者が。一割に満たない人々が。
会議が終わった。任務が割り振られた。警戒態勢の強化。外縁部の巡回増。市民への告知。避難民の受け入れ準備。
エルドは淡々と任務をこなした。いつもと同じように。命令を受け、体を動かし、作業をこなす。手は正確に動く。声は平坦に出る。何も変わらない。
何も変わらない——はずだった。
夕方の巡回を終えて兵舎に戻ったとき、リーネがエルドの腕を掴んだ。
「ちょっと来て」
リーネはエルドを廊下の隅に連れていった。人がいない場所。
「あんた、本当に大丈夫?」
「大丈夫だと言っただろう」
「嘘つき」
リーネの声は低かった。
「あんた、今日一日ずっと——いつも以上に何も感じてない顔してた。普段のあんたは『何も感じてない』けど、今日のあんたは『何も感じないようにしてる』顔だった。違いわかるよ、何年一緒にいると思ってんの」
エルドは何も答えなかった。
リーネの言葉は——正確だった。
「無理に吐き出せとは言わない。でも——一人で抱え込むなよ。あんたにはそれが一番まずい。何も感じないまま沈んでいくから」
リーネはそれだけ言って、エルドの腕を離した。
「……おやすみ」
リーネが去った。
エルドは廊下に立っていた。窓の外は暗い。夜。天空都市の夜。星が近い。雲が下にある。
第九の園があった方角を——見ようとして、やめた。もう何も見えない。あの場所は空にはない。地上に落ちた。悪魔の支配する地上に。
自室に戻った。ヨナはまだ戻っていない。図書室にいるのかもしれない。あるいは——一人で、どこかで。
ベッドに座った。
靴を脱いだ。上着を脱いだ。シャツ一枚になった。
手を見た。
——震えていた。
右手が。左手が。両方。微かに。でも確かに。震えている。
食堂では震えていなかった。巡回中も震えていなかった。人前では震えていなかった。今——一人になって、ようやく体が反応している。
何も感じていないはずだ。もう関係のない場所だ。何もなかった。何も残っていなかった。
——嘘だ。
残っていた。
第八話の朝、夢に見た。スープの匂い。兄の笑顔。母の声。あの台所。あの窓。あの朝の光。全部が——あの場所にあった。あの場所にしかなかった。
その場所が、消えた。
永遠に。
もう夢に見ることもできない。あの台所は地上に落ちた。あの窓は砕けた。あの朝の光は——もう、どこにもない。
エルドは——何も感じていない。何も感じていないはずだ。悲しくない。つらくない。寂しくない。何も——
手が震えている。
何も感じていないのに。頭では何も感じていないのに。体が——五歳の体が、覚えている。あの場所の温度を。あの場所の匂いを。あの場所の重力を。
それが消えた。体がそれを知って、震えている。
エルドは震える手を見つめた。止められなかった。握りしめても震えが止まらない。膝の上に置いても止まらない。
——ドアが、叩かれた。
小さなノックの音。
「……エルドさん」
アスカの声だった。
エルドは答えなかった。声を出したくなかった。震える手を見られたくなかった。何も感じていない、と言い続けたかった。
「……入っても、いいですか」
答えなかった。
数秒の沈黙の後——ドアが開いた。アスカが入ってきた。制服姿。白い髪が薄暗い部屋の中で浮かんでいる。
アスカはエルドを見た。ベッドに座っているエルドを。震える手を。
何も言わなかった。
ドアを閉めて、エルドのベッドの反対側——ヨナのベッドに、静かに腰を下ろした。
二メートルの距離。近くはない。遠くもない。
沈黙。
窓の外で風が鳴っている。夜の風。冷たい風。
アスカは何も聞かなかった。「大丈夫ですか」と聞かなかった。「つらいですか」と聞かなかった。何も聞かずに、ただ——そこにいた。
前にも、同じことがあった。
第八話の朝。屋上で。夢を見た朝。アスカは何も聞かずに隣に立って、「ここにいます」と言った。
今夜も——同じだった。
何分経っただろう。五分か。十分か。もっとか。
アスカが口を開いた。
「……私には、故郷がありません」
前にも聞いた言葉だった。でも今夜は——その言葉の響きが、少し違った。
「作られた場所はあります。工廠です。でもそこは——私にとって故郷ではありません。帰りたい場所ではなかったから」
アスカの声は静かだった。
「だから——園が落ちる、ということが、どういう痛みなのか。正直、わかりません。わからないのに、わかったふりをしたくありません」
エルドは手を見ていた。まだ震えている。
「でも——」
アスカの声が、少しだけ柔らかくなった。
「エルドさんの手が震えているのは、見えます」
エルドの体が強張った。見られている。震えを。何も感じないはずの自分の、体だけが正直に反応している弱さを。
