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崩落のエデン  作者: だんご


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20/25

傲慢

 幸福は、三日で終わった。


 三日間。たった三日間だった。エルドとアスカが想いを確かめ合ってから、世界が壊れ始めるまでの時間。


 三日目の朝、空気が変わった。


 エルドは眠りの中でそれを感じた。天空都市の風の温度が変わった。いつもの冷たい風ではない。重い。熱い。地上から吹き上げてくる風。——あの日と同じだ。第一話の防衛戦の直前と同じ。悪魔が昇ってくるときの風。


 だが、今回は規模が違った。


 サイレンではなく、鐘が鳴った。


 第七の園の中央塔にある、非常時のみ使用される大鐘。エルドが第七の園に来てから、一度も鳴ったことがない鐘。その鐘が——鳴った。


 低く、重く、園全体を揺るがすような音。一度。二度。三度。鳴り止まない。


 エルドは跳ね起きた。ヨナも目を覚ましていた。顔が青い。


「……エルドさん、この鐘——」

「知ってる。園の最高警戒だ」


 装備を掴んで部屋を出た。廊下が既に混乱していた。走る兵士たち。叫び声。指示を飛ばす士官。全てが——今までとは桁が違う緊迫感に包まれている。


 詰所に着いた。リーネが既にいた。完全武装。顔が強張っている。でも目は据わっている。


「来た」


 リーネが一言だけ言った。


「何が来た」

「全部」


 リーネが窓を指差した。


 エルドは窓に駆け寄った。南の空を見た。


 ——黒かった。


 空が黒い。雲ではない。今までの襲撃で見た悪魔の群れとも違う。空そのものが黒く染まっている。地平線の端から端まで——いや、地平線という概念が消えている。下方の雲海から、黒い柱のようなものが昇ってきている。無数の柱。それが合流し、広がり、空を覆い尽くそうとしている。


 その中心に——何かがいた。


 遠い。まだ園には到達していない。だが——存在感が、距離を超えて届いてくる。圧。重力のような。空気が歪むほどの。


「七大罪最上位——『傲慢』」


 リーネの声が硬かった。


「上層部からの緊急通達。傲慢の悪魔が、大軍を率いて第七の園に向かっている。到達予想は——今日中」


 傲慢。七大罪の頂点。単体で園を落とせるほどの力を持つ存在。それが大軍を従えて、ここに来る。


「……ヨナは」

「後方に下げる。戦闘はまだ無理だ。——避難誘導の手伝いに回す」


 リーネの判断は的確だった。ヨナの傷はまだ完治していない。前線に出せば死ぬ。


「私は——」


 リーネの声が、一瞬だけ揺れた。


「家族を避難させてくる。三十分で戻る」


 リーネが詰所を出ていった。走る足音が廊下に響く。


 エルドは窓の外を見ていた。黒い空。あの中心にいるもの。傲慢の悪魔。


 ——これが、終わりの始まりだ。


 直感ではなく、確信だった。今までの襲撃とは次元が違う。偵察でも小競り合いでもない。園を落としに来ている。本気で。


 アスカが——まだ来ない。


 いつもなら、この時間には詰所にいるはずだ。アスカが遅れることは珍しい。


 十分が経った。二十分。リーネが戻ってきた。息を切らしている。


「家族は避難船の乗り場に向かわせた。弟が泣いてた。——大丈夫、必ず帰るからって言ったら、信じてくれた」


 リーネの声は平坦だった。感情を押し殺している。弟の泣き顔が——リーネの中で、最も大事なものの象徴だ。それを見送ってきた。


「アスカは?」

「来てない」

「……遅いね」


 ヨナが松葉杖なしで詰所に来た。まだ少し足を引きずっているが、歩ける。


「ヨナ、あんたは後方——」

「わかってます。避難誘導に行きます。でもその前に——みんなの顔、見たかったから」


 ヨナが三人を見回した。リーネ。エルド。——アスカの席は空だ。


「アスカさん——来てないんですか」

「もうすぐ来るだろう」


 エルドが言った。自分に言い聞かせるように。


 三十分が経った。


 アスカが来ない。


 園全体が戦時体制に移行していた。防衛部隊が外縁部に展開している。住民の避難が始まっている。子供を抱えた母親が走っている。老人が荷物を引きずっている。兵士たちが避難経路を確保している。


