選択
夜が来た。
戦闘は一時的に小康状態になっていた。悪魔の大軍は園の外縁部を包囲しているが、傲慢の悪魔はまだ動いていない。取り巻きの悪魔たちが散発的に壁を攻撃しているが、本格的な突入はまだだ。嵐の目の中にいるような——静けさ。
明日。
明日、傲慢が動く。上層部の分析では、傲慢の悪魔は夜明けとともに浮遊機構への直接進軍を開始する。それまでに——アスカが動かなければならない。
兵舎は騒然としていた。負傷者の手当て、弾薬の補充、壁の応急修理。眠る者はほとんどいない。明日が来ることを——恐れている者、覚悟している者、祈っている者。
エルドは詰所にいた。
一人だった。リーネは別の任務に回されていた。ヨナは後方の避難所で避難民の対応をしている。
詰所の窓から外を見た。南の空は黒い。悪魔の大軍が作る闇が、星を隠している。でも頭上には——まだ星が見えた。
足音が聞こえた。
ドアが開いた。アスカだった。
黒い戦闘服ではなく、制服姿。大剣は持っていない。髪が少し乱れている。——疲れている。今日一日、前線で戦い続けたのだから当然だ。
「……エルド」
敬称がなかった。昼間は「エルドさん」に戻していたのに。今は——「エルド」。仮面を被り直す余裕がないのか。それとも——最後の夜だから、もう仮面を被る必要がないと思ったのか。
「……話すって言った。全部」
アスカが詰所の椅子に座った。エルドの向かい側。いつもの配置ではない。向かい合って。目を合わせて。
「上層部からの命令は——明日の夜明け。傲慢が浮遊機構に向けて動き出したら、私が単身で最接近して、コアを暴走させる」
淡々と。事実を述べるように。でもその声の底に——震えの種がある。
「暴走には約三十秒かかります。その間、傲慢の攻撃に耐えなければならない。最接近して、三十秒間。——コアが臨界を超えたら、周囲数百メートルが消し飛びます。傲慢もろとも」
数百メートル。アスカを中心に。
「私も——消えます。跡形もなく」
跡形もなく。
墓もない。遺体もない。何も残らない。
エルドは——向かいの椅子で、拳を握りしめていた。膝の上で。白くなるほど。
「……他に方法はないのか」
昼間も聞いた。同じ質問。でも聞かずにはいられなかった。
「ありません。傲慢の悪魔は、通常兵器では傷すらつけられません。上位個体の中でも別格です。——園の砲台を全て集中させても、表面を焦がすのが精一杯だと」
アスカの声は冷静だった。データを読み上げるような声。
「コアの暴走による爆発は——次元が違います。私のコアには、園の浮遊機構を動かせるほどのエネルギーが蓄積されています。それを一瞬で解放すれば——傲慢でも耐えられない」
理屈は通っている。合理的だ。最も効率的な方法。一つの機械兵の喪失で、園と園の住民全てを守れる。コストとリターン。計算は明確だ。
——計算。
エルドの中で、何かが燃えた。
「計算の話をしてるんじゃない」
声が荒かった。自分の声が荒いことに、エルドは驚かない。もう驚かない。数ヶ月前のエルドなら声を荒げることすらなかった。今は——荒げずにはいられない。
「お前が死ぬ話をしてるんだ」
アスカが——目を伏せた。
「……わかっています」
「わかってない」
エルドが立ち上がった。椅子が後ろに倒れた。
「お前は三日前に『死にたくない』と言った。『幸せだ』と言った。『帰りたい場所がある』と言った。——それを全部捨てて死ぬのか」
声が震えていた。怒りなのか悲しみなのか恐怖なのか。全部だ。全部が混ざって、声に出ている。
「捨てるんじゃない。——守るんです」
アスカが顔を上げた。目がまっすぐにエルドを捉えていた。
「この園が落ちたら——全部終わります。リーネの家族も。ヨナも。園の人たちも。——エルドも。全員、死にます。私が動かなければ」
「俺はいい。俺が死ぬのは——」
「よくない!」
アスカの声が——跳ねた。
詰所の空気が震えた。アスカが——叫んだ。今まで聞いたことのない声量で。
「よくないです。エルドが死ぬのは、よくない。——絶対に」
アスカの目に涙が溜まっていた。でも流れていない。堪えている。
「私は——三日前に言いました。死にたくないって。本当です。死にたくない。ここにいたい。エルドの隣にいたい。パンを食べたい。夕焼けを見たい。——全部、本当です」
声が震え始めた。堪えきれなくなっている。
「でも——エルドがいる場所を、守りたい。リーネが帰る場所を、守りたい。ヨナが笑っていられる場所を、守りたい。守りたいものができたから——だから私は、行ける」
涙が——こぼれた。一筋。頬を伝った。
