傲慢
幸福は、三日で終わった。
三日間。たった三日間だった。エルドとアスカが想いを確かめ合ってから、世界が壊れ始めるまでの時間。
三日目の朝、空気が変わった。
エルドは眠りの中でそれを感じた。天空都市の風の温度が変わった。いつもの冷たい風ではない。重い。熱い。地上から吹き上げてくる風。——あの日と同じだ。第一話の防衛戦の直前と同じ。悪魔が昇ってくるときの風。
だが、今回は規模が違った。
サイレンではなく、鐘が鳴った。
第七の園の中央塔にある、非常時のみ使用される大鐘。エルドが第七の園に来てから、一度も鳴ったことがない鐘。その鐘が——鳴った。
低く、重く、園全体を揺るがすような音。一度。二度。三度。鳴り止まない。
エルドは跳ね起きた。ヨナも目を覚ましていた。顔が青い。
「……エルドさん、この鐘——」
「知ってる。園の最高警戒だ」
装備を掴んで部屋を出た。廊下が既に混乱していた。走る兵士たち。叫び声。指示を飛ばす士官。全てが——今までとは桁が違う緊迫感に包まれている。
詰所に着いた。リーネが既にいた。完全武装。顔が強張っている。でも目は据わっている。
「来た」
リーネが一言だけ言った。
「何が来た」
「全部」
リーネが窓を指差した。
エルドは窓に駆け寄った。南の空を見た。
——黒かった。
空が黒い。雲ではない。今までの襲撃で見た悪魔の群れとも違う。空そのものが黒く染まっている。地平線の端から端まで——いや、地平線という概念が消えている。下方の雲海から、黒い柱のようなものが昇ってきている。無数の柱。それが合流し、広がり、空を覆い尽くそうとしている。
その中心に——何かがいた。
遠い。まだ園には到達していない。だが——存在感が、距離を超えて届いてくる。圧。重力のような。空気が歪むほどの。
「七大罪最上位——『傲慢』」
リーネの声が硬かった。
「上層部からの緊急通達。傲慢の悪魔が、大軍を率いて第七の園に向かっている。到達予想は——今日中」
傲慢。七大罪の頂点。単体で園を落とせるほどの力を持つ存在。それが大軍を従えて、ここに来る。
「……ヨナは」
「後方に下げる。戦闘はまだ無理だ。——避難誘導の手伝いに回す」
リーネの判断は的確だった。ヨナの傷はまだ完治していない。前線に出せば死ぬ。
「私は——」
リーネの声が、一瞬だけ揺れた。
「家族を避難させてくる。三十分で戻る」
リーネが詰所を出ていった。走る足音が廊下に響く。
エルドは窓の外を見ていた。黒い空。あの中心にいるもの。傲慢の悪魔。
——これが、終わりの始まりだ。
直感ではなく、確信だった。今までの襲撃とは次元が違う。偵察でも小競り合いでもない。園を落としに来ている。本気で。
アスカが——まだ来ない。
いつもなら、この時間には詰所にいるはずだ。アスカが遅れることは珍しい。
十分が経った。二十分。リーネが戻ってきた。息を切らしている。
「家族は避難船の乗り場に向かわせた。弟が泣いてた。——大丈夫、必ず帰るからって言ったら、信じてくれた」
リーネの声は平坦だった。感情を押し殺している。弟の泣き顔が——リーネの中で、最も大事なものの象徴だ。それを見送ってきた。
「アスカは?」
「来てない」
「……遅いね」
ヨナが松葉杖なしで詰所に来た。まだ少し足を引きずっているが、歩ける。
「ヨナ、あんたは後方——」
「わかってます。避難誘導に行きます。でもその前に——みんなの顔、見たかったから」
ヨナが三人を見回した。リーネ。エルド。——アスカの席は空だ。
「アスカさん——来てないんですか」
「もうすぐ来るだろう」
エルドが言った。自分に言い聞かせるように。
三十分が経った。
アスカが来ない。
園全体が戦時体制に移行していた。防衛部隊が外縁部に展開している。住民の避難が始まっている。子供を抱えた母親が走っている。老人が荷物を引きずっている。兵士たちが避難経路を確保している。
エルドの中に、不安が芽生えていた。不安という感情を——つい数ヶ月前まで知らなかった。今は知っている。胸の奥が冷たくなる感覚。手の先が痺れる感覚。
