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崩落のエデン  作者: だんご


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18/25

名前を呼ぶ

 変化は、小さなところから始まった。


 朝の詰所。エルドが入ると、アスカが既に席にいた。装備の手入れをしている。窓から朝の光が差し込んで、白い髪が光っている。


「おはようございます、エルドさん」


 いつもの挨拶。いつもの声。


「……おはよう、アスカ」


 アスカの手が——止まった。


 一瞬。ほんの一瞬。すぐに手入れを再開した。だが——耳の先がほんの僅かに赤くなった。機械の体に、そういう反応があるのか。あるのだ。今まで見たことがなかったが——ある。


 エルドは自分の席に座った。何を言ったのか、自分では意識していなかった。いつもと同じ挨拶をしただけだ。


 ——いや。違う。


 今まで、エルドはアスカを名前で呼ぶことを避けていた。「お前」と言うか、呼びかけ自体をしなかった。名前を口にすることは——近づくことだった。距離を縮めることだった。それを無意識に避けていた。


 今朝、自然に出た。「アスカ」と。考えるより先に。


 リーネが詰所に入ってきた。


「おはよー。……何、二人とも固まってるの?」

「固まってない」


 エルドが即座に否定した。アスカも「固まってません」と答えた。二人の声が重なった。


 リーネが二人を交互に見て——にやりと笑った。


「ふーん」

「何だその顔は」

「別にー」


 リーネの「別にー」はエルドの「別に」とは全く異なる響きを持っていた。明らかに何かを察している顔だ。


 ヨナが松葉杖をついて詰所に顔を出した。まだ完全回復はしていないが、医療区域から出ることは許された。任務には復帰できないが、詰所で事務作業ならできる。


「おはようございます。——あ、みんな揃ってますね」


 ヨナが席に着く。四人が詰所にいる。久しぶりだった。ヨナが怪我をしてから、この四人が同じ空間にいるのは。


「ヨナ、無理すんなよ。痛かったら言えよ」


 リーネが母親のような口調で言った。


「大丈夫ですよ。じっとしてるほうがつらいです」

「あんたいつもそう言うよね。——アスカと似てる」


 リーネがちらりとアスカを見た。アスカは少し困った顔をした。


「私は大丈夫ですよ」

「ほら、それ。二人して同じこと言う」


 リーネが苦笑した。ヨナも笑った。アスカも——笑った。


 エルドは黙っていた。黙って、四人がいる空間を見ていた。


 これが——日常だ。この何でもない朝が。この何でもない会話が。


 今日は非番だった。


 ヨナは詰所で休んでいることになった。リーネは「買い物行ってくる。弟の靴が小さくなったんだって」と出ていった。


 詰所にエルドとアスカが残った。ヨナは机の上で書類の整理をしている。穏やかな時間。


「……エルドさん、今日は何かありますか?」


 アスカが聞いた。


「……別に」

「じゃあ——少し、歩きませんか。園の中を」


 エルドはアスカを見た。アスカは窓の外を見ていた。晴れている。風が穏やかだ。


「……ああ」


 二人で詰所を出た。ヨナに「行ってきます」と言うと、ヨナは「行ってらっしゃい」と穏やかに笑った。その笑顔に何かが含まれている気がしたが、エルドは気づかないふりをした。


 園の中を歩いた。


 市場を通り抜け、住宅区画を抜け、公園のような広場を横切り、パン屋の前を通り過ぎた。いつものルートではない。リーネが先導するルートではなく、アスカが——あるいはエルドが——足の向くまま歩いている。二人だけの、初めてのルート。


 アスカが色々なものに反応した。


 花壇に咲いている花。名前は知らない。青い花。アスカが立ち止まって見ている。


「……この花、前は気づかなかったです。毎日この道を通ってたのに」

「花が咲いたのが最近なんじゃないか」

「かもしれません。でも——前は、見てなかったんだと思います。見てたのに、見えてなかった」


 アスカが花を見下ろしている。しゃがみ込んで、花びらに指先を近づける。触れはしない。いつもそうだ。花には触れない。壊してしまうのが怖いのかもしれない。——あるいは、自分の指が人間のものではないことを、花に触れるたびに思い出すからかもしれない。