 エルドの中に、不安が芽生えていた。不安という感情を——つい数ヶ月前まで知らなかった。今は知っている。胸の奥が冷たくなる感覚。手の先が痺れる感覚。


 ——アスカはどこだ。


 詰所のドアが開いた。


 アスカだった。


 黒い戦闘服。大剣を背負っている。いつもの姿。いつもの——


 ——違った。


 エルドは一目でわかった。何かが違う。アスカの表情が。目が。空気が。


 アスカは笑っていなかった。いつもの穏やかな笑顔がなかった。仮面すらなかった。無表情だった。——いや。無表情を装おうとして、失敗している顔だった。


「……遅くなりました」


 声は平坦だった。平坦すぎた。感情を全て削ぎ落とした声。


「どこに行ってた」


 エルドが聞いた。


「……上層部に、呼ばれていました」


 その言葉に——エルドの胸の中で、何かが軋んだ。


 上層部。軍の最高意思決定機関。アスカが上層部に呼ばれる理由は——一つしかない。最強の兵器としての運用。


「何を言われた」


 エルドの声が——鋭くなった。自分でも驚くほど。


 アスカはエルドを見た。目が合った。


 アスカの目に——何かがあった。言いたいことがある。言えないことがある。苦しそうな——でも、決意のような何か。


「……あとで、話します。今は——戦闘の準備を」


 アスカはそれだけ言って、自分の席に向かった。装備を確認する手が——いつも通りに動いている。正確に、精密に。


 でもエルドは見ていた。


 アスカの手が——震えていた。


 微かに。ほんの微かに。いつもは揺らぐことのない、機械の精密さを持つその手が。


 震えている。


 リーネもそれに気づいた。エルドと目が合った。リーネの目が——「何かある」と言っていた。


 だが今は聞けない。戦闘が迫っている。時間がない。


「第三班、南外縁部に展開! 急げ!」


 班長の命令が飛んだ。四人が動く。——三人が前線に。ヨナは後方へ。


 詰所を出る直前、ヨナがエルドの袖を掴んだ。


「エルドさん」


 ヨナの目は真剣だった。


「……みんなを、頼むよ」


 その言葉の重さを——エルドは受け取った。


「ああ」


 短い返事。でもそこに、全てが込められていた。


 兵舎を出た。空が——さらに黒くなっていた。


 南の空に、黒い壁が迫っている。悪魔の大軍。その規模は——エルドがこれまで見たどの襲撃よりも大きかった。十倍。百倍。数の概念が意味をなさないほどの。


 そしてその中心に——「傲慢」がいる。


 まだ姿は見えない。だが存在感だけが届いている。空気が歪む。重力が変わる。園の外縁部に立っているだけで、体が重い。呼吸が浅くなる。


 ——これと、戦うのか。


 周囲の兵士たちの顔に、絶望が浮かんでいた。顔色を失っている者。銃を持つ手が震えている者。祈りの言葉を呟いている者。


 リーネは——怖い顔をしていた。怖くて、でも逃げない顔。いつものリーネだ。いつも通りだ。怖くても戦う。怖いから帰りたいと思える。帰りたいから引き金が引ける。


「リーネ」


 エルドが呼んだ。


「何」

「帰れよ。弟のところに」

「……帰るよ。絶対。——あんたもね」


 リーネがエルドを見た。その目に——覚悟があった。生きて帰る、という覚悟。


 アスカが——前線の最前部に立っていた。大剣を抜いている。黒い空を見上げている。白い髪が風に靡いている。


 その背中が——


 重かった。