——アスカはどこだ。
詰所のドアが開いた。
アスカだった。
黒い戦闘服。大剣を背負っている。いつもの姿。いつもの——
——違った。
エルドは一目でわかった。何かが違う。アスカの表情が。目が。空気が。
アスカは笑っていなかった。いつもの穏やかな笑顔がなかった。仮面すらなかった。無表情だった。——いや。無表情を装おうとして、失敗している顔だった。
「……遅くなりました」
声は平坦だった。平坦すぎた。感情を全て削ぎ落とした声。
「どこに行ってた」
エルドが聞いた。
「……上層部に、呼ばれていました」
その言葉に——エルドの胸の中で、何かが軋んだ。
上層部。軍の最高意思決定機関。アスカが上層部に呼ばれる理由は——一つしかない。最強の兵器としての運用。
「何を言われた」
エルドの声が——鋭くなった。自分でも驚くほど。
アスカはエルドを見た。目が合った。
アスカの目に——何かがあった。言いたいことがある。言えないことがある。苦しそうな——でも、決意のような何か。
「……あとで、話します。今は——戦闘の準備を」
アスカはそれだけ言って、自分の席に向かった。装備を確認する手が——いつも通りに動いている。正確に、精密に。
でもエルドは見ていた。
アスカの手が——震えていた。
微かに。ほんの微かに。いつもは揺らぐことのない、機械の精密さを持つその手が。
震えている。
リーネもそれに気づいた。エルドと目が合った。リーネの目が——「何かある」と言っていた。
だが今は聞けない。戦闘が迫っている。時間がない。
「第三班、南外縁部に展開! 急げ!」
班長の命令が飛んだ。四人が動く。——三人が前線に。ヨナは後方へ。
詰所を出る直前、ヨナがエルドの袖を掴んだ。
「エルドさん」
ヨナの目は真剣だった。
「……みんなを、頼むよ」
その言葉の重さを——エルドは受け取った。
「ああ」
短い返事。でもそこに、全てが込められていた。
兵舎を出た。空が——さらに黒くなっていた。
南の空に、黒い壁が迫っている。悪魔の大軍。その規模は——エルドがこれまで見たどの襲撃よりも大きかった。十倍。百倍。数の概念が意味をなさないほどの。
そしてその中心に——「傲慢」がいる。
まだ姿は見えない。だが存在感だけが届いている。空気が歪む。重力が変わる。園の外縁部に立っているだけで、体が重い。呼吸が浅くなる。
——これと、戦うのか。
周囲の兵士たちの顔に、絶望が浮かんでいた。顔色を失っている者。銃を持つ手が震えている者。祈りの言葉を呟いている者。
リーネは——怖い顔をしていた。怖くて、でも逃げない顔。いつものリーネだ。いつも通りだ。怖くても戦う。怖いから帰りたいと思える。帰りたいから引き金が引ける。
「リーネ」
エルドが呼んだ。
「何」
「帰れよ。弟のところに」
「……帰るよ。絶対。——あんたもね」
リーネがエルドを見た。その目に——覚悟があった。生きて帰る、という覚悟。
アスカが——前線の最前部に立っていた。大剣を抜いている。黒い空を見上げている。白い髪が風に靡いている。
その背中が——
重かった。
前にも感じた。アスカの背中が重そうに見えることが。でも今日は——比較にならなかった。あの背中に何かが乗っている。見えない荷物。押し潰すような重さ。
エルドはアスカの傍に行った。
「アスカ」
アスカが振り返った。目が——
エルドは息を呑んだ。
三日前の夜、「幸せです」と泣きながら笑ったあの目。温かくて、柔らかくて、光に満ちていたあの目。
今の目は——その全てを押し込めたような目だった。感情がないのではない。感情がありすぎて、押し殺している目。
「……大丈夫です」
アスカが笑った。
——仮面だった。
あの笑顔。最初から見てきた、穏やかで、丁寧で、少しだけ距離のある笑顔。もう外れかけていたはずの仮面が——また、貼り直されていた。
エルドの中で、何かが叫んだ。違う。大丈夫じゃない。お前は大丈夫じゃない。何があった。上層部に何を言われた。なぜ手が震えている。なぜ仮面を戻した。
