行くな
エルドの手が、アスカの腕を掴んでいた。
離せない。
頭ではわかっている。離さなければならない。アスカが行かなければ園が落ちる。全員が死ぬ。リーネの弟が。ヨナが。園の人々が。わかっている。わかっているのに——手が言うことを聞かない。五歳で全てを閉じた男の手が、今——全ての力を込めて、一人の腕を掴んでいる。
アスカがエルドの手を見た。掴まれた自分の腕を。白くなるほど力が込められた指を。
それからエルドの顔を見た。
エルドの顔は——崩れていた。
何も感じない男。空っぽだった男。「別に」と「ああ」しか言わなかった男。その顔が今——全ての感情で溢れている。怒り。恐怖。悲しみ。絶望。懇願。そして——名前をつけることを恐れていたもの。ようやく認めたもの。それが全部、顔に出ている。隠す余裕がない。隠す術を、この男は最初から持っていなかった。
「行くな」
声が出た。前夜と同じ言葉。でも——昨夜は暗い詰所の中だった。二人きりの静寂の中だった。
今は戦場だ。傲慢が園を踏み砕いている。悲鳴が聞こえる。建物が崩れる音が響いている。時間がない。本当に時間がない。
「行くな。頼む」
頼む。エルドが「頼む」と言った。命令でもなく、要求でもなく。——懇願。
覚悟を決めたはずだった。昨夜、最後の夜を過ごした。手を握り合った。全部話した。全部わかった。覚悟した——つもりだった。
いざその瞬間が来ると——ダメだった。覚悟など紙切れだった。体が、心が、魂が——全てが拒否していた。この手を離すことを。この存在を手放すことを。
「お前がいない世界で——俺はどうすればいい」
昨夜も言った。同じ言葉。同じ問い。答えのない問い。でも今は——本当の最後だった。最後の最後。この手を離したら、もう二度と——
アスカは——エルドを見ていた。
泣いていなかった。昨夜、泣き尽くしたから。涙はもう残っていないのかもしれない。目は赤い。でも乾いている。乾いた目で——エルドを見ていた。
その目に——
痛みがあった。エルドの顔を見ることが痛いのだ。あの崩れた顔を。あの震える声を。自分がこの人を苦しめているという事実が——アスカの胸を抉っている。
でも、その痛みの奥に——揺るがないものがあった。
アスカがエルドの手に、自分の手を重ねた。掴まれた腕ではなく。エルドの手の上に、もう片方の手を。
温かかった。
「……エルド」
アスカの声は——穏やかだった。戦場の喧騒が嘘のように。二人の間だけに流れる、静かな時間。世界が爆発していても、この二人の間だけは——静かだった。
「前の夜に約束したよね。嘘をつかないって」
エルドは頷いた。声が出なかった。喉が詰まっていた。
「だから——正直に言うね」
アスカの目がエルドを捉えた。真っ直ぐに。逸らさずに。
「怖い」
一言。短い。でも——重い。
「すごく怖い。死にたくない。消えたくない。あなたの隣にいたい。明日も一緒にパンを食べたい。夕焼けを見たい。リーネとくだらない話をしたい。ヨナの花が咲くのを見たい。——全部、本当」
嘘をつかない。約束した。だから——全部、言った。
「でも」
アスカの声が——一段、深くなった。
「あなたがいる場所が落ちたら——全部なくなる。パン屋もなくなる。展望広場もなくなる。リーネの弟の笑顔もなくなる。ヨナの花も——なくなる。あなたも」
アスカの手がエルドの手を握った。強く。
「私が感じた全部——おいしいって思ったこと、綺麗だって思ったこと、楽しいって思ったこと、怖いって思ったこと——全部、ここで生まれたの。この園で。この人たちの中で。あなたの隣で」
涙が——出なかった。もう涙がない。でも目の奥が光っていた。光るものがないのに、光っていた。
「その場所を——私は守りたい。守りたいと思ってるの。命令だからじゃない。使命だからでもない。私が——自分の意志で」
アスカの声が——かすかに震えた。ここだけ。ここだけ震えた。
「守りたいものができたから——だから、行ける。怖くても。死にたくなくても。帰りたくても」
帰りたい。帰りたいのに、行く。生きたいのに、死にに行く。矛盾だ。全てが矛盾だ。でもその矛盾の中に——アスカの全てがあった。
エルドの目から——涙がこぼれた。
止められなかった。堪えようとしなかった。流れるままに。頬を伝って、顎から落ちて、アスカの手の上に落ちた。
アスカが——エルドの涙を見た。
