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崩落のエデン  作者: だんご


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22/25

最終防衛戦

 夜明けが来た。


 エルドは起きていた。一睡もしていなかった。アスカの手を握ったまま、夜を越えた。


 東の空が白からうすい橙に変わっていく。窓辺のヨナの花が、朝の光を浴びて白く輝いている。


 アスカの目が——開いた。


 静かに。穏やかに。まるで普通の朝のように。目を開けて、天井を見て、そしてエルドを見た。


 握られた手を見た。エルドの指が、自分の指を包み込んでいるのを。


「……朝、ですね」


 アスカの声は——澄んでいた。昨夜の涙が全て流れ出た後の、洗われたような声。


「ああ」


 エルドの声は掠れていた。一晩泣いたからだ。人生で初めて、一晩泣いた。


 アスカが手を握り返した。きゅっと。それから——離した。


 エルドの指が空気を掴んだ。温もりの残像だけが、手のひらにある。


 アスカが立ち上がった。制服を正した。髪を指で梳いた。戦闘服に着替えなければならない。今日——最後の戦いが始まる。


「……支度をしてきます」


 アスカはそう言って、詰所を出ていった。振り返らなかった。振り返ったら——止まってしまうから。


 エルドは一人、詰所に残った。


 手を見た。アスカの温もりの名残がまだある。消える前に——握りしめた。


 立ち上がった。装備を確認した。銃。弾薬。止血帯。通信機。全てがいつも通り。いつもと同じ準備。でも——今日は、いつもと同じ日ではない。


 廊下に出ると、リーネがいた。完全武装。顔は強張っているが、目は据わっている。昨夜も眠れなかったのだろう。目の下に隈がある。


「……聞いた」


 リーネが言った。声が低い。


「アスカのこと。——コアの暴走のこと」

「誰から」

「上層部の通達があった。全指揮官に。——私にも」


 リーネの目が——赤かった。泣いたのだろう。一人で。


「……止められないの」

「……ああ」


 エルドが答えた。その一言が——重かった。


 リーネが唇を噛んだ。何かを堪えている顔。怒りか。悲しみか。やるせなさか。全部だろう。


「……最悪」


 リーネが小さく呟いた。


「最悪だよ。こんなの。あの子がようやく——ようやく笑えるようになったのに。ようやく泣けるようになったのに。——こんなの」


 声が震えた。でもリーネは泣かなかった。もう泣いた。泣き終えて、覚悟を決めた後の顔だ。


「……でも——私にできることは、戦うことだけだから」


 リーネが銃を肩に担ぎ直した。


「家族を守る。弟を守る。——そのためにアスカが死ぬなんて、受け入れたくない。受け入れたくないけど——」


 言葉が詰まった。リーネは目を閉じて、深く息を吸った。


「……あの子が自分で決めたんだから。——私は、あの子が守ろうとしているものを、守り抜く。それだけ」


 リーネの覚悟は——重かった。自分のためではない。アスカが命を懸けて守ろうとしているものを、無駄にしない。その決意。


 ヨナが廊下の向こうから歩いてきた。まだ足を引きずっている。でも——顔に、いつもの穏やかさがあった。


「……エルドさん。リーネさん」


 ヨナの目が——二人の顔を見て、全てを察した。


「アスカさんのこと——」

「知ってるの?」

「……聞きました。後方の指揮官から」


 ヨナの手が——震えていた。いつもの震え。でも今日はいつもより強い。


「僕は——戦えません。この体じゃ、前線に出られない。何もできない。——また、何もできない」


 ヨナの声が——かすかに裂けた。第三の園のとき。父の手が離れたとき。何もできなかった自分。また——同じだ。


「でも——後方で、できることをします。避難民を守ります。負傷者を運びます。——それしかできないけど」


 ヨナが——エルドを見た。


「エルドさん。アスカさんの傍に——いてあげてください。最後まで」


 エルドは頷いた。言葉は出なかった。頷くことしかできなかった。


 アスカが戻ってきた。黒い戦闘服。大剣を背負っている。白い髪を後ろで留めている——今まで見たことのない髪型だった。顔がはっきりと見える。いつもは髪で隠れていた額が見えている。


 四人が、廊下に揃った。


 リーネ。ヨナ。エルド。アスカ。


 最後の——四人。


 誰も何も言わなかった。


 言葉は要らなかった。全てが——顔に出ていた。リーネの覚悟。ヨナの痛み。エルドの悲しみ。アスカの——決意。


 リーネが、手を伸ばした。全員の真ん中に。


「——みんな。生きて帰ろう」


 嘘だと知っていた。全員では帰れない。でもリーネは言った。言わずにはいられなかった。


 ヨナが手を重ねた。「はい」と小さく。


 エルドが手を重ねた。無言で。


 アスカが——最後に手を重ねた。四人の手が重なった。


「……ありがとう。みんな」


 アスカの声は——震えていなかった。穏やかだった。覚悟の向こう側にある、静かな場所から出た声。


 四つの手が離れた。それぞれが——自分の持ち場に向かう。


 ヨナが後方へ。リーネとエルドが前線へ。アスカが——最前線へ。


 兵舎を出た。


 空が——赤かった。


 朝焼けではない。南の空が赤い。悪魔の大軍が放つ光。黒と赤が混ざった、不吉な色。その中心に——巨大な影が動いていた。


 傲慢。


 二十メートルを超える巨体。漆黒の肌に金色の紋様。十二の目。王冠のような頭部。——それが、動き始めていた。


 ゆっくりと。悠然と。全てを見下ろしながら。


 園に向かって。


「——全防衛部隊、最終迎撃態勢! 園を守れ! 一歩も退くな!」


 隊長の絶叫。全軍が動いた。


 最終防衛戦が——始まった。


 悪魔の大軍が、全方位から園に殺到した。北も南も東も西も。壁という壁を叩き、乗り越え、突き破ってくる。今までの襲撃が前哨戦だったと思い知らされるほどの規模。空が黒い。地面が揺れる。園全体が——震えている。


