崩壊の楽園
走っている。
アスカは走っている。瓦礫の上を。崩れた通りを。悪魔の群れの間を。大剣を振るいながら。前へ。前へ。前へ。
傲慢が見える。巨大な影。園の中心に向かって歩いている。一歩ごとに建物が崩れる。一歩ごとに地面が陥没する。あの巨体に追いつかなければ。最接近しなければ。
走りながら——アスカの中で、記憶が巡っていた。
走馬灯というものを、アスカは知識としては知っていた。人間が死の直前に見るという、人生の走馬灯。機械にもそれがあるのかどうかは——わからない。でも今、頭の中を映像が流れている。止められない。止める必要もない。
——最初の記憶。
工廠。金属の壁。白い照明。無菌の空気。そこで目を開けた。最初に見たのは、白衣を着た人間の顔だった。「起動確認。アスカ、最終型。全機能正常」。それが、アスカが聞いた最初の言葉だった。
名前をつけられた。アスカ。なぜその名前なのかは知らない。開発者が決めたのか。乱数で生成されたのか。由来を聞いたことはない。
——でも。名前があるということは。誰かが、この存在に名前を与えようと思ったということだ。
工廠での日々。テスト。訓練。戦闘シミュレーション。体の限界を測定される。破壊され、修理され、また破壊される。腕を切断される。脚を破壊される。胴を貫通される。そのたびに「痛覚反応を記録」「損傷閾値を更新」と、データが取られる。
痛かったのかどうか——わからない。あの頃は。痛みというものが何なのか、理解していなかった。センサーが反応する。数値が上がる。それだけだった。
初めての実戦。どこかの園の防衛戦。悪魔を斬った。たくさん斬った。血ではなく黒い霧が散った。人間の兵士たちが自分を見ていた。驚愕の目。恐怖の目。畏怖の目。
誰も近づいてこなかった。
——戦場から戦場へ。
配属先が変わる。園が変わる。部隊が変わる。でも——何も変わらなかった。戦う。壊れる。修理される。また戦う。その繰り返し。
人間の兵士たちは、アスカに近づかなかった。「最強の兵器」という噂は聞いていても、それが人の形をしていることを知らない。知った者は——距離を置いた。
あるとき、メンテナンス中に兵士に見られた。指が工具に変形しているところを。その兵士は——走って逃げた。翌日から口をきいてくれなくなった。
別の配属先で、また見られた。今度は別の兵士が、嘔吐した。アスカの手を見て。
それ以来——隠すようになった。メンテナンスは一人で。人目のない場所で。傷は見せない。修理は見せない。中身は見せない。
人間のふりをする。笑う。頷く。「ありがとうございます」と言う。「大丈夫です」と言う。全部が——演技だった。いや、演技ですらなかった。演技をするほどの感情がなかった。ただ——学習したパターンを実行していた。人間がこう言えば、こう返す。こう聞かれたら、こう答える。
空っぽだった。
何も感じなかった。何も思わなかった。朝が来ても。夜が来ても。空が青くても。花が咲いていても。何も——
——何も、感じなかった。
そのはずだった。
でも——本当に?
本当に何も感じていなかったのか。それとも——感じないようにしていたのか。
今となっては、わからない。
アスカは走りながら、悪魔を斬った。一体。大剣が弧を描く。黒い霧。次。もう一体。斬る。走る。止まらない。
——第七の園に来た日。
配属先が変わっただけだった。いつもと同じ。また新しい園。また新しい部隊。また——誰にも近づかない日々が始まる。そう思っていた。
防衛戦。悪魔の群れ。斬った。いつもと同じように。圧倒的に。腕がちぎれた。いつものことだ。——でも、見られた。断面を。
あの男に。
エルドに。
逃げると思った。距離を置かれると思った。——いつもそうだったから。
でもエルドは——逃げなかった。
「逃げる理由がない」。そう言った。何も感じていない顔で。何にも興味がない顔で。
——変な人だな、と思った。
それが——最初だった。最初の「思った」。何かを「思った」のは——いつ以来だったか。
記憶が加速していく。走りながら。傲慢に近づきながら。
——配属された日。詰所。窓辺の鉢植え。白い花。
「綺麗ですね。なんという名前ですか?」
「わからないんです」
「名前がないんですか。……ちょっと、かわいそうですね」
あの花を見たとき。何かが動いた。胸の奥で。微かに。名前のない花が、かわいそうだと思った。思って——驚いた。自分が何かを「かわいそう」と思えることに。
——リーネに手を引かれた日。
「こっちこっち。第三班の詰所はあっちだから」