——聞きたかった。今すぐ。
だが——鐘が鳴った。大鐘が、再び。
「——来る」
誰かが叫んだ。
南の空の黒い壁が——動いた。
悪魔の大軍が、第七の園に向かって進撃を開始した。
黒い波が、空を渡って押し寄せてくる。翼を持つもの。這い上がってくるもの。跳躍するもの。人の形をしたもの。獣の形をしたもの。無数の悪魔が——津波のように。
「——全防衛部隊、迎撃開始!」
隊長の絶叫。
一斉射撃が始まった。銃声が園全体を包み込む。弾丸が黒い波に飲み込まれていく。一体を倒しても十体が来る。十体を倒しても百体が来る。
アスカが飛び出した。大剣を振るい、前線に突っ込んでいく。圧倒的な力で悪魔を薙ぎ払う。一撃で三体。回転斬りで五体。跳躍して空中の飛行個体を斬り落とす。
美しかった。力強かった。——でも、足りなかった。
数が多すぎる。アスカ一人では——全部は守れない。
壁が次々と破壊されていく。悪魔が市街地に侵入する。防衛部隊が各所で応戦する。死者が出る。悲鳴が上がる。建物が崩れる。
エルドとリーネは壁際で射撃を続けた。弾倉を替える。撃つ。替える。撃つ。指が痛い。肩が痛い。腕が重い。でも止められない。
「エルド! 右から大型!」
リーネの声。右を見る。壁を突き破って大型の悪魔が侵入してきた。憤怒の分類。最初の防衛戦で見たものと同型。
エルドは撃った。弾丸は鱗に弾かれる。通じない。
アスカが——来た。大型個体の前に飛び込み、大剣で一刀両断した。いつもの圧倒的な一撃。
だがその直後、アスカの背後からもう一体の大型個体が来た。アスカが振り返る——間に合わない。
エルドが叫んだ。
「アスカ、後ろ!」
アスカが身を捻った。爪が戦闘服を掠める。浅い傷。致命的ではない。アスカが反撃し、大型個体を斬り伏せる。
二体を倒した。だがその間に、別の箇所から悪魔が侵入している。守りきれない。全てを守ることはできない。
戦闘は何時間も続いた。
日が傾き始めた。防衛部隊は疲弊している。弾薬が尽きかけている。死者の数が増えていく。
そして——「傲慢」が、動いた。
南の空の、黒い壁の中心から——一つの存在が、姿を現した。
巨大だった。
体長は——二十メートルを超えていた。今まで見たどの悪魔よりも大きい。人型。二本の脚で立ち、二本の腕を持つ。体表は漆黒で、金色の紋様が全身に走っている。顔は——王冠を被った人間のような顔。だが目が十二あり、その全てが金色に輝いている。
傲慢。七大罪の頂点。全てを見下す存在。全てを踏みにじる存在。
その存在が一歩踏み出すたびに、空気が震えた。悪魔の大軍が道を開ける。王の行進のように。
傲慢の悪魔は——まっすぐに、園の中央に向かっていた。
園の浮遊機構。園を空に留めている核。地下深くにある装置。それを——破壊しに来ている。浮遊機構が壊れれば、園は落ちる。第三の園と同じように。第九の園と同じように。
「浮遊機構を守れ! 『傲慢』を止めろ!」
隊長の絶叫。だが——誰が止められる。あの巨大な存在を。銃弾は通じない。砲撃も試みたが、傲慢の体表は全ての攻撃を弾いた。
通常戦力では——止められない。
アスカが前線から戻ってきた。エルドとリーネの傍に来た。
その目が——決意の色をしていた。
「……エルド。リーネ」
アスカの声は静かだった。戦場の喧騒の中で、不思議なほど鮮明に聞こえた。
「話があります。——今朝、上層部から受けた命令のことです」
エルドの心臓が——跳ねた。
「傲慢の悪魔を止める方法が——一つだけ、あります」
アスカは淡々と言った。
「私のコアを——暴走させることです」
時間が止まった。
エルドの中で。リーネの中で。世界が一瞬、静止した。
「コアを暴走させれば、膨大なエネルギーが解放されます。傲慢の悪魔に最接近して暴走させれば——相手もろとも、消滅できます」
消滅。
「コアの暴走は不可逆です。——つまり」
アスカの声が——一瞬、途切れた。
「……私は、死にます」
その言葉が——夕暮れの戦場に、落ちた。
