死にたくない
夜の園は、静かだった。
防衛戦から数日が経っていた。ヨナは医療区域で療養中。傷は深かったが、回復に向かっていた。面会に行くたびに「大丈夫だよ」と笑う。その笑顔が日ごとに力を取り戻していくのを見て、リーネは泣き、エルドは黙って頷き、アスカは微笑んだ。
園には束の間の平穏が訪れていた。悪魔の大規模な動きは確認されておらず、巡回と警戒が続いている。嵐の前の凪のような——あるいは、嵐と嵐の間の息継ぎのような時間。
エルドは眠れなかった。
最近、眠れない夜が増えた。以前は違った。何も感じない人間は、何も考えずに眠れる。布団に入り、目を閉じ、意識が落ちる。それだけだった。夢も見ない。見ても覚えていない。空白の睡眠。
今は——目を閉じると、色々なものが浮かぶ。アスカの横顔。「嫌です」と震えた声。ヨナの血に染まった手。リーネの泣き笑い。展望広場の夕焼け。焼き菓子の甘さ。
全部が鮮明で、全部が温かくて、全部が怖い。
眠れない。
兵舎を出た。夜の空気は冷たい。天空都市の夜。星が近い。月が丸い。雲海が月光で銀色に光っている。
当てもなく歩いた。足が勝手に向かう場所がある。最近、そうなることが増えた。考えるより先に体が動く。体のほうが、自分の気持ちを知っている。
園の外縁部に出た。
柵の向こうは虚空。下を見れば雲海。その遥か下に、地上がある。悪魔が支配する地上。人間が捨てた世界。
外縁部の柵に——誰かが寄りかかっていた。
白い髪が、月光の中で淡く光っている。
アスカだった。
黒い戦闘服ではなく、制服姿。柵に両肘をついて、空を見上げている。風が髪を揺らしている。
エルドは足を止めた。
声をかけるべきか。引き返すべきか。——体が勝手に決めた。足がアスカのほうへ向かった。
足音に、アスカが気づいた。振り返る。エルドを認識して——少しだけ、表情が緩んだ。
「……エルドさん。眠れないんですか」
「ああ」
「私もです」
エルドはアスカの隣に立った。柵に肘をついた。同じ姿勢。同じ方向を見る。空。月。星。雲海。
沈黙が流れた。不快ではない沈黙。二人の間にはもう、沈黙を恐れる必要がなくなっていた。何も言わなくても、隣にいるだけで——何かが通じている。
風が吹いた。冷たい風。アスカの髪が揺れた。エルドの襟元がはためいた。
「……エルドさん」
アスカが口を開いた。声が低かった。いつもの穏やかさはあるが、その下に——何か重いものが沈んでいる。
「少し、聞いてもらっていいですか」
「ああ」
アスカは空を見たまま、話し始めた。
「最近——自分の中で、何かが変わっているのを感じるんです」
声は静かだった。独り言のような。自分の内側を確認するような。
「前は——感じなかったものが、感じるようになっている。いつからか、わからない。少しずつ、少しずつ、何かが増えていく感じ」
アスカの指が、柵の手すりを撫でていた。無意識の動作。
「パンがおいしいって思うこと。夕焼けが綺麗だって思うこと。リーネの冗談がおもしろいって思うこと。ヨナの優しさが温かいって思うこと。——前は、わからなかった。わからなかったのか、感じないふりをしていたのか、今となってはわかりません。でも——今は、感じます。全部」
エルドは黙って聞いていた。
「それが——怖いんです」
アスカの声が、少しだけ小さくなった。
「感じるものが増えるほど——失うものが増える気がして。前は何もなかった。何も感じなかった。だから何を失っても平気だった。壊れても平気だった。——それが、私の強さだった」
アスカが目を伏せた。
「でも今は——平気じゃないものが、増えてきてる。ヨナが傷ついたとき。リーネが泣いたとき。エルドさんが私を庇って怪我をしたとき。——全部、平気じゃなかった」
風が止んだ。空気が静まった。月光だけが二人を照らしている。