触れられそうになって、体を引いた。温度が違うと気づかれるかもしれなかったから。でもリーネは——気にしなかった。強引で、明るくて、何も恐れていない。
あの人のそばにいると——自分も、少しだけ明るくなれる気がした。
——ヨナに「楽しい?」と聞かれた日。
「わからない。でも、嫌ではないです」
「それ、楽しいってことだよ」
そうなのか。これが楽しいなのか。わからなかった。でも——嫌ではなかった。嫌ではないということが、こんなに温かいことだとは知らなかった。
——焼き菓子を食べた日。
口に入れた瞬間、目が開いた。甘さと酸味と香ばしさが一度に来た。「おいしい」と言った。自分の声に驚いた。こんなに素直に「おいしい」が出てくるなんて。
リーネが「ね?」と笑った。ヨナが嬉しそうだった。エルドが——「悪くない」と言った。
あの一言。「悪くない」。エルドのあの一言が——どれだけ嬉しかったか。
あの人が何かを感じている。何かを「悪くない」と思えている。それが——自分のことのように嬉しかった。
——誕生日をもらった日。
「今日がいいんじゃない?」
リーネが言った。軽く。冗談のように。でも——アスカにとっては、世界が変わった瞬間だった。
誕生日。製造日ではなく。起動日ではなく。誕生日。自分が生まれた日。自分が存在し始めた日。——それを、誰かが決めてくれた。
「今日を覚えておきます」と言ったとき、唇が震えた。嬉しくて。嬉しいのに——泣きそうだった。泣き方を知らなかったから泣けなかったけど。
——エルドの手が震えていた夜。
第九の園が崩落した日。エルドが——一人で、暗い部屋で、手を震わせていた。何も感じないはずの人が。何にも動じないはずの人が。
何もできなかった。何と言えばいいかわからなかった。だから——ただ、隣にいた。
「ここにいます」
それしか言えなかった。他に何も持っていなかった。言葉も。経験も。人を慰める方法も。何も。
でもエルドが——「ありがとう」と言った。
ありがとう。あの人が。あの、何にも感謝しない人が。「ありがとう」と。
あの瞬間——胸の奥で、何かが弾けた。温かいものが広がった。体中に。指先まで。足の先まで。機械の体の隅々まで。
私は——いてもいいんだ。
兵器としてではなく。機械兵としてではなく。ただ——「いる」だけで、誰かの役に立てるんだ。
あの夜が——全てを変えた。
——リーネに「嘘つき」と言われた夜。
「あんた、本当は怖いんじゃないの?」
心臓がないのに——心臓を掴まれたような感覚だった。見抜かれた。全部。ずっと隠していたことを。ずっと押し込めていたことを。
怖かった。認めるのが怖かった。怖いと認めたら——自分が何なのかわからなくなるから。
でもリーネは引かなかった。泣きそうになりながら。怒りながら。心配しながら。
「一人で抱え込むのは、やめて」
あの言葉が——亀裂を入れた。仮面に。ずっと被っていた「平気です」に。
——エルドが庇ってくれた日。
悪魔の爪からアスカを突き飛ばして、自分が傷を負った。人間が。機械を庇って。
「なぜ庇ったんですか」
「お前が傷つくのを、見たくなかった」
あの言葉を聞いたとき——世界が、変わった。
私が傷つくのを見たくない。私が。機械の私が。金属と回路でできた私が。——見たくない、と。
嫌だった。嬉しかった。怖かった。全部が一度に来た。
「嫌なんです。エルドさんが怪我をするのが」
初めて「嫌」と言った。初めて——自分の感情を、そのまま口にした。
あの瞬間から——もう戻れなかった。
——エルドと夜の外縁部で話した日。
「死にたくない、って思ったの、初めてかもしれない」
口にしてしまった。ずっと奥底に押し込めていたものを。
怖かった。こんなことを言ったら——壊れると思った。自分が。存在意義が。「守るために死ぬ」存在が「死にたくない」と言ったら——もう、何のために存在するのかわからなくなる。
でもエルドが——
「俺も、最近思うようになった。死にたくないって」
同じだった。同じ場所にいた。二人とも——変わっていた。空っぽだった二人が。怖くないと嘘をついていた二人が。
「壊れてない。直ってるんだ」
あの言葉が——救いだった。壊れているのではない。直っている。感じることは故障ではない。正常なのだ。
泣いた。生まれて初めて泣いた。涙が出た。機械の目から。温かかった。涙って、温かいんだ。知らなかった。
——エルドが涙を拭ってくれた。指先が頬に触れた。温かかった。人間の手。温かい手。