「使命だからじゃないんです。命令だからでもない。——守りたいから。自分の意志で。初めて——自分で選ぶんです。何のために作られたかなんて関係ない。私が——私の意志で、守りたいと思ったから」
アスカの声が——裂けた。仮面が完全に砕けた。最初からずっと被っていた「平気です」が、「大丈夫です」が、「問題ありません」が——全部、砕け散った。
「怖いよ」
小さな声だった。子供のような声だった。
「怖い。本当は——ずっと怖かった。壊れるのが怖かった。消えるのが怖かった。でも認めたら——自分が何なのかわからなくなるから。怖いって言ったら、平気じゃないって認めたら、もう戦えなくなるかもしれないから——」
涙が止まらなかった。
「でも今は——怖いって言える。リーネが教えてくれた。怖いから戦える。帰りたい場所があるから、戦えるって」
アスカが——笑った。泣きながら。涙を流しながら。
「帰りたいよ。ここに帰りたい。エルドの隣に帰りたい。——帰りたいから、行ける」
矛盾だ。帰りたいから行く。生きたいから死ぬ。守りたいから消える。全部が矛盾だ。でもその矛盾の中に——アスカの全てがあった。
エルドは——立ち尽くしていた。
言葉がなかった。何を言えばいい。「行くな」と言えばいいのか。言ったところで——アスカは行くだろう。行かなければ園が落ちる。全員が死ぬ。わかっている。わかっているのに——
「行くな」
声が出た。
わかっていても。理屈をわかっていても。他に方法がないと知っていても。
「行くな。頼む」
エルドの声は——もう、平坦ではなかった。
震えていた。掠れていた。割れていた。五歳で全てを閉じた男の声が、今——全部を開いて、叫んでいた。
「お前がいない世界で——俺はどうすればいい」
その問いは——答えのない問いだった。答えを求めているのではなかった。ただ——溢れ出たのだ。胸の中の、制御できないものが。
アスカが——エルドの前に立った。
手を伸ばした。エルドの頬に——触れた。
温かかった。あの夜、エルドがアスカの涙を拭ったときと同じ。今度は逆だ。アスカの手が、エルドの頬に。
エルドの目から——涙が落ちた。今日、二度目の涙。五歳から泣かなかった男が、今日だけで二度。
「……泣いてる」
アスカが呟いた。エルドの涙を指で拭いながら。
「エルドが、泣いてる」
その声は——温かかった。悲しいのに。怖いのに。明日死ぬかもしれないのに。エルドの涙を見て——アスカの声は、温かかった。
「……ごめんね」
アスカが言った。
「ごめんね。泣かせて。——でも」
アスカの手がエルドの頬から離れなかった。
「泣けるようになって、よかった。エルドが——泣けるようになったこと、嬉しい。変だよね。泣かせておいて、嬉しいなんて」
変だ。変だけど——わかった。
泣けるということは、感じているということだ。失うことが怖いと感じているということだ。大事なものがあると感じているということだ。
空っぽだった男が——空っぽではなくなった。
それは——アスカが残したものだ。
「……エルド」
アスカの声が静かになった。涙が止まっていた。目はまだ赤い。でも——目の奥に、光があった。
「私は——怖いです。本当に。怖い。死にたくない。消えたくない。あなたの隣にいたい」
一語一語が、重かった。
「でも——あなたがいる場所を、守りたい。あなたが明日も朝を迎えて、パンを食べて、リーネにうるさいって言って、ヨナの花に水やるのを見て——生きていてほしい。それが——私にとっての、幸せだから」
アスカが——微笑んだ。
泣き跡の残る顔で。赤い目で。でも——その笑顔は。
今まで見たどの笑顔よりも——
綺麗だった。
「守りたいものができたから——だから、私は行ける。怖くても。死にたくなくても。——あなたに会えて、こう思えるようになったから。だから——」
アスカの声が——かすれた。
「——だから、ありがとう。全部」
エルドは——アスカを見ていた。
涙で滲んだ視界の中で。アスカの笑顔だけが鮮明だった。白い髪。赤い目。微笑む唇。温かい手。
止められない。
わかっている。止められない。アスカが行かなければ、全員が死ぬ。この園が落ちる。リーネの弟が死ぬ。ヨナが死ぬ。園の人々が死ぬ。
アスカの決断は——正しい。
正しくて——残酷だ。
「……俺には——止める力がない」
エルドの声は枯れていた。
「銃しか持ってない。あの化け物の前では何もできない。お前の代わりに死ぬことすらできない。——何も、できない」
アスカが首を振った。
「何もできなくない。エルドは——私を変えてくれた。空っぽだった私に、全部をくれた。怖いって思えるようになったのも。死にたくないって思えるようになったのも。泣けるようになったのも。全部——エルドがくれた」