「この前——エルドさんに『嫌です』って言いました。自分でも驚きました。あの言葉が、こんなに簡単に出てくるなんて」
アスカが微かに笑った。自嘲のような、困惑のような笑み。
「私は——守るために作られたんです。壊れるために作られたんです。怖いと思う必要がない。嫌だと思う必要がない。——そう、設計されたはずなんです」
声が——揺れた。
「なのに——」
アスカの手が、柵を握りしめた。
「なのに最近、思うんです。壊れたくない、って。直せるからいいでしょ、って——自分に言い聞かせてきた。でも本当は——壊れる瞬間が、怖い。痛いかどうかはわからない。痛覚がどこまで本物なのか、自分でもわからない。でも——壊れるたびに、何かが減っていく気がする。修理しても、同じに戻っているかどうか、わからない。同じ私なのか、わからない」
エルドの心臓が、跳ねた。
アスカが——こんなことを話すのは、初めてだった。自分の体のこと。壊れることへの恐怖。修理への不安。——機械であることの、孤独。
「……そして——」
アスカの声が、さらに小さくなった。
月光の中で、白い髪が揺れている。横顔が見える。目が——潤んでいた。
「……死にたくない、って思ったの。初めて——かもしれない」
その言葉が——夜の空気の中に、落ちた。
静かに。重く。取り消せないほど確かに。
死にたくない。
守るために死ぬことを使命として作られた存在が——死にたくない、と言った。
エルドは——息を止めていた。
その言葉の重さを、体全体で受け止めていた。アスカが「死にたくない」と思えるようになったこと。それは——変化だ。巨大な変化だ。「平気です」と言い続けてきた仮面の、根本が揺らいでいる。
「怖いと思ったら、私は何のために作られたんですか」——あの夜、リーネに言った言葉。怖いと思えば存在意義が崩れると。死にたくないと思えば、守るために死ぬという使命が——
アスカは今、その崩壊の縁に立っている。
「……変、ですよね」
アスカが笑おうとした。いつもの笑顔を作ろうとした。でも——作れなかった。唇が震えて、形を保てなかった。
「兵器が——死にたくないなんて。おかしいですよね。こんなの——設計の不具合みたいなものです。きっと」
不具合。自分の感情を、そう呼んでいる。そう呼ぶことで、距離を置こうとしている。感情ではなく不具合。心ではなく故障。そうすれば——認めなくて済むから。
「不具合じゃない」
エルドの声が出た。考えるより先に。
アスカがエルドを見た。
「それは——不具合なんかじゃない」
エルドの声は平坦だった。いつもの声。でも——その平坦さの下に、確かな熱があった。
「死にたくないと思うのは——当然のことだ。人間も、そうだ。生きていたいと思うのは——壊れたくないと思うのは——当然のことだ」
エルドは自分の言葉に驚いていた。こんなことを言える人間ではなかったはずだ。数ヶ月前の自分なら——死んでもいいと思っていた自分なら——「死にたくない」の意味すらわからなかっただろう。
でも今は——わかる。
「……俺も」
エルドは空を見た。月が丸い。星が光っている。
「俺も——最近、思うようになった。死にたくない、って」
アスカの目が——大きく見開かれた。
「ずっと——どうでもよかった。死んでもいい。生きてもいい。どっちでも同じだと思ってた。命に価値がないと思ってた。五歳のときから、ずっと」
エルドの声が——初めて、震えた。
かすかに。でも確かに。この男の声が震えるのを、アスカは初めて聞いた。
「でも——お前に会って。変わった。少しずつ。すごく少しずつ。——気づいたら、死にたくないと思ってた。ここにいたいと思ってた。明日もパンを食って、夕焼けを見て、リーネにうるさいって言って、ヨナの花に水やるのを見て——」
言葉が詰まった。
「——お前の隣にいたい、と思ってた」