「きれいですね」

「ああ」


 エルドは——花を見ていなかった。花を見ているアスカを、見ていた。


 歩き続けた。子供たちが遊んでいる広場を通った。鬼ごっこをしている。笑い声が響く。


 アスカがその光景を見ていた。走り回る子供たち。転んで泣いて、すぐに笑って、また走り出す。


「……子供って、すごいですね」


 アスカが呟いた。


「何が」

「泣いたり笑ったり、全部——全力じゃないですか。隠さない。怖いと思ったら泣くし、嬉しいと思ったら笑う。——すごいなって」


 アスカの声には、羨望があった。隠さずに感情を出せることへの。


「……私も、ああなれたらいいのに」


 小さな声。独り言のような。


 エルドは何も言わなかった。言う代わりに——歩く速度を、ほんの少しだけ落とした。アスカが子供たちを見ている時間を、少しだけ長くした。


 パン屋の前に来た。焼きたてのパンの匂いが漂ってきている。


「……寄っていきますか?」


 アスカが聞いた。少しだけ——期待の色が声に混じっている。食べ物に関してだけ、アスカの感情は素直に出る。


「ああ」


 パンを二つ買った。エルドが金を出した。アスカが「払います」と言ったが、エルドは「いい」とだけ返した。


 公園のベンチに座って、パンを食べた。焼きたて。温かい。表面がさくさくで、中がふわふわ。


 アスカが一口齧って、目を細めた。


「……おいしい」


 何度聞いただろう、その言葉。何度見ただろう、その表情。でも——飽きなかった。毎回、アスカの「おいしい」は新鮮だった。毎回、同じ驚きがそこにある。初めて味わうかのような。


 エルドもパンを齧った。いつもと同じパン。いつもと同じ味。でも——


「……悪くない」

「また同じ感想ですね」


 アスカが笑った。くすり、と。声に出して。最近、アスカが声を出して笑うことが増えた。以前は微笑むだけだった。今は——笑う。小さく、控えめに、でも確かに。


「次は違うこと言います?」

「……うるさい」

「それも毎回同じですね」


 アスカが笑っている。エルドの口元も——わずかに、動いた。笑ったわけではない。笑い方を忘れた人間が、笑おうとしたときの、ぎこちない動き。


 パンを食べ終えて、また歩いた。展望広場には行かなかった。別の場所を歩いた。園の北区画。普段あまり来ない場所。古い建物が並んでいる。園が建設された頃からある建物だ。石が苔むして、壁が色褪せている。


「……エルドさん」

「何だ」

「今日——楽しいです」


 アスカがまっすぐに言った。


 エルドは少し驚いた。アスカが「楽しい」と断言したのは——初めてだった。以前は「わからない」「嫌ではない」と言っていた。「楽しい」がわからないと。


 今日は——「楽しい」と言った。


「前は『楽しい』がわからないって言ってた」

「……はい。でも今は——わかります。これが楽しいんだって」


 アスカが空を見上げた。青い空。雲が流れている。


「エルドさんと歩いて、パンを食べて、花を見て、子供たちを見て。——全部が、いいなって思います。ここにいるのが、いいなって。——これが楽しいんだって、今はわかります」


