名前を呼ぶ
変化は、小さなところから始まった。
朝の詰所。エルドが入ると、アスカが既に席にいた。装備の手入れをしている。窓から朝の光が差し込んで、白い髪が光っている。
「おはようございます、エルドさん」
いつもの挨拶。いつもの声。
「……おはよう、アスカ」
アスカの手が——止まった。
一瞬。ほんの一瞬。すぐに手入れを再開した。だが——耳の先がほんの僅かに赤くなった。機械の体に、そういう反応があるのか。あるのだ。今まで見たことがなかったが——ある。
エルドは自分の席に座った。何を言ったのか、自分では意識していなかった。いつもと同じ挨拶をしただけだ。
——いや。違う。
今まで、エルドはアスカを名前で呼ぶことを避けていた。「お前」と言うか、呼びかけ自体をしなかった。名前を口にすることは——近づくことだった。距離を縮めることだった。それを無意識に避けていた。
今朝、自然に出た。「アスカ」と。考えるより先に。
リーネが詰所に入ってきた。
「おはよー。……何、二人とも固まってるの?」
「固まってない」
エルドが即座に否定した。アスカも「固まってません」と答えた。二人の声が重なった。
リーネが二人を交互に見て——にやりと笑った。
「ふーん」
「何だその顔は」
「別にー」
リーネの「別にー」はエルドの「別に」とは全く異なる響きを持っていた。明らかに何かを察している顔だ。
ヨナが松葉杖をついて詰所に顔を出した。まだ完全回復はしていないが、医療区域から出ることは許された。任務には復帰できないが、詰所で事務作業ならできる。
「おはようございます。——あ、みんな揃ってますね」
ヨナが席に着く。四人が詰所にいる。久しぶりだった。ヨナが怪我をしてから、この四人が同じ空間にいるのは。
「ヨナ、無理すんなよ。痛かったら言えよ」
リーネが母親のような口調で言った。
「大丈夫ですよ。じっとしてるほうがつらいです」
「あんたいつもそう言うよね。——アスカと似てる」
リーネがちらりとアスカを見た。アスカは少し困った顔をした。
「私は大丈夫ですよ」
「ほら、それ。二人して同じこと言う」
リーネが苦笑した。ヨナも笑った。アスカも——笑った。
エルドは黙っていた。黙って、四人がいる空間を見ていた。
これが——日常だ。この何でもない朝が。この何でもない会話が。
今日は非番だった。
ヨナは詰所で休んでいることになった。リーネは「買い物行ってくる。弟の靴が小さくなったんだって」と出ていった。
詰所にエルドとアスカが残った。ヨナは机の上で書類の整理をしている。穏やかな時間。
「……エルドさん、今日は何かありますか?」
アスカが聞いた。
「……別に」
「じゃあ——少し、歩きませんか。園の中を」
エルドはアスカを見た。アスカは窓の外を見ていた。晴れている。風が穏やかだ。
「……ああ」
二人で詰所を出た。ヨナに「行ってきます」と言うと、ヨナは「行ってらっしゃい」と穏やかに笑った。その笑顔に何かが含まれている気がしたが、エルドは気づかないふりをした。
園の中を歩いた。
市場を通り抜け、住宅区画を抜け、公園のような広場を横切り、パン屋の前を通り過ぎた。いつものルートではない。リーネが先導するルートではなく、アスカが——あるいはエルドが——足の向くまま歩いている。二人だけの、初めてのルート。
アスカが色々なものに反応した。
花壇に咲いている花。名前は知らない。青い花。アスカが立ち止まって見ている。
「……この花、前は気づかなかったです。毎日この道を通ってたのに」
「花が咲いたのが最近なんじゃないか」
「かもしれません。でも——前は、見てなかったんだと思います。見てたのに、見えてなかった」
アスカが花を見下ろしている。しゃがみ込んで、花びらに指先を近づける。触れはしない。いつもそうだ。花には触れない。壊してしまうのが怖いのかもしれない。——あるいは、自分の指が人間のものではないことを、花に触れるたびに思い出すからかもしれない。
「きれいですね」
「ああ」
エルドは——花を見ていなかった。花を見ているアスカを、見ていた。
歩き続けた。子供たちが遊んでいる広場を通った。鬼ごっこをしている。笑い声が響く。
アスカがその光景を見ていた。走り回る子供たち。転んで泣いて、すぐに笑って、また走り出す。
「……子供って、すごいですね」
アスカが呟いた。
「何が」
「泣いたり笑ったり、全部——全力じゃないですか。隠さない。怖いと思ったら泣くし、嬉しいと思ったら笑う。——すごいなって」
アスカの声には、羨望があった。隠さずに感情を出せることへの。
「……私も、ああなれたらいいのに」
小さな声。独り言のような。
