最終防衛戦
夜明けが来た。
エルドは起きていた。一睡もしていなかった。アスカの手を握ったまま、夜を越えた。
東の空が白からうすい橙に変わっていく。窓辺のヨナの花が、朝の光を浴びて白く輝いている。
アスカの目が——開いた。
静かに。穏やかに。まるで普通の朝のように。目を開けて、天井を見て、そしてエルドを見た。
握られた手を見た。エルドの指が、自分の指を包み込んでいるのを。
「……朝、ですね」
アスカの声は——澄んでいた。昨夜の涙が全て流れ出た後の、洗われたような声。
「ああ」
エルドの声は掠れていた。一晩泣いたからだ。人生で初めて、一晩泣いた。
アスカが手を握り返した。きゅっと。それから——離した。
エルドの指が空気を掴んだ。温もりの残像だけが、手のひらにある。
アスカが立ち上がった。制服を正した。髪を指で梳いた。戦闘服に着替えなければならない。今日——最後の戦いが始まる。
「……支度をしてきます」
アスカはそう言って、詰所を出ていった。振り返らなかった。振り返ったら——止まってしまうから。
エルドは一人、詰所に残った。
手を見た。アスカの温もりの名残がまだある。消える前に——握りしめた。
立ち上がった。装備を確認した。銃。弾薬。止血帯。通信機。全てがいつも通り。いつもと同じ準備。でも——今日は、いつもと同じ日ではない。
廊下に出ると、リーネがいた。完全武装。顔は強張っているが、目は据わっている。昨夜も眠れなかったのだろう。目の下に隈がある。
「……聞いた」
リーネが言った。声が低い。
「アスカのこと。——コアの暴走のこと」
「誰から」
「上層部の通達があった。全指揮官に。——私にも」
リーネの目が——赤かった。泣いたのだろう。一人で。
「……止められないの」
「……ああ」
エルドが答えた。その一言が——重かった。
リーネが唇を噛んだ。何かを堪えている顔。怒りか。悲しみか。やるせなさか。全部だろう。
「……最悪」
リーネが小さく呟いた。
「最悪だよ。こんなの。あの子がようやく——ようやく笑えるようになったのに。ようやく泣けるようになったのに。——こんなの」
声が震えた。でもリーネは泣かなかった。もう泣いた。泣き終えて、覚悟を決めた後の顔だ。
「……でも——私にできることは、戦うことだけだから」
リーネが銃を肩に担ぎ直した。
「家族を守る。弟を守る。——そのためにアスカが死ぬなんて、受け入れたくない。受け入れたくないけど——」
言葉が詰まった。リーネは目を閉じて、深く息を吸った。
「……あの子が自分で決めたんだから。——私は、あの子が守ろうとしているものを、守り抜く。それだけ」
リーネの覚悟は——重かった。自分のためではない。アスカが命を懸けて守ろうとしているものを、無駄にしない。その決意。
ヨナが廊下の向こうから歩いてきた。まだ足を引きずっている。でも——顔に、いつもの穏やかさがあった。
「……エルドさん。リーネさん」
ヨナの目が——二人の顔を見て、全てを察した。
「アスカさんのこと——」
「知ってるの?」
「……聞きました。後方の指揮官から」
ヨナの手が——震えていた。いつもの震え。でも今日はいつもより強い。
「僕は——戦えません。この体じゃ、前線に出られない。何もできない。——また、何もできない」
ヨナの声が——かすかに裂けた。第三の園のとき。父の手が離れたとき。何もできなかった自分。また——同じだ。
「でも——後方で、できることをします。避難民を守ります。負傷者を運びます。——それしかできないけど」
ヨナが——エルドを見た。
「エルドさん。アスカさんの傍に——いてあげてください。最後まで」
エルドは頷いた。言葉は出なかった。頷くことしかできなかった。
アスカが戻ってきた。黒い戦闘服。大剣を背負っている。白い髪を後ろで留めている——今まで見たことのない髪型だった。顔がはっきりと見える。いつもは髪で隠れていた額が見えている。
四人が、廊下に揃った。
リーネ。ヨナ。エルド。アスカ。
最後の——四人。
誰も何も言わなかった。
言葉は要らなかった。全てが——顔に出ていた。リーネの覚悟。ヨナの痛み。エルドの悲しみ。アスカの——決意。
リーネが、手を伸ばした。全員の真ん中に。
「——みんな。生きて帰ろう」
嘘だと知っていた。全員では帰れない。でもリーネは言った。言わずにはいられなかった。
ヨナが手を重ねた。「はい」と小さく。
エルドが手を重ねた。無言で。
アスカが——最後に手を重ねた。四人の手が重なった。
「……ありがとう。みんな」
アスカの声は——震えていなかった。穏やかだった。覚悟の向こう側にある、静かな場所から出た声。
四つの手が離れた。それぞれが——自分の持ち場に向かう。
ヨナが後方へ。リーネとエルドが前線へ。アスカが——最前線へ。
兵舎を出た。
空が——赤かった。
朝焼けではない。南の空が赤い。悪魔の大軍が放つ光。黒と赤が混ざった、不吉な色。その中心に——巨大な影が動いていた。
傲慢。
二十メートルを超える巨体。漆黒の肌に金色の紋様。十二の目。王冠のような頭部。——それが、動き始めていた。