エルドの体が凍った。
文字通り。動けなかった。呼吸が止まった。心臓が止まった——ように感じた。実際には動いている。動いているのに、止まっている。
死ぬ。アスカが。死ぬ。消滅する。コアを暴走させて。不可逆。修理できない。直せない。
——消える。
三日前に「幸せです」と泣いた人が。「エルド」と名前を呼んだ人が。パンを食べて「おいしい」と笑った人が。花を「かわいそう」と言った人が。「死にたくない」と夜の空の下で告白した人が。
消える。
「——ふざけるな」
エルドの口から、声が出た。
自分でも聞いたことのない声だった。低くて、熱くて、震えていて。
アスカが——エルドを見た。
エルドの顔が——凍りついている。怒りなのか恐怖なのか絶望なのか、自分でもわからない。全部が混ざって、顔面に出ている。何も感じないはずだった男の顔に、今、全ての感情が押し寄せている。
「他の方法を探せ。——お前が死ぬ必要はない」
「ありません。他の方法は。上層部も検討しました。通常戦力では傲慢は止められない。コアの暴走だけが——」
「俺が——」
エルドが言いかけた。俺が何だ。俺に何ができる。銃を持った一兵卒に。あの巨大な存在の前では塵のような人間に。何が——
「エルドさん」
アスカの声が——静かだった。
「エルドさん」。敬称が戻っていた。距離を置こうとしている。これ以上近づいたら、離れられなくなるから。
「これは——私にしかできないことです」
その声は——震えていなかった。
いや。震えを、止めていた。手は震えている。声は止めた。仮面を被った。最初のころと同じ仮面を。「平気です」の仮面を。
でもエルドは知っている。その仮面の下に何があるか。「死にたくない」がある。「怖い」がある。「幸せです」がある。「帰りたい場所がある」がある。
全部がある。全部があるのに——死にに行くと言っている。
リーネが——黙っていた。
一言も発さず、立ち尽くしていた。顔が白かった。唇が震えていた。リーネの目に——涙が溜まっていた。
戦場の音が遠くなった。銃声も爆音も悲鳴も——全部が遠くなった。三人だけの空間が、そこにあった。
アスカが二人を見た。
「……今すぐではありません。傲慢が浮遊機構に到達する前に——最接近する必要があります。時間は——まだ、少しあります」
少し。
少しの時間。
それが全てだった。残された時間の全て。
アスカが微笑んだ。あの仮面の笑顔で。でも——その下から、何かが滲んでいた。涙ではない。もっと深い何か。覚悟と悲しみと愛情が混ざった、名前のない感情。
「……あとで——ちゃんと、話します。全部」
アスカはそう言って、前線に戻っていった。
戦闘はまだ続いている。傲慢の悪魔はまだ園の外にいる。取り巻きの大軍と戦わなければならない。まだ時間がある。
まだ——少しだけ。
エルドは立ち尽くしていた。
銃を握る手が——震えていた。ヨナの血で染まった手が。アスカの涙を拭った手が。
——守りたかった。
守りたかったのに。何かを大事に思えるようになったのに。失いたくないと思えるようになったのに。
守れない。
力が足りない。自分は——ただの人間だ。銃を持っただけの一兵卒だ。あの巨大な悪魔の前では何もできない。アスカの代わりに死ぬことすらできない。
守りたいのに——守れない。
その絶望が——エルドの中を、黒く塗りつぶしていった。
「——エルド」
リーネの声が聞こえた。
振り返った。リーネは泣いていた。涙を流しながら、銃を握っていた。
「戦え。——まだ終わってない」
リーネの声は震えていた。でも——立っていた。泣きながら、震えながら、立っていた。
エルドは——銃を握り直した。
まだ終わっていない。まだ時間がある。少しだけ。
少しだけの時間の中で——できることをするしかない。
エルドは前線に戻った。銃を構えた。引き金を引いた。
撃ちながら——泣いていた。
自分が泣いていることに——気づいたのは、頬を涙が伝ったときだった。
五歳以来、初めての涙だった。
『傲慢』 了