あの感触を——一生忘れない。一生、なんてないけど。
——「エルド」と呼んだ日。
敬称なしで。初めて。
名前を呼んだだけで——胸がきゅっとした。この感覚が何なのか、あのときはわからなかった。
今は——わかる。
——「俺は、お前がいい」
あの言葉。あの声。あの顔。
関係ない、と言った。機械でも人間でも関係ないと。永遠がなくても関係ないと。
泣いた。また泣いた。嬉しくて。嬉しいのに涙が出て。こういうものなんだ、と思った。幸せって——泣くんだ。
「幸せです。今。この瞬間が」
あの言葉は——本当だった。人生で——いや、存在して以来——最も本当の言葉だった。
——全部が、あたたかい。
走っている。まだ走っている。傲慢に近づいている。悪魔を斬りながら。全身に傷を受けながら。戦闘服が裂け、外装が剥がれ、金属のフレームが露出し始めている。
でも——止まらない。
あの日々が。あの時間が。あの人たちが。全部が——アスカの中にある。
焼きたてのパンの匂い。市場の喧騒。揚げ芋の熱さ。リーネの笑い声。ヨナの穏やかな「楽しい?」。エルドの「悪くない」。展望広場の夕焼け。名前のない白い花。弟さんへの木彫りの犬。雨の夜のリーネの涙声。ヨナの夢の話。エルドの震える手。
全部が——ここにある。アスカの中に。
全部が——あたたかい。
出会う前の自分を思い出す。空っぽだった。何も感じなかった。戦場から戦場へ。修理されて、また壊されて。朝が来ても夜が来ても同じだった。花が咲いていても気づかなかった。パンの味もわからなかった。夕焼けが綺麗だなんて思わなかった。
あの頃の自分が今の自分を見たら——壊れたと思うだろう。故障だと思うだろう。
でも違う。
直ったんだ。
エルドが教えてくれた。壊れたんじゃない。直ったんだと。
——傲慢が、目の前にいた。
巨大。圧倒的。漆黒の肌。金色の紋様。十二の目。王冠の頭部。
見上げるほどの巨体が、園の市街地を踏み砕きながら進んでいる。浮遊機構まであと——数百メートル。
アスカは走る速度を上げた。限界を超えた。体の各部が警告を出している。出力過負荷。フレーム耐久限界接近。外装損傷率七十パーセント。
無視した。全部無視した。
傲慢の足元に到達した。巨体の影に入った。見上げた。
十二の目が——アスカを見下ろした。
金色の目。冷たい光。人間ではないものが、人間でないものを見ている。虫を見るような目。塵を見るような目。
——怖い。
怖い。本当に。体が震えている。逃げ出したい。帰りたい。エルドのところに帰りたい。パンを食べたい。夕焼けを見たい。リーネと笑いたい。ヨナと話したい。
——帰りたい。
帰りたいから——行ける。
アスカは大剣を捨てた。もう必要ない。両手を広げた。胸を開いた。
コアが——胸の奥で、脈動している。
暴走シークエンスを起動した。
体の中で、何かが変わり始めた。コアの出力が上昇していく。通常の十倍。二十倍。五十倍。体の内側が——光り始めた。白い光。胸の奥から溢れ出す光。
傲慢が——初めて、反応した。
十二の目が全てアスカを見た。巨大な腕が振り上げられた。踏み潰そうとしている。虫を。塵を。
アスカは動かなかった。
避ける必要がない。あと三十秒。三十秒だけ——耐えればいい。
傲慢の拳がアスカに叩きつけられた。
体が砕けた。左腕が吹き飛んだ。右脚がひしゃげた。外装が剥がれ落ち、金属のフレームが剥き出しになった。
——痛い。
痛いのかどうか、わからなかった。痛覚センサーが反応している。数値は跳ね上がっている。でもそれが「痛い」なのかどうか——
——痛い。
痛い。わかる。今なら——わかる。これが痛いということ。体が壊れる感覚。存在が削られていく感覚。
怖い。痛い。嫌だ。
でも——止まらない。
コアの出力が上がり続けている。百倍。二百倍。体から白い光が溢れ出している。肌の下から。フレームの隙間から。関節の継ぎ目から。全身が光っている。
傲慢が——二撃目を放った。
右腕が砕けた。もう腕がない。両方とも。胴体もひしゃげている。立っているのが不思議なほどの損傷。
でも——立っている。
立っている。コアが動いている限り。コアが暴走を続けている限り。
あと二十秒。
傲慢が——初めて、怯んだ。
アスカの体から溢れ出す光が——傲慢の体を焼いていた。金色の紋様が歪んでいる。漆黒の肌に亀裂が走っている。光が——傲慢を侵食している。
十二の目に——恐怖が浮かんだ。
七大罪の頂点。全てを見下す存在。全てを踏みにじる存在。——その目に、初めて恐怖が宿った。