自分の手の上に落ちた涙の温度を感じた。温かかった。人間の涙は——温かい。
アスカの唇が——震えた。泣けない。もう涙がない。でも——泣きたかった。エルドと一緒に泣きたかった。最後に。
「……泣かないで」
アスカがエルドの頬に手を伸ばした。涙を拭おうとした。あの夜と同じ。エルドがアスカの涙を拭ったのと逆に。今度はアスカがエルドの涙を。
「あなたが泣くと——私も泣きたくなる。もう出ないのに。涙」
笑おうとしていた。泣けないから、笑おうとしていた。
——笑えた。
エルドは息を呑んだ。
アスカが——笑った。
その笑顔は。
今まで見た、どの笑顔とも違っていた。
第一話で見た「問題ありません」の笑顔ではない。食堂でリーネに見せる穏やかな笑顔でもない。展望広場で夕焼けを見たときの柔らかな笑顔でもない。泣きながらの不格好な笑顔でもない。仮面でもない。作り物でもない。
——無理をしていない笑顔だった。
初めて見た。アスカの全部が入っている笑顔。怖い。悲しい。死にたくない。帰りたい。でも——幸せだった。ここにいられて幸せだった。あなたに会えて幸せだった。全部が——全部が共存している笑顔。
矛盾だらけの笑顔。でも——透明だった。澄んでいた。何も隠していない。何も被っていない。
美しかった。
エルドがこれまでの人生で見た、最も美しいものだった。夕焼けよりも。星空よりも。朝の光よりも。
「ありがとう」
アスカが言った。
「あなたに会えて——怖いって思えるようになった。死にたくないって思えた。泣けるって知った。おいしいって声に出して言えた。綺麗だって素直に思えた。楽しいってわかった。誕生日をもらった。名前を呼んでもらえた」
一つ一つが——アスカの宝物だった。この数ヶ月で積み重なった、小さな宝物。他の誰かには些細なこと。でもアスカにとっては——全てだった。
「パンがおいしかった。焼き菓子が甘かった。揚げ芋が熱かった。夕焼けが綺麗だった。リーネがうるさくて、ヨナが優しくて。花に名前がなくて——かわいそうだなって思えた」
アスカの声が——温かかった。一つ一つを数えている。指折り数えるように。全部を最後に確認するように。
「全部——あなたがくれた。あなたの隣にいたから。あなたが逃げなかったから。最初の日に——中身が機械だって知っても、逃げなかった。あのとき逃げられてたら——私はきっと、空っぽのまま、いつか壊れて終わってた」
アスカの手が——エルドの頬から離れた。ゆっくりと。名残惜しそうに。最後に——指先で、頬の輪郭をなぞるように。
「だから——ありがとう。全部。全部、ありがとう」
アスカの声が——静かに、揺れた。
「それだけで——私は、幸せだったよ」
幸せだった。
過去形で言った。もう——過去のことにしている。自分の幸せを。自分の時間を。
エルドの手が——震えていた。アスカの腕を掴んだまま。でも力が——抜けていこうとしている。
止められない。
わかっている。止められない。他に方法がない。アスカが行かなければ全員死ぬ。この手を離さなければ——全員が落ちる。リーネの弟が。ヨナが。園の全員が。
正しい。正しいのだ。頭ではわかっている。
でも——正しさと引き換えに、この手を離さなければならない。正しさのために——世界で一番大事な存在を、手放さなければならない。
それが——こんなに痛いなんて。
アスカが——エルドの手に触れた。掴んでいる手に。指先が——一本ずつ、開いていく。エルドの指を。ゆっくりと。
一本目が離れた。
二本目が離れた。
三本目。アスカの指が、エルドの指を包み込むようにして開いていく。優しく。壊れものを扱うように。
四本目。
最後の一本——親指が。
アスカの指がエルドの親指に触れたとき——アスカの手が、一瞬だけ止まった。
一瞬。
ほんの一瞬、アスカの指がエルドの指を握り返した。ぎゅっと。短く。強く。
——離したくない。
その感情が、指先から伝わってきた。
でも——離した。
エルドの手が、空を掴んだ。温もりの残像だけが、指に残っている。
アスカが一歩後退した。二人の間に——空間ができた。
風が吹き抜けた。戦場の風。煙と埃と血の匂いがする風。その風が二人の間を通っていった。
「——行きます」
アスカが背を向けた。
白い髪が揺れた。後ろで留めた髪の毛先が、風に靡いた。黒い戦闘服の背中。大剣の柄が肩越しに見えている。