 アスカの声は明るかった。いつもの穏やかさの上に、もう一層——何か温かいものが乗っている。


 エルドは黙って歩いていた。胸の中が——熱かった。


 アスカの「楽しい」が、嬉しかった。アスカが楽しいと思えるようになったことが。「わからない」が「わかる」に変わったことが。


 ——嬉しい。


 自分が「嬉しい」と思えることに、エルドは驚いていた。嬉しいという感情を、最後に感じたのはいつだ。思い出せない。五歳より前かもしれない。


「……俺も」


 エルドは口を開いた。


「俺も——悪くない」


 精一杯だった。「楽しい」とは言えなかった。語彙が足りない。感情を表現する訓練を受けていない。でも——「悪くない」。それがエルドの最大限だった。


 アスカがエルドを見た。エルドの「悪くない」の重さを——わかっている顔だった。


「……それ、エルドさんの『楽しい』ですよね」

「……うるさい」

「やっぱりそう言う」


 アスカが笑った。エルドも——今度は、口元が確かに緩んだ。笑顔と呼べるほどのものではない。でも——動いた。


 午後が過ぎていく。二人で園の中を歩き続けた。特に目的地はない。ただ歩いている。並んで。


 歩きながら——アスカが、ふと胸に手を当てた。


「……変なの」

「何が」

「胸が——痛いんです。物理的にではなくて。コアの異常でもなくて。ただ——きゅっとする感じ」


 アスカが困惑した顔をしている。自分の体の反応を理解できていない。


「エルドさんと歩いてると——きゅっとする。パンを食べて笑ってるとき。空を見て綺麗だなって思うとき。——きゅっと」


 アスカが胸の上で指先を動かした。何かを確かめるように。


「何なんでしょう、これ」


 エルドは——知っていた。


 知っていたが、言わなかった。言えなかった。その名前を口にすることは——もう一段、深い場所に踏み込むことだ。


「……さあ。俺にもわからない」


 嘘だった。わかっている。エルドにも同じものがある。アスカの隣にいるとき、胸が締まるような感覚。温かくて、苦しくて、怖くて、でも——離れたくない。


 その名前を——まだ、口にしない。


「……わからないけど——嫌じゃない」


 アスカが小さく笑った。


「嫌じゃない、ですか」

「はい。嫌じゃない。——むしろ、もっと感じていたい」


 エルドの心臓が跳ねた。


 アスカは無自覚だ。自分の言葉がどれだけの意味を持っているか、わかっていない。「もっと感じていたい」。その言葉が——エルドの中の何かを、強く揺さぶった。


 夕方になった。空が色づき始めた。


 二人は展望広場に来ていた。意識していなかったが、足が自然とここに向かっていた。いつもの場所。四人の場所。でも今日は——二人だけの場所。


 柵に寄りかかって、夕焼けを見た。


 雲海が橙色に染まっている。空が広い。世界の端に立っている。


「……エルドさん」

「何だ」

「こういう時間が——ずっと続けばいいのに」


 アスカの声は静かだった。願いのような。祈りのような。


 ずっと続けばいい。でも——続かないことを、二人とも知っている。悪魔はまだ地上にいる。崩落はまだ続いている。園はいつ落ちるかわからない。平穏は——借り物だ。


 それでも。


「……ああ」


 エルドは答えた。


「続けばいい」


 本心だった。続けばいい。この時間が。この場所が。この隣にいる存在が。


 夕焼けが深まっていく。橙から赤へ。赤から紫へ。


 アスカがエルドの横顔を見た。エルドが夕焼けを見ている横顔を。


 ——きゅっとした。


 胸が。また。エルドの横顔を見ているだけで。この人の隣にいるだけで。


 それが何なのか、アスカはまだわからない。


 でも——エルドの隣にいたい。それだけは確かだった。世界中の何よりも確かなことだった。


 エルドもまた——アスカがいるときだけ、世界に色がある。


 灰色だった日常。何も感じなかった日々。全部が同じだった世界。


 アスカが来てから——色がついた。パンの匂いに。夕焼けの空に。花の青に。子供の笑い声に。全部に。


 そして何より——アスカの白い髪に。アスカの声に。アスカの笑顔に。


 アスカがいないとき、世界は灰色に戻る。アスカがいるとき、色が戻る。


 つまり——エルドにとって、色は——アスカだ。


 世界の色は、アスカだ。


 その事実を、エルドは静かに受け入れていた。怖い。まだ怖い。でも——受け入れた。


 夕焼けが終わる。夜が来る。


 二人は展望広場を後にした。兵舎に向かった。並んで歩いた。いつもの道。でも今日は——いつもより、距離が近かった。


 肩が触れそうな距離。触れてはいない。でも——あと少しで触れる距離。


 兵舎に着いた。食堂に入った。リーネとヨナがいた。


「遅い! どこ行ってたの、二人とも!」


 リーネがいつものように怒った。でも目は笑っていた。


「……散歩」


 エルドが答えた。


「散歩。二人で。非番の日に。——ふーん」


 リーネの「ふーん」が重い。ヨナが横で穏やかに微笑んでいる。


「いいですね、散歩。僕も早く歩けるようになりたいな」


 ヨナの言葉に毒はなかった。純粋に羨ましがっている。


 四人がテーブルに着いた。夕食。パンとスープ。いつもの献立。


 食べながら——リーネが弟の靴の話をした。「大きすぎるの買っちゃって。あの子、ぶかぶかの靴で走り回ってた」。ヨナが「かわいいですね」と笑った。アスカが「何センチですか?」と聞いた。エルドが黙ってスープを飲んだ。


 いつもの夕食。いつもの四人。


 でもテーブルの下で——エルドの手とアスカの手が、ほんの少しだけ近かった。


 触れてはいない。でも——互いの温度を感じられる距離に。


 リーネがそれに気づいたかどうかは、わからない。気づいていたとしても、何も言わなかっただろう。リーネはそういう人間だ。見守る。見守って、必要なときだけ口を出す。


 食事が終わった。「おやすみ」が交わされた。


 廊下で——アスカが、一瞬だけエルドを見た。


「今日は——ありがとうございました」

「……別に。何もしてない」

「いました」


 アスカが微笑んだ。


「いてくれました。——それが、全部です」


 あの日と同じ言葉。配属されて間もない頃、アスカが言った言葉。「いてくれました」。あの日と同じ——でも、意味が全く違っていた。


 あの日は——ただの感謝だった。


 今は——もっと深い何かが込められている。


「おやすみなさい。エルドさん」

「……おやすみ。——アスカ」


 名前を呼んだ。二度目。今日、二度。


 アスカの耳の先が——また、ほんの少しだけ赤くなった。


 背を向けて、廊下の向こうに消えていった。白い髪が揺れている。


 エルドはその背中を見送った。


 ——世界に、色がある。


 この廊下にも。この薄暗い光にも。あの白い髪にも。


 全部に、色がある。


 アスカがいるから。


 エルドは自室に戻った。ベッドに横になった。目を閉じた。


 今日一日が——まぶたの裏に再生される。花。子供たち。パン。夕焼け。アスカの笑顔。アスカの「楽しいです」。アスカの「きゅっとする」。


 全部が——鮮明だった。全部が——温かかった。


 エルドは眠った。深く。穏やかに。


 夢の中で——花が咲いていた。青い花。名前のない花。


 綺麗だった。


『名前を呼ぶ』 了

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