エルドは何も言わなかった。言う代わりに——歩く速度を、ほんの少しだけ落とした。アスカが子供たちを見ている時間を、少しだけ長くした。
パン屋の前に来た。焼きたてのパンの匂いが漂ってきている。
「……寄っていきますか?」
アスカが聞いた。少しだけ——期待の色が声に混じっている。食べ物に関してだけ、アスカの感情は素直に出る。
「ああ」
パンを二つ買った。エルドが金を出した。アスカが「払います」と言ったが、エルドは「いい」とだけ返した。
公園のベンチに座って、パンを食べた。焼きたて。温かい。表面がさくさくで、中がふわふわ。
アスカが一口齧って、目を細めた。
「……おいしい」
何度聞いただろう、その言葉。何度見ただろう、その表情。でも——飽きなかった。毎回、アスカの「おいしい」は新鮮だった。毎回、同じ驚きがそこにある。初めて味わうかのような。
エルドもパンを齧った。いつもと同じパン。いつもと同じ味。でも——
「……悪くない」
「また同じ感想ですね」
アスカが笑った。くすり、と。声に出して。最近、アスカが声を出して笑うことが増えた。以前は微笑むだけだった。今は——笑う。小さく、控えめに、でも確かに。
「次は違うこと言います?」
「……うるさい」
「それも毎回同じですね」
アスカが笑っている。エルドの口元も——わずかに、動いた。笑ったわけではない。笑い方を忘れた人間が、笑おうとしたときの、ぎこちない動き。
パンを食べ終えて、また歩いた。展望広場には行かなかった。別の場所を歩いた。園の北区画。普段あまり来ない場所。古い建物が並んでいる。園が建設された頃からある建物だ。石が苔むして、壁が色褪せている。
「……エルドさん」
「何だ」
「今日——楽しいです」
アスカがまっすぐに言った。
エルドは少し驚いた。アスカが「楽しい」と断言したのは——初めてだった。以前は「わからない」「嫌ではない」と言っていた。「楽しい」がわからないと。
今日は——「楽しい」と言った。
「前は『楽しい』がわからないって言ってた」
「……はい。でも今は——わかります。これが楽しいんだって」
アスカが空を見上げた。青い空。雲が流れている。
「エルドさんと歩いて、パンを食べて、花を見て、子供たちを見て。——全部が、いいなって思います。ここにいるのが、いいなって。——これが楽しいんだって、今はわかります」
アスカの声は明るかった。いつもの穏やかさの上に、もう一層——何か温かいものが乗っている。
エルドは黙って歩いていた。胸の中が——熱かった。
アスカの「楽しい」が、嬉しかった。アスカが楽しいと思えるようになったことが。「わからない」が「わかる」に変わったことが。
——嬉しい。
自分が「嬉しい」と思えることに、エルドは驚いていた。嬉しいという感情を、最後に感じたのはいつだ。思い出せない。五歳より前かもしれない。
「……俺も」
エルドは口を開いた。
「俺も——悪くない」
精一杯だった。「楽しい」とは言えなかった。語彙が足りない。感情を表現する訓練を受けていない。でも——「悪くない」。それがエルドの最大限だった。
アスカがエルドを見た。エルドの「悪くない」の重さを——わかっている顔だった。
「……それ、エルドさんの『楽しい』ですよね」
「……うるさい」
「やっぱりそう言う」
アスカが笑った。エルドも——今度は、口元が確かに緩んだ。笑顔と呼べるほどのものではない。でも——動いた。
午後が過ぎていく。二人で園の中を歩き続けた。特に目的地はない。ただ歩いている。並んで。
歩きながら——アスカが、ふと胸に手を当てた。
「……変なの」
「何が」
「胸が——痛いんです。物理的にではなくて。コアの異常でもなくて。ただ——きゅっとする感じ」
アスカが困惑した顔をしている。自分の体の反応を理解できていない。
「エルドさんと歩いてると——きゅっとする。パンを食べて笑ってるとき。空を見て綺麗だなって思うとき。——きゅっと」
アスカが胸の上で指先を動かした。何かを確かめるように。
「何なんでしょう、これ」
エルドは——知っていた。
知っていたが、言わなかった。言えなかった。その名前を口にすることは——もう一段、深い場所に踏み込むことだ。
「……さあ。俺にもわからない」
嘘だった。わかっている。エルドにも同じものがある。アスカの隣にいるとき、胸が締まるような感覚。温かくて、苦しくて、怖くて、でも——離れたくない。
その名前を——まだ、口にしない。
「……わからないけど——嫌じゃない」
アスカが小さく笑った。
「嫌じゃない、ですか」
「はい。嫌じゃない。——むしろ、もっと感じていたい」
エルドの心臓が跳ねた。