あの背中を——もう何度見ただろう。戦場で悪魔を薙ぎ払うあの背中を。圧倒的で、美しくて、力強い背中を。
今——その背中が、遠ざかろうとしている。
エルドの足が——動こうとした。追いかけようとした。理性ではなく本能が。考えるより先に体が。
「——エルド!」
横から声が飛んできた。リーネだった。
いつの間にか——リーネが隣にいた。左翼の防衛から戻ってきたのだ。全身が汗と煤で汚れている。腕に浅い傷がある。頬に擦り傷がある。でも——立っている。
リーネがエルドの肩を掴んだ。両手で。正面から。エルドの目を見た。
リーネの目から涙が流れていた。声もなく。頬を伝って。でも——目は据わっていた。泣きながら、据わっていた。
「行かせてあげなよ」
リーネの声は震えていた。でも——折れていなかった。
「あの子が——自分で決めたんだから」
自分で決めた。使命でも命令でもなく。アスカが——自分の意志で。守りたいから。守りたいものができたから。
「怖いから戦える」——リーネ自身が言った言葉。怖いから帰りたい。帰りたいから引き金が引ける。
アスカはそれを受け取った。怖い。帰りたい。——帰りたいから、行ける。
リーネの言葉が、アスカの覚悟を支えている。リーネの涙が、アスカの決意を認めている。
エルドは——足を止めた。
追いかけなかった。
追いかけられなかった。リーネの手が肩にある。リーネの涙がある。リーネの声がある。「行かせてあげなよ」。
——そうだ。行かせなければならない。
アスカが守ろうとしているものを——残った自分たちが、守らなければならない。アスカが命を懸ける場所を、アスカが帰りたいと願った場所を——潰すわけにはいかない。
エルドの膝が——折れた。
地面に崩れ落ちた。膝が石畳にぶつかった。痛みがあった。でもその痛みは——胸の痛みの百分の一もなかった。
アスカの背中が——遠ざかっていく。
走り出した。速い。人間の速度ではない。地を蹴るたびに石畳が砕ける。大剣を抜いた。刃が朝の光を反射した。
取り巻きの悪魔が立ちはだかる。アスカは止まらない。大剣が弧を描く。一体、二体、三体——斬り捨てながら走る。立ち止まらない。
振り返らない。
振り返ったら——止まってしまうから。帰りたくなるから。エルドの顔を見たら——もう、行けなくなるから。
だから振り返らない。
エルドは地面に膝をついたまま、その背中を見ていた。
どんどん小さくなっていく。
どんどん遠くなっていく。
悪魔の群れの中に。煙の中に。瓦礫の向こうに。
白い髪が——最後に一瞬だけ見えた。戦塵の隙間から。朝の光を受けて、金色に光って。
——消えた。
見えなくなった。
エルドは——空を見上げた。
口が動いた。声にならなかった。唇だけが形を作った。
アスカには届かない。もう遠すぎる。聞こえるはずがない。でも——唇が動いた。言わずにいられなかった。
——生きて帰れ。
届かない言葉。叶わない祈り。
エルドは知っている。帰れないことを。帰ってこないことを。コアの暴走は不可逆だと。消滅するのだと。
知っていて——祈った。
初めて。生まれて初めて。何かを祈った。
リーネが——エルドの隣に膝をついた。
何も言わなかった。ただ隣にいた。泣きながら。エルドの肩に手を置いたまま。
二人で地面に膝をついていた。戦場の真ん中で。周囲で兵士たちが戦っている。悪魔がまだいる。園をまだ守らなければならない。
「……立って」
リーネが言った。声がかすれていた。
「立って、エルド。——まだ終わってない。あの子が守ろうとしてるもの——私たちが守らないと」
リーネの手が——エルドの腕を引いた。立ち上がらせようとして。
エルドは——立ち上がった。
膝が笑っていた。手が震えていた。視界が滲んでいた。涙で。
でも——立った。
銃を拾った。構えた。弾倉を確認した。残り少ない。でも——まだある。まだ撃てる。
アスカが守ろうとしている場所を。アスカが帰りたいと願った場所を。——守る。
エルドは引き金を引いた。一発。悪魔が倒れた。
また引いた。もう一発。
泣きながら——撃ち続けた。
隣でリーネも撃っていた。泣きながら。二人とも泣きながら、銃を撃っていた。
守る。
守る。
あの子が帰ってくる場所を——
——帰ってこないと、知っていても。
守る。
空の向こうで——白い光が、生まれようとしていた。
『行くな』 了