 前にも感じた。アスカの背中が重そうに見えることが。でも今日は——比較にならなかった。あの背中に何かが乗っている。見えない荷物。押し潰すような重さ。


 エルドはアスカの傍に行った。


「アスカ」


 アスカが振り返った。目が——


 エルドは息を呑んだ。


 三日前の夜、「幸せです」と泣きながら笑ったあの目。温かくて、柔らかくて、光に満ちていたあの目。


 今の目は——その全てを押し込めたような目だった。感情がないのではない。感情がありすぎて、押し殺している目。


「……大丈夫です」


 アスカが笑った。


 ——仮面だった。


 あの笑顔。最初から見てきた、穏やかで、丁寧で、少しだけ距離のある笑顔。もう外れかけていたはずの仮面が——また、貼り直されていた。


 エルドの中で、何かが叫んだ。違う。大丈夫じゃない。お前は大丈夫じゃない。何があった。上層部に何を言われた。なぜ手が震えている。なぜ仮面を戻した。


 ——聞きたかった。今すぐ。


 だが——鐘が鳴った。大鐘が、再び。


「——来る」


 誰かが叫んだ。


 南の空の黒い壁が——動いた。


 悪魔の大軍が、第七の園に向かって進撃を開始した。


 黒い波が、空を渡って押し寄せてくる。翼を持つもの。這い上がってくるもの。跳躍するもの。人の形をしたもの。獣の形をしたもの。無数の悪魔が——津波のように。


「——全防衛部隊、迎撃開始!」


 隊長の絶叫。


 一斉射撃が始まった。銃声が園全体を包み込む。弾丸が黒い波に飲み込まれていく。一体を倒しても十体が来る。十体を倒しても百体が来る。


 アスカが飛び出した。大剣を振るい、前線に突っ込んでいく。圧倒的な力で悪魔を薙ぎ払う。一撃で三体。回転斬りで五体。跳躍して空中の飛行個体を斬り落とす。


 美しかった。力強かった。——でも、足りなかった。


 数が多すぎる。アスカ一人では——全部は守れない。


 壁が次々と破壊されていく。悪魔が市街地に侵入する。防衛部隊が各所で応戦する。死者が出る。悲鳴が上がる。建物が崩れる。


 エルドとリーネは壁際で射撃を続けた。弾倉を替える。撃つ。替える。撃つ。指が痛い。肩が痛い。腕が重い。でも止められない。


「エルド! 右から大型!」


 リーネの声。右を見る。壁を突き破って大型の悪魔が侵入してきた。憤怒の分類。最初の防衛戦で見たものと同型。


 エルドは撃った。弾丸は鱗に弾かれる。通じない。


 アスカが——来た。大型個体の前に飛び込み、大剣で一刀両断した。いつもの圧倒的な一撃。


 だがその直後、アスカの背後からもう一体の大型個体が来た。アスカが振り返る——間に合わない。


 エルドが叫んだ。


「アスカ、後ろ!」


 アスカが身を捻った。爪が戦闘服を掠める。浅い傷。致命的ではない。アスカが反撃し、大型個体を斬り伏せる。


 二体を倒した。だがその間に、別の箇所から悪魔が侵入している。守りきれない。全てを守ることはできない。


 戦闘は何時間も続いた。


 日が傾き始めた。防衛部隊は疲弊している。弾薬が尽きかけている。死者の数が増えていく。


 そして——「傲慢」が、動いた。


 南の空の、黒い壁の中心から——一つの存在が、姿を現した。


 巨大だった。


 体長は——二十メートルを超えていた。今まで見たどの悪魔よりも大きい。人型。二本の脚で立ち、二本の腕を持つ。体表は漆黒で、金色の紋様が全身に走っている。顔は——王冠を被った人間のような顔。だが目が十二あり、その全てが金色に輝いている。