ゆっくりと。悠然と。全てを見下ろしながら。
園に向かって。
「——全防衛部隊、最終迎撃態勢! 園を守れ! 一歩も退くな!」
隊長の絶叫。全軍が動いた。
最終防衛戦が——始まった。
悪魔の大軍が、全方位から園に殺到した。北も南も東も西も。壁という壁を叩き、乗り越え、突き破ってくる。今までの襲撃が前哨戦だったと思い知らされるほどの規模。空が黒い。地面が揺れる。園全体が——震えている。
エルドとリーネは南外縁部の防衛線にいた。最も激しい方角。傲慢が進んでくる方角。
悪魔が壁を乗り越えてくる。撃つ。倒す。撃つ。倒す。弾倉を替える。撃つ。倒す。手が痛い。肩が痛い。耳が痛い。銃声で鼓膜がおかしくなっている。
アスカが前線で戦っている。大剣を振るい、悪魔を薙ぎ払い、大型個体を斬り伏せる。圧倒的。美しい。力強い。——これが最後の戦いだと知っている背中で。
リーネが隣で叫んだ。
「左! 壁が崩れた!」
左翼の壁が突破された。悪魔が市街地に侵入する。防衛部隊が対応に走る。
「私、行く! ——エルド、ここ頼む!」
リーネが走り出した。左翼に向かって。家族がいる方向に向かって。
リーネの背中が——戦場の混沌の中に消えていく。あの背中に、恐怖がある。でも逃げない。怖いから戦える。怖いから帰りたい。帰りたいから——引き金を引ける。
リーネの物語の集大成が、今日ここにある。
エルドは一人で南の防衛線を支えた。壁際で銃を撃ち続けた。弾が尽きかける。予備の弾倉を取る。最後の一つ。
周囲の兵士が次々と倒れていく。死者が増えていく。防衛線が薄くなっていく。
そして——後方から、報告が来た。
通信機から声が飛び込んできた。
「——後方避難区域に悪魔侵入! 搬送中の負傷者が——」
ヨナがいる場所。
エルドの体が反応した。だが——動けなかった。ここを離れたら南が崩れる。前回と同じ判断。前線か後方か。
通信機から続報が入った。
「——後方の兵士が応戦。負傷者を防護。——後方兵士一名、重傷」
エルドの心臓が跳ねた。
「——氏名、ヨナ——」
世界が、一瞬止まった。
ヨナが。また。また庇って。また傷ついて。
「——意識あり。搬送中。命に別状はないが、戦闘続行不能」
生きている。生きている。
エルドは通信機を握りしめた。息を吐いた。——生きている。
ヨナは——最後まで、ヨナだった。弱い体で。傷の癒えない体で。それでも誰かを守ろうとして。また傷ついた。
優しすぎる男は——最後まで、他人を想って倒れた。
「みんなを、頼むよ」。
ヨナの言葉が反響した。
エルドは銃を構え直した。撃った。一発。また一発。最後の弾倉。残り少ない。
——守る。
ヨナの分も。リーネの分も。アスカの分も。
この場所を——守る。
傲慢の悪魔が——園の外壁に到達した。
巨大な手が壁に触れた。壁が——砕けた。紙のように。石造りの分厚い壁が、触れただけで粉々になった。
傲慢が——園の中に、足を踏み入れた。
地面が陥没した。一歩で。建物が倒壊した。巨体が通過するだけで。
通常戦力では止められない。砲撃が放たれた。傲慢の体に着弾する。——傷一つつかない。弾かれる。溶ける。消える。
何もできない。人間には何もできない。
傲慢が——浮遊機構のある園の中央に向かって、歩き始めた。一歩。二歩。三歩。ゆっくりと。急ぐ必要がないことを知っている。誰にも止められないことを知っている。
アスカが——前線から戻ってきた。
エルドの傍に来た。大剣を握っている。全身に傷がある。戦闘服が裂けている。——でも、目は澄んでいた。
「……時間です」
アスカが言った。
エルドの全身が——凍りついた。
わかっていた。この瞬間が来ることは。覚悟していたはずだ。昨夜、二人で話した。手を握り合った。泣いた。全部——わかっていた。
わかっていたのに。
いざその瞬間が来ると——体が、動かない。
「……アスカ」
声が出た。掠れた声。
アスカがエルドを見た。
目が合った。
戦場の喧騒の中で。悲鳴と銃声と爆音の中で。二人だけの静寂が——一瞬、訪れた。
アスカの目に——全てがあった。
恐怖。覚悟。悲しみ。愛。全部が、あの目の中にあった。
「行かなきゃ。——今、行かないと。間に合わなくなる」
アスカの声は震えていなかった。——いや、震えを超えた場所にいた。
エルドは——
次の話で。次の話で、最後の言葉を交わす。今は——まだ。
まだ、この瞬間の中にいる。
傲慢の巨体が、園の市街地を踏み砕きながら進んでいる。
時間がない。
アスカが踵を返しかけた。
エルドの手が——アスカの腕を掴んだ。
反射だった。考えたわけではない。体が——離すなと叫んでいた。
アスカが振り返った。エルドの目を見た。
何も言えなかった。何を言えばいい。行くなと言えばいいのか。頑張れと言えばいいのか。ありがとうと言えばいいのか。どれも違う。どれも足りない。どれも——
エルドの口が開いた。何が出るかわからないまま。
——続きは、次の話で。
第七の園が、揺れている。傲慢が進んでいる。時間が、尽きようとしている。
この瞬間の先に——全てがある。
『最終防衛戦』 了




