束の間
その日は、何もない日だった。
戦闘もない。警報もない。巡回は午前で終わり、午後は非番。空は晴れていて、風は穏やかで、パン屋からいつもの匂いが漂ってきている。
何もない日。何も起きない日。
——世界で一番、大事な日になった。
午後、ヨナが詰所で本を読んでいた。松葉杖はもう取れている。まだ激しい運動はできないが、歩くことはできる。ヨナの回復は順調だった。
「ヨナ、何読んでるの?」
リーネが覗き込んだ。
「植物の図鑑です。園の外周で見つけた花に似てるのがないか探してて」
「あの鉢植えの? まだ名前わかんないの?」
「わかんないんです。どの図鑑にも載ってなくて」
ヨナが困ったように笑った。名前のない花。ヨナがずっと育てている、詰所の窓辺の白い花。
「名前なんてなくても咲いてるんだから、いいんじゃない?」
「そうかもしれないですけど。名前があったほうが——その花のことを、誰かに伝えやすいじゃないですか」
ヨナの言葉に、リーネは少しだけ表情を変えた。何かを考えている顔。
「……そうだね。名前って——大事だよね」
その言葉には、花以外の何かが含まれているようだった。
エルドは詰所の隅にいた。特にすることがない。アスカは——いない。午前の巡回のあと、「少し出てきます」と言って出ていった。どこに行ったかは聞いていない。
「エルド、暇なら散歩でも行ってきなよ。ここにいてもしょうがないでしょ」
リーネがエルドを見た。リーネの目には——何かの意図がある。
「……別に」
「『別に』じゃなくて。行ってきな。——展望広場とか」
リーネの声に含まれた示唆が、露骨すぎた。エルドは少し眉をひそめたが——立ち上がった。
兵舎を出た。展望広場に向かう。リーネの言葉に従ったわけではない。ただ——足が、そっちに向かった。
展望広場に着いた。
アスカがいた。
柵に寄りかかって、空を見ている。制服姿。白い髪が風に揺れている。午後の光が柔らかく降り注いでいて、アスカの輪郭が光に滲んでいる。
エルドは足を止めた。
その姿を、見ていた。
見ているだけで——胸がきゅっとした。アスカが言っていた感覚。あれだ。きゅっとする。苦しいような、温かいような、怖いような。全部が混ざった感覚。
アスカが気づいた。振り返った。
「……エルドさん」
笑った。あの笑顔で。最近増えた、仮面ではない笑顔で。小さくて、不格好で、でも温かい笑顔。
「来てくれたんですか」
「……たまたまだ」
「嘘ですね」
「……うるさい」
いつものやり取り。でもその「いつも」が——もう、特別だった。
エルドはアスカの隣に立った。柵に肘をついた。空を見た。青い空。雲が流れている。遠くに他の園が小さく見える。
沈黙。穏やかな沈黙。
風が吹いている。アスカの髪が揺れて、エルドの肩に触れた。——触れて、離れた。一瞬の接触。アスカが「あ、すみません」と小さく言った。エルドは「別に」と返した。
本当は——離れてほしくなかった。
時間が流れた。どれくらい経ったのかわからない。五分か、十分か、三十分か。二人とも黙って空を見ていた。言葉がなくても——十分だった。隣にいるだけで。
「……エルドさん」
アスカが口を開いた。声のトーンが——少しだけ変わっていた。真剣さが増していた。
「……何だ」
「聞きたいことが——あるんです」
エルドはアスカを見た。アスカは空を見たままだった。横顔。風に揺れる白い髪。長いまつげ。
「……聞け」
アスカが——少しだけ間を置いた。息を吸って。吐いて。
「私は——機械です」
静かな声だった。
「中身は金属と回路です。血は流れません。心臓はありません。代わりにコアがあります。——人間ではありません」
エルドは黙って聞いていた。
「いつか——壊れます。修理できない壊れ方をするかもしれない。コアが壊れたら、もう直せない。私は——消えます」
アスカの声は平坦だった。事実を述べている。でもその平坦さの下に——震えが、あった。
「私と一緒にいても——永遠はありません。人間同士なら、一緒に歳を取って、一緒に老いて——そういう未来があるかもしれない。でも私には——ない。いつか壊れて、いなくなる。残るのは——エルドさんだけです」
風が止んだ。空気が静まった。
アスカが——ようやく、エルドを見た。
目が——揺れていた。恐怖があった。拒絶への恐怖ではない。もっと深い恐怖。——答えを聞くことへの恐怖。
「それでも——いいんですか」
その問いが——落ちた。
静かに。重く。取り消せないほど確かに。
エルドは——アスカの目を見ていた。
揺れている目。潤んでいる目。怖がっている目。でもその奥に——祈りがある。どうかこの人に拒絶されませんように。どうかこの人が離れませんように。——そういう、切実な祈り。
エルドは——考えなかった。
考える必要がなかった。答えは——もうずっと前から、決まっていた。いつからかわからない。最初の夜、「ここにいます」と言われたときかもしれない。展望広場で「綺麗ですね」と呟くのを見たときかもしれない。腕がちぎれても「大丈夫ですか?」と聞いてきたあの日かもしれない。
わからない。でも——決まっていた。
「関係ない」
エルドは言った。
短い言葉。いつもの声。平坦な声。でも——その二文字に、エルドの全部が込められていた。
「お前が機械でも、人間でも、関係ない。永遠がなくても、関係ない。いつか壊れても——」