 傲慢。七大罪の頂点。全てを見下す存在。全てを踏みにじる存在。


 その存在が一歩踏み出すたびに、空気が震えた。悪魔の大軍が道を開ける。王の行進のように。


 傲慢の悪魔は——まっすぐに、園の中央に向かっていた。


 園の浮遊機構。園を空に留めている核。地下深くにある装置。それを——破壊しに来ている。浮遊機構が壊れれば、園は落ちる。第三の園と同じように。第九の園と同じように。


「浮遊機構を守れ! 『傲慢』を止めろ!」


 隊長の絶叫。だが——誰が止められる。あの巨大な存在を。銃弾は通じない。砲撃も試みたが、傲慢の体表は全ての攻撃を弾いた。


 通常戦力では——止められない。


 アスカが前線から戻ってきた。エルドとリーネの傍に来た。


 その目が——決意の色をしていた。


「……エルド。リーネ」


 アスカの声は静かだった。戦場の喧騒の中で、不思議なほど鮮明に聞こえた。


「話があります。——今朝、上層部から受けた命令のことです」


 エルドの心臓が——跳ねた。


「傲慢の悪魔を止める方法が——一つだけ、あります」


 アスカは淡々と言った。


「私のコアを——暴走させることです」


 時間が止まった。


 エルドの中で。リーネの中で。世界が一瞬、静止した。


「コアを暴走させれば、膨大なエネルギーが解放されます。傲慢の悪魔に最接近して暴走させれば——相手もろとも、消滅できます」


 消滅。


「コアの暴走は不可逆です。——つまり」


 アスカの声が——一瞬、途切れた。


「……私は、死にます」


 その言葉が——夕暮れの戦場に、落ちた。


 エルドの体が凍った。


 文字通り。動けなかった。呼吸が止まった。心臓が止まった——ように感じた。実際には動いている。動いているのに、止まっている。


 死ぬ。アスカが。死ぬ。消滅する。コアを暴走させて。不可逆。修理できない。直せない。


 ——消える。


 三日前に「幸せです」と泣いた人が。「エルド」と名前を呼んだ人が。パンを食べて「おいしい」と笑った人が。花を「かわいそう」と言った人が。「死にたくない」と夜の空の下で告白した人が。


 消える。


「——ふざけるな」


 エルドの口から、声が出た。


 自分でも聞いたことのない声だった。低くて、熱くて、震えていて。


 アスカが——エルドを見た。


 エルドの顔が——凍りついている。怒りなのか恐怖なのか絶望なのか、自分でもわからない。全部が混ざって、顔面に出ている。何も感じないはずだった男の顔に、今、全ての感情が押し寄せている。


「他の方法を探せ。——お前が死ぬ必要はない」

「ありません。他の方法は。上層部も検討しました。通常戦力では傲慢は止められない。コアの暴走だけが——」

「俺が——」


 エルドが言いかけた。俺が何だ。俺に何ができる。銃を持った一兵卒に。あの巨大な存在の前では塵のような人間に。何が——


「エルドさん」


 アスカの声が——静かだった。


 「エルドさん」。敬称が戻っていた。距離を置こうとしている。これ以上近づいたら、離れられなくなるから。


「これは——私にしかできないことです」


 その声は——震えていなかった。


 いや。震えを、止めていた。手は震えている。声は止めた。仮面を被った。最初のころと同じ仮面を。「平気です」の仮面を。


 でもエルドは知っている。その仮面の下に何があるか。「死にたくない」がある。「怖い」がある。「幸せです」がある。「帰りたい場所がある」がある。


 全部がある。全部があるのに——死にに行くと言っている。


 リーネが——黙っていた。


 一言も発さず、立ち尽くしていた。顔が白かった。唇が震えていた。リーネの目に——涙が溜まっていた。


 戦場の音が遠くなった。銃声も爆音も悲鳴も——全部が遠くなった。三人だけの空間が、そこにあった。


 アスカが二人を見た。


「……今すぐではありません。傲慢が浮遊機構に到達する前に——最接近する必要があります。時間は——まだ、少しあります」


 少し。


 少しの時間。


 それが全てだった。残された時間の全て。


 アスカが微笑んだ。あの仮面の笑顔で。でも——その下から、何かが滲んでいた。涙ではない。もっと深い何か。覚悟と悲しみと愛情が混ざった、名前のない感情。


「……あとで——ちゃんと、話します。全部」


 アスカはそう言って、前線に戻っていった。


 戦闘はまだ続いている。傲慢の悪魔はまだ園の外にいる。取り巻きの大軍と戦わなければならない。まだ時間がある。


 まだ——少しだけ。


 エルドは立ち尽くしていた。


 銃を握る手が——震えていた。ヨナの血で染まった手が。アスカの涙を拭った手が。


 ——守りたかった。


 守りたかったのに。何かを大事に思えるようになったのに。失いたくないと思えるようになったのに。


 守れない。


 力が足りない。自分は——ただの人間だ。銃を持っただけの一兵卒だ。あの巨大な悪魔の前では何もできない。アスカの代わりに死ぬことすらできない。


 守りたいのに——守れない。


 その絶望が——エルドの中を、黒く塗りつぶしていった。


「——エルド」


 リーネの声が聞こえた。


 振り返った。リーネは泣いていた。涙を流しながら、銃を握っていた。


「戦え。——まだ終わってない」


 リーネの声は震えていた。でも——立っていた。泣きながら、震えながら、立っていた。


 エルドは——銃を握り直した。


 まだ終わっていない。まだ時間がある。少しだけ。


 少しだけの時間の中で——できることをするしかない。


 エルドは前線に戻った。銃を構えた。引き金を引いた。


 撃ちながら——泣いていた。


 自分が泣いていることに——気づいたのは、頬を涙が伝ったときだった。


 五歳以来、初めての涙だった。


『傲慢』 了

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