 エルドとリーネは南外縁部の防衛線にいた。最も激しい方角。傲慢が進んでくる方角。


 悪魔が壁を乗り越えてくる。撃つ。倒す。撃つ。倒す。弾倉を替える。撃つ。倒す。手が痛い。肩が痛い。耳が痛い。銃声で鼓膜がおかしくなっている。


 アスカが前線で戦っている。大剣を振るい、悪魔を薙ぎ払い、大型個体を斬り伏せる。圧倒的。美しい。力強い。——これが最後の戦いだと知っている背中で。


 リーネが隣で叫んだ。


「左! 壁が崩れた!」


 左翼の壁が突破された。悪魔が市街地に侵入する。防衛部隊が対応に走る。


「私、行く! ——エルド、ここ頼む!」


 リーネが走り出した。左翼に向かって。家族がいる方向に向かって。


 リーネの背中が——戦場の混沌の中に消えていく。あの背中に、恐怖がある。でも逃げない。怖いから戦える。怖いから帰りたい。帰りたいから——引き金を引ける。


 リーネの物語の集大成が、今日ここにある。


 エルドは一人で南の防衛線を支えた。壁際で銃を撃ち続けた。弾が尽きかける。予備の弾倉を取る。最後の一つ。


 周囲の兵士が次々と倒れていく。死者が増えていく。防衛線が薄くなっていく。


 そして——後方から、報告が来た。


 通信機から声が飛び込んできた。


「——後方避難区域に悪魔侵入! 搬送中の負傷者が——」


 ヨナがいる場所。


 エルドの体が反応した。だが——動けなかった。ここを離れたら南が崩れる。前回と同じ判断。前線か後方か。


 通信機から続報が入った。


「——後方の兵士が応戦。負傷者を防護。——後方兵士一名、重傷」


 エルドの心臓が跳ねた。


「——氏名、ヨナ——」


 世界が、一瞬止まった。


 ヨナが。また。また庇って。また傷ついて。


「——意識あり。搬送中。命に別状はないが、戦闘続行不能」


 生きている。生きている。


 エルドは通信機を握りしめた。息を吐いた。——生きている。


 ヨナは——最後まで、ヨナだった。弱い体で。傷の癒えない体で。それでも誰かを守ろうとして。また傷ついた。


 優しすぎる男は——最後まで、他人を想って倒れた。


 「みんなを、頼むよ」。


 ヨナの言葉が反響した。


 エルドは銃を構え直した。撃った。一発。また一発。最後の弾倉。残り少ない。


 ——守る。


 ヨナの分も。リーネの分も。アスカの分も。


 この場所を——守る。


 傲慢の悪魔が——園の外壁に到達した。


 巨大な手が壁に触れた。壁が——砕けた。紙のように。石造りの分厚い壁が、触れただけで粉々になった。


 傲慢が——園の中に、足を踏み入れた。


 地面が陥没した。一歩で。建物が倒壊した。巨体が通過するだけで。


 通常戦力では止められない。砲撃が放たれた。傲慢の体に着弾する。——傷一つつかない。弾かれる。溶ける。消える。


 何もできない。人間には何もできない。


 傲慢が——浮遊機構のある園の中央に向かって、歩き始めた。一歩。二歩。三歩。ゆっくりと。急ぐ必要がないことを知っている。誰にも止められないことを知っている。


 アスカが——前線から戻ってきた。


 エルドの傍に来た。大剣を握っている。全身に傷がある。戦闘服が裂けている。——でも、目は澄んでいた。


「……時間です」


 アスカが言った。


 エルドの全身が——凍りついた。


 わかっていた。この瞬間が来ることは。覚悟していたはずだ。昨夜、二人で話した。手を握り合った。泣いた。全部——わかっていた。


 わかっていたのに。


 いざその瞬間が来ると——体が、動かない。


「……アスカ」


 声が出た。掠れた声。


 アスカがエルドを見た。


 目が合った。


 戦場の喧騒の中で。悲鳴と銃声と爆音の中で。二人だけの静寂が——一瞬、訪れた。


 アスカの目に——全てがあった。


 恐怖。覚悟。悲しみ。愛。全部が、あの目の中にあった。


「行かなきゃ。——今、行かないと。間に合わなくなる」


 アスカの声は震えていなかった。——いや、震えを超えた場所にいた。


 エルドは——


 次の話で。次の話で、最後の言葉を交わす。今は——まだ。


 まだ、この瞬間の中にいる。


 傲慢の巨体が、園の市街地を踏み砕きながら進んでいる。


 時間がない。


 アスカが踵を返しかけた。


 エルドの手が——アスカの腕を掴んだ。


 反射だった。考えたわけではない。体が——離すなと叫んでいた。


 アスカが振り返った。エルドの目を見た。


 何も言えなかった。何を言えばいい。行くなと言えばいいのか。頑張れと言えばいいのか。ありがとうと言えばいいのか。どれも違う。どれも足りない。どれも——


 エルドの口が開いた。何が出るかわからないまま。


 ——続きは、次の話で。


 第七の園が、揺れている。傲慢が進んでいる。時間が、尽きようとしている。


 この瞬間の先に——全てがある。


『最終防衛戦』 了

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