アスカがエルドの手を取った。両手で。握りしめた。
「だから——生きて。私の代わりに。私が守った場所で。私が見たかった朝を。私が食べたかったパンを。私が見たかった夕焼けを。——全部、エルドが見て」
エルドの手が——アスカの手を握り返した。強く。離したくなかった。この手を離したら——もう二度と、触れられない。
「……嫌だ」
子供のような声が出た。五歳の自分が言っているような声。
「嫌だ。お前がいない世界で——夕焼けなんか見たくない。パンなんか食いたくない。——お前がいないなら——」
「いるよ」
アスカが遮った。
「いなくならない。——体は消えても。コアが壊れても。私が感じたこと、私が見たもの、私が幸せだったこと——全部、エルドの中に残る。エルドが覚えていてくれる限り、私はいなくならない」
その言葉が——エルドの胸を突き刺した。
綺麗な言葉だ。優しい言葉だ。でも——嘘だ。嘘ではないが——残酷だ。記憶は温もりではない。思い出は抱き返してくれない。
でも——それしかない。
それしかないことを、エルドは知っている。五歳で学んだ。全てを失ったあと、残るのは記憶だけだと。スープの匂い。兄の笑顔。母の声。——それだけが残って、十数年を生きてきた。
今度もまた——そうなるのか。
アスカの笑顔を。アスカの声を。アスカの涙を。記憶だけを抱えて——生きていくのか。
「……約束して」
エルドが言った。
「何を」
「最後まで——笑うな。平気なふりをするな。怖いなら怖いと言え。痛いなら痛いと言え。——嘘をつくな。最後くらい」
アスカが——目を見開いた。
それから——笑った。あの笑顔ではなく。仮面ではなく。泣きながらの、不格好な、歪んだ、でも温かい笑顔。
「……うん。約束する」
二人は向かい合ったまま、手を握り合っていた。
詰所の窓から月光が差し込んでいる。窓辺にはヨナの鉢植えの花が咲いている。名前のない白い花。暗い部屋の中で、月光を浴びて、静かに咲いている。
時間が流れた。
二人は多くを語らなかった。言葉は——もう十分だった。ただ手を握り合って、同じ空間にいた。互いの温度を感じていた。呼吸の音を聞いていた。
時折、アスカが何かを呟いた。
「……焼き菓子、おいしかったな」
「展望広場の夕焼け、きれいだったな」
「リーネの弟さんの話、もっと聞きたかったな」
「ヨナの花、名前見つかるといいな」
一つ一つが——別れの言葉だった。別れの言葉に見せない別れの言葉。大事だったものを一つずつ数えている。指折り数えるように。全部を覚えておくために。
エルドは黙って聞いていた。聞きながら——一つ一つを、自分の中に刻んでいた。アスカが大事だったもの。アスカが好きだったもの。アスカが幸せだったもの。全部を。
夜が深まっていく。月が傾いていく。
やがて——アスカの声が途切れた。静かになった。
エルドがアスカを見ると——アスカの目が閉じかけていた。疲労が限界に達している。今日一日、前線で戦い続けた体。機械とはいえ、消耗はある。
「……寝ろ」
エルドが言った。
「……でも——」
「明日のために。——休め」
アスカは少し迷って——頷いた。
椅子から立ち上がりかけて——止まった。
「……エルド」
「何だ」
「手——離したくない」
小さな声。子供のような声。兵器と呼ばれた存在が。最強と呼ばれた存在が。手を離したくないと。
エルドは——手を離さなかった。
椅子を引き寄せた。アスカの隣に。手を握ったまま。
「……離さない。朝まで」
アスカが——微笑んだ。あの笑顔で。温かい笑顔で。
「……ありがとう」
アスカの目が閉じていった。呼吸が穏やかになっていく。意識が沈んでいく。
機械兵にも眠りがあるのだろうか。あるのだ。——少なくとも、アスカには。
エルドはアスカの手を握ったまま、暗い詰所に座っていた。
眠れなかった。眠るつもりもなかった。
この手の温もりを——一秒でも長く、感じていたかった。
窓の外で夜が過ぎていく。星が動いていく。月が沈んでいく。
ヨナの花が、窓辺で静かに咲いている。名前のない花。暗闇の中で、それでも咲いている。
アスカの寝顔を見ていた。穏やかだった。仮面のない顔。何も被っていない、素のアスカの顔。
——綺麗だった。
この顔を——もう見られなくなる。
この手を——もう握れなくなる。
この声を——もう聞けなくなる。
エルドの目から涙が落ちた。音もなく。アスカを起こさないように。静かに。
泣きながら——エルドは、アスカの手を握り続けた。朝が来るまで。
最後の夜が——過ぎていく。
東の空が——白み始めていた。
『選択』 了