言葉が詰まった。喉の奥が熱い。目の奥も熱い。何だこれは。泣きそうなのか。泣いたことがない。五歳から泣いたことがない。
「——関係ない。俺は——お前がいい」
出た。
全部出た。
不器用で、ぎこちなくて、語彙が少なくて、飾りも修辞もない。でも——嘘が一つもない言葉だった。
アスカの目が——大きく見開かれた。
口が微かに開いた。何かを言おうとしている。でも声が出ない。喉が動いている。唇が震えている。
そして——涙が、こぼれた。
音もなく。一筋。二筋。頬を伝って、顎から落ちた。午後の光の中で、その涙が金色に光った。
アスカが——自分の涙に、また驚いていた。あの夜と同じように。頬に手を当てて、指先で涙に触れて。
「……泣いてる。また——泣いてる」
声が震えていた。笑っていた。泣きながら笑っていた。
「私——泣けるんだ。こんなに——簡単に——」
涙が止まらなかった。一筋が二筋になり、二筋が三筋になり——頬を流れ続けた。機械の体が。金属と回路の体が。涙を止められなかった。
「嬉しいんです。嬉しいのに——泣くんですね。変ですね。嬉しいのに涙が出る。——こういうもの、なんですか」
エルドは——手を伸ばした。
前の夜と同じように。アスカの頬に触れた。涙を拭った。指先がアスカの肌に触れている。温かい。前と同じ温度。人間と同じ温度。
でも今日は——それだけでは終わらなかった。
エルドの手が、アスカの頬に留まった。離れなかった。拭って、そのまま。
アスカがエルドの手を見た。エルドの目を見た。
二人の目が合った。午後の光の中で。風が吹いている。空が青い。
「……エルドさん」
「エルド、でいい」
アスカが——瞬きをした。
「……エルド」
名前を。敬称なしで。初めて。
その響きが——エルドの胸を突き抜けた。アスカの声で呼ばれる自分の名前が、今まで聞いたどんな音よりも——美しかった。
「……ありがとう。エルド」
アスカが笑った。涙を流しながら。頬にエルドの手が触れたまま。
「私——幸せです。今。この瞬間が」
幸せ。
機械兵が「幸せ」と言った。戦うために作られた存在が。壊れるために設計された存在が。幸せだと——泣きながら笑って、そう言った。
エルドは——何も言えなかった。言葉が見つからなかった。でも——手はアスカの頬にある。温もりが伝わっている。それだけで——十分だった。
二人は——しばらくそうしていた。柵の前で。風の中で。言葉は少なかった。でも——互いの温度を感じていた。手のひらの温もり。隣にいる気配。呼吸の音。
世界中の音が遠くなった。園の喧騒も、風の音も、何もかもが遠くなって——二人だけが、ここにいた。
短い時間だった。
でも——確かな時間だった。
やがて——日が傾き始めた。空が色づき始めた。
「……帰ろうか」
エルドが言った。手をアスカの頬から離した。離すのが——惜しかった。こんな感覚は生まれて初めてだった。
「……はい」
アスカが目元を拭った。涙の跡が残っている。目が赤い。でも笑っている。あの笑顔で。
二人は展望広場を後にした。並んで歩いた。いつもより——近い距離で。肩が触れそうで触れない距離ではなく。肩が触れる距離で。時折、腕が触れた。触れるたびに——二人とも、離れなかった。
兵舎に着いた。食堂に入った。リーネとヨナがいた。
リーネがエルドとアスカを見た。二人の距離を。アスカの赤い目を。エルドの——表情を。
リーネの目が——潤んだ。
「……よかったね」
小さく。エルドにもアスカにも聞こえるか聞こえないかの声で。でも——二人には届いた。
ヨナが穏やかに微笑んでいた。何も聞かない。何も言わない。ただ——幸せそうだった。自分のことのように。
四人がテーブルに着いた。夕食。パンとスープ。いつもの献立。
でも今日は——少しだけ、テーブルが明るかった。
リーネがいつもより多く笑った。ヨナがいつもより多く話した。アスカが——いつもより多く食べた。エルドは——いつもと同じくらい黙っていた。でも、口元が——少しだけ、緩んでいた。
四人の時間が、最も温かい瞬間。
夕食が終わった。「おやすみ」が交わされた。
エルドとアスカが廊下で並んだ。
「……今日は——ありがとう。エルド」
アスカが言った。敬称なし。もう戻れない。戻りたくない。
「……ああ」
エルドは短く答えた。そして——少しだけ迷って——アスカの手に触れた。指先だけ。一瞬だけ。すぐに離した。
アスカが——目を見開いた。指先が触れた場所を、もう片方の手で包み込むような仕草をした。温もりを逃がさないように。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
それぞれの部屋に向かった。
エルドは自室に戻った。ベッドに横になった。
天井を見た。暗い天井。いつもと同じ天井。いつもと同じ部屋。
でも——全部が違った。
空気の温度が違った。暗闇の色が違った。自分の心臓の音が違った。
全部が——生きていた。
指先に、アスカの温もりが残っている。アスカの涙の感触が残っている。「エルド」と呼ぶ声が残っている。「幸せです」が残っている。
全部が——ここにある。
エルドは目を閉じた。
——これが最後の平穏だとは、まだ知らなかった。
今はただ——温かかった。
それだけで、十分だった。
『束の間』 了