「何も感じないって言うんだと思います。いつもそう言うから。でも——手は、震えてます」
アスカの声に責める色はなかった。指摘する色もなかった。ただ——事実を、静かに、受け止めている声だった。
「私は何もわかりません。何も言えません。正しい言葉を知りません。でも——」
あの言葉が来るとわかっていた。
「ここにいます」
同じ言葉。前と同じ言葉。不器用で、的外れかもしれない。故郷を持たない機械が、故郷を失った人間に言う言葉としては——何の慰めにもならないかもしれない。
でも。
エルドの手の震えが——少しだけ、小さくなった。
止まったわけではない。まだ震えている。でも——さっきより、少しだけ。
誰かがそこにいる。何も聞かず、何も求めず、ただそこにいる。その存在が——震えの波を、ほんの少しだけ吸い取っている。
エルドは口を開いた。声が出るかどうかわからなかった。
「……兄の名前を、思い出せない」
出た。掠れた声だった。
「ずっと思い出さないようにしてた。名前を思い出すと——そこに、全部がある。だから閉じてた。ずっと」
アスカは黙って聞いていた。
「あの園が復興したとき——知らない街になったとき。これでいいと思った。あの場所がもう別のものになった。俺の知ってた場所はもうない。それで——もう終わったと思った」
声が詰まりかけた。でも——続けた。
「でも——終わってなかった。あの場所がまだ空にあるっていう事実だけが——どこかで、残ってた。もう何もないのに。何も残ってないのに。あの場所が空の上にあるっていう——それだけが」
エルドは手を握りしめた。震える手を。
「それが——今日、なくなった」
声が止まった。
それ以上は出なかった。言葉が枯れた。言えることを全て言った。多分——生まれて初めて、こんなに言葉を吐き出した。
沈黙。
アスカは何も言わなかった。感想も、慰めも、同意も。何も。
ただ——そこにいた。
二メートルの距離で。ヨナのベッドに座って。白い髪が暗い部屋の中で微かに光って。
時間が流れた。
エルドの震えが、ゆっくりと収まっていった。完全には止まらなかった。でも——体が少しずつ弛緩していく。緊張が解けていく。箱の蓋が、また閉まっていく。でも今回は——前ほど固くは閉まらなかった。少しだけ隙間が残った。
「……すまない」
エルドが呟いた。
「何がですか」
「こんな話を——」
「謝らないでください」
アスカの声は静かだった。でも強かった。
「私に話してくれたんですから。——それは、謝ることじゃないです」
エルドはアスカを見た。暗がりの中で、アスカの顔がぼんやりと見える。いつもの笑顔ではなかった。笑っていなかった。でも——穏やかだった。静かで、まっすぐで、ただそこにある顔。
「……ありがとう」
その言葉が出たことに、エルド自身が驚いた。
ありがとう。いつ以来だろう、その言葉を言ったのは。覚えていない。誰かに感謝を伝えたことが——思い出せないほど、昔のことだ。
アスカが——少しだけ、目を見開いた。
それから——笑った。小さく。ほんの少しだけ。
「……いえ。何も、してませんから」
してる、とエルドは思った。口には出さなかった。
ここにいる。それだけで——十分だった。
アスカが立ち上がった。
「もう遅いですね。——おやすみなさい」
「……ああ」
アスカがドアに向かう。ドアノブに手をかけて——一度だけ振り返った。
「エルドさん」
「何だ」
「明日も——いつも通りですから。リーネが朝からうるさくて、ヨナがパンを買ってきて、私がそれを食べて。いつもと同じです」
いつもと同じ。
その言葉が——重かった。いつもと同じ朝が来る。失ったものは戻らない。でも、明日も四人でテーブルを囲む。その事実が——今のエルドには、何よりも重かった。
「……ああ」
アスカが出ていった。ドアが閉まった。
エルドは一人、暗い部屋に座っていた。
手を見た。震えは——止まっていた。
窓の外の空を見た。第九の園があった方角。もう何もない。空の上にも、地上にも。あの場所は完全に消えた。
でも——エルドの中には、まだある。
スープの匂い。兄の笑顔。母の声。名前は思い出せないまま。でも——あった。確かに、あった。五歳のエルドが知っていた温もりが。
それは消えていない。場所が消えても。建物が消えても。人がいなくなっても。エルドの中に——まだ、残っている。
閉じた箱の隙間から、微かに、匂いがする。スープの匂いが。
エルドは目を閉じた。
明日は——いつも通りだ。リーネが朝からうるさくて、ヨナがパンを買ってきて、アスカがそれを食べて。四人でテーブルを囲む。
その日常が——今は、ただ、ありがたかった。
ありがたい。その感覚を——エルドは、十数年ぶりに思い出していた。
『第九の園、崩落』 了