アスカは無自覚だ。自分の言葉がどれだけの意味を持っているか、わかっていない。「もっと感じていたい」。その言葉が——エルドの中の何かを、強く揺さぶった。
夕方になった。空が色づき始めた。
二人は展望広場に来ていた。意識していなかったが、足が自然とここに向かっていた。いつもの場所。四人の場所。でも今日は——二人だけの場所。
柵に寄りかかって、夕焼けを見た。
雲海が橙色に染まっている。空が広い。世界の端に立っている。
「……エルドさん」
「何だ」
「こういう時間が——ずっと続けばいいのに」
アスカの声は静かだった。願いのような。祈りのような。
ずっと続けばいい。でも——続かないことを、二人とも知っている。悪魔はまだ地上にいる。崩落はまだ続いている。園はいつ落ちるかわからない。平穏は——借り物だ。
それでも。
「……ああ」
エルドは答えた。
「続けばいい」
本心だった。続けばいい。この時間が。この場所が。この隣にいる存在が。
夕焼けが深まっていく。橙から赤へ。赤から紫へ。
アスカがエルドの横顔を見た。エルドが夕焼けを見ている横顔を。
——きゅっとした。
胸が。また。エルドの横顔を見ているだけで。この人の隣にいるだけで。
それが何なのか、アスカはまだわからない。
でも——エルドの隣にいたい。それだけは確かだった。世界中の何よりも確かなことだった。
エルドもまた——アスカがいるときだけ、世界に色がある。
灰色だった日常。何も感じなかった日々。全部が同じだった世界。
アスカが来てから——色がついた。パンの匂いに。夕焼けの空に。花の青に。子供の笑い声に。全部に。
そして何より——アスカの白い髪に。アスカの声に。アスカの笑顔に。
アスカがいないとき、世界は灰色に戻る。アスカがいるとき、色が戻る。
つまり——エルドにとって、色は——アスカだ。
世界の色は、アスカだ。
その事実を、エルドは静かに受け入れていた。怖い。まだ怖い。でも——受け入れた。
夕焼けが終わる。夜が来る。
二人は展望広場を後にした。兵舎に向かった。並んで歩いた。いつもの道。でも今日は——いつもより、距離が近かった。
肩が触れそうな距離。触れてはいない。でも——あと少しで触れる距離。
兵舎に着いた。食堂に入った。リーネとヨナがいた。
「遅い! どこ行ってたの、二人とも!」
リーネがいつものように怒った。でも目は笑っていた。
「……散歩」
エルドが答えた。
「散歩。二人で。非番の日に。——ふーん」
リーネの「ふーん」が重い。ヨナが横で穏やかに微笑んでいる。
「いいですね、散歩。僕も早く歩けるようになりたいな」
ヨナの言葉に毒はなかった。純粋に羨ましがっている。
四人がテーブルに着いた。夕食。パンとスープ。いつもの献立。
食べながら——リーネが弟の靴の話をした。「大きすぎるの買っちゃって。あの子、ぶかぶかの靴で走り回ってた」。ヨナが「かわいいですね」と笑った。アスカが「何センチですか?」と聞いた。エルドが黙ってスープを飲んだ。
いつもの夕食。いつもの四人。
でもテーブルの下で——エルドの手とアスカの手が、ほんの少しだけ近かった。
触れてはいない。でも——互いの温度を感じられる距離に。
リーネがそれに気づいたかどうかは、わからない。気づいていたとしても、何も言わなかっただろう。リーネはそういう人間だ。見守る。見守って、必要なときだけ口を出す。
食事が終わった。「おやすみ」が交わされた。
廊下で——アスカが、一瞬だけエルドを見た。
「今日は——ありがとうございました」
「……別に。何もしてない」
「いました」
アスカが微笑んだ。
「いてくれました。——それが、全部です」
あの日と同じ言葉。配属されて間もない頃、アスカが言った言葉。「いてくれました」。あの日と同じ——でも、意味が全く違っていた。
あの日は——ただの感謝だった。
今は——もっと深い何かが込められている。
「おやすみなさい。エルドさん」
「……おやすみ。——アスカ」
名前を呼んだ。二度目。今日、二度。
アスカの耳の先が——また、ほんの少しだけ赤くなった。
背を向けて、廊下の向こうに消えていった。白い髪が揺れている。
エルドはその背中を見送った。
——世界に、色がある。
この廊下にも。この薄暗い光にも。あの白い髪にも。
全部に、色がある。
アスカがいるから。
エルドは自室に戻った。ベッドに横になった。目を閉じた。
今日一日が——まぶたの裏に再生される。花。子供たち。パン。夕焼け。アスカの笑顔。アスカの「楽しいです」。アスカの「きゅっとする」。
全部が——鮮明だった。全部が——温かかった。
エルドは眠った。深く。穏やかに。
夢の中で——花が咲いていた。青い花。名前のない花。
綺麗だった。
『名前を呼ぶ』 了