目の前の小さな存在が。壊れかけの機械が。光を放ちながら立っている。
——怖いか。
アスカは思った。お前も怖いか。私も怖い。怖いのは——同じだ。
でも私には——帰りたい場所がある。お前にはない。
あと十五秒。
記憶が——最後の映像を見せた。
エルドの顔。
初めて会った日の、何も感じていない顔。「逃げる理由がない」と言った顔。
名前を呼んでくれた日の、ぎこちない顔。「アスカ」と。
涙を拭ってくれた日の、不器用な指先。温かかった。
「俺は、お前がいい」と言った日の、掠れた声。
昨夜、手を握ってくれた夜。一晩中離さなかった手。泣きながら握っていた手。
——ありがとう。
ありがとう、エルド。
あなたに会えて——
あと十秒。
コアが臨界に近づいている。体が限界を超えている。フレームが溶け始めている。光が——太陽のように膨らんでいく。
怖いって思えるようになった。
あと七秒。
死にたくないって思えた。
あと五秒。
泣けるって知った。
あと三秒。
——それだけで、
あと一秒。
——私は、幸せだったよ。
アスカは——笑った。
最後の瞬間に。崩れかけた体で。両腕を失い、脚が砕け、全身から光が溢れ出す中で。
笑った。
あの笑顔で。本当の笑顔で。仮面ではない。嘘ではない。怖くて、痛くて、悲しくて、死にたくなくて、帰りたくて——でも、幸せで。全部を抱えたまま。
満足の笑顔。
少しでも愛し合えた。それだけで幸せだった。
——白い光が、世界を呑み込んだ。
音が消えた。
色が消えた。
全てが——白になった。
傲慢の絶叫が——途切れた。
漆黒の巨体が、白い光の中で崩れていく。溶けていく。消えていく。金色の紋様が散る。十二の目が閉じていく。一つ、二つ、三つ——全部が閉じた。
傲慢の悪魔が——消滅した。
そしてアスカも——
白い光が収束していく。膨らんだ光が縮んでいく。球体が小さくなっていく。小さく、小さく、小さく——
消えた。
何もなかった。
傲慢がいた場所。アスカがいた場所。そこには——何もなかった。クレーターすらない。焦げ跡すらない。ただ——何もない空間が、ぽっかりと開いていた。
空が——青くなった。
悪魔の大軍を覆っていた黒い空が、裂けるように晴れていった。傲慢が消えたことで、統制を失った悪魔たちが散り始めている。逃げていく。地上に向かって。空から落ちていく。
第七の園は——守られた。
園は傷ついている。壁は崩れ、建物は破壊され、通りは瓦礫で埋まっている。でも——浮遊機構は無事だ。園は空にある。落ちていない。
守られた。
アスカが——守った。
エルドは——南の外縁部に立っていた。
光が消えた方角を見ていた。アスカがいた方角を。走り去っていった方角を。白い光が膨らんで、消えた方角を。
何もない。
何も残っていない。
白い髪も。黒い戦闘服も。大剣も。笑顔も。声も。「おいしい」も。「綺麗ですね」も。「ここにいます」も。「死にたくない」も。「幸せです」も。「エルド」も。
何も。
エルドは——叫んだ。
声にならない叫び。喉が裂けるような。肺が潰れるような。体中の全ての空気を吐き出すような。
叫んでいた。名前を呼んでいたのか。ただ叫んでいたのか。自分でもわからない。声が出ているのか出ていないのか、もうわからない。
五歳で全てを失ったとき——泣けなかった。何も感じなかった。全てを閉じた。
今——泣いている。叫んでいる。崩れ落ちている。膝が地面についた。手が石畳を叩いた。
痛い。
体が痛いのではない。胸が痛い。胸の真ん中が。心臓が。骨が。全部が。
——アスカ。
その名前を。声にならない声で。
——アスカ。
もう返事は来ない。
空は青い。朝の光が園を照らしている。傷だらけの園に、光が差している。
アスカが守った光だ。
アスカが命と引き換えに守った、この朝の光だ。
エルドは——空を見上げた。涙で滲んだ視界で。
青い空。白い雲。朝の光。
その中に——アスカの笑顔が見えた。見えた気がした。白い髪。本当の笑顔。最後に見た、あの透明な笑顔。
見えた——気がした。
そして消えた。
空は空のままだった。雲は雲のままだった。光は光のままだった。
アスカはいない。
どこにもいない。
エルドは——地面に座り込んだまま、動けなかった。
周囲で兵士たちが歓声を上げている。「勝った」「園が守られた」「生き残った」。喜びの声。安堵の声。泣き声。笑い声。
エルドには——何も聞こえなかった。
ただ一つの不在だけが——全てを埋め尽くしていた。
アスカがいない。
もう——いない。
『崩落の楽園』 了