出た。
出てしまった。
エルドは自分の言葉に打たれたように、口を閉じた。言うつもりはなかった。こんな言葉が自分の中にあったことすら、言うまで知らなかった。
沈黙。
長い沈黙。
風が吹いている。月光が二人を照らしている。園の外縁部。虚空の上。世界の端。
アスカがエルドを見ていた。目が潤んでいた。口が微かに開いていた。何かを言おうとして——声が出ない。
エルドもアスカを見ていた。目が合っていた。
初めてだった。
二人が——本当に同じ場所に立った瞬間。
「死にたくない」。同じ言葉。同じ気持ち。
あの訓練場の裏で、二人は「怖くない」と言い合った。あのときは——二人とも嘘をついていた。エルドは空っぽだったから怖くなかった。アスカは平気なふりをしていた。同じ言葉を使って、全く別の場所にいた。
今は違う。
「死にたくない」。この言葉は——嘘ではなかった。二人とも。本当に、死にたくないと思っている。生きていたいと思っている。
同じ場所に、立っている。
「……エルドさん」
アスカの声が——震えていた。涙声に近い。でも泣いてはいない。泣く手前の、ぎりぎりの場所にいる。
「私——おかしくなってるんでしょうか。壊れてるんでしょうか。機械が——死にたくないなんて。こんなの——」
「壊れてない」
エルドが断言した。
「壊れてない。——直ってるんだ」
直っている。その言葉は——エルド自身にも当てはまった。壊れていたのではなく、凍っていた。凍っていたものが溶け始めている。アスカも同じだ。感じないふりをしていたものが、ふりをしていられなくなっている。
壊れているのではない。直っているのだ。
アスカの目から——涙が一筋、こぼれた。
音もなく。静かに。頬を伝って、顎から落ちた。月光の中で、その一筋が銀色に光った。
アスカが自分の頬に手を当てた。指先が涙に触れた。
「……泣いてる」
呟いた。驚いたように。
「私——泣けるんだ」
機械の体で。金属と回路でできた体で。涙が出る。涙を流す機能があるのか、それとも——機能を超えた何かが、涙を作り出したのか。
エルドにはわからなかった。どちらでもよかった。
目の前で——アスカが泣いている。
それだけが、事実だった。
エルドは——手を伸ばした。
不器用に。ぎこちなく。自分でも何をしているのかわからないまま。
アスカの頬に触れた。涙を——指で拭った。
アスカの頬は——温かかった。人間と同じ温度だった。機械のはずなのに。金属のはずなのに。温かかった。
アスカの目がさらに大きく開いた。エルドの指が頬に触れている。その指の感触を——全身で受け止めている。
「……エルドさん」
声はもう、震えていなかった。震えを超えた場所にある、静かな声。
「ありがとう」
何に対しての「ありがとう」なのか。涙を拭ってくれたことか。「壊れてない」と言ってくれたことか。隣にいてくれたことか。
全部だろう。全部に対しての「ありがとう」。
エルドは手を引いた。指先に、アスカの涙の温度が残っている。
「……もう遅い。戻ろう」
「……はい」
二人は外縁部を離れた。並んで歩いた。兵舎に向かって。月光の中を。影が二つ、石畳の上に伸びている。
歩きながら——アスカが、小さく言った。
「……こわいです」
「何が」
「死にたくない、って思ってしまったことが。——今までの私は、死んでも平気だった。守って死ねるなら本望だった。でも今は——死にたくない。ここにいたい。みんなと一緒にいたい。パンを食べたい。夕焼けを見たい。——そう思ってしまった」
アスカの声が——静かに、揺れた。
「そう思ってしまったら——次に戦場に立つとき、同じように戦えるかわからない。『平気です』って言えるかわからない。——怖い」
エルドは歩き続けた。アスカの隣を。
「……怖くていい」
短い言葉だった。
「怖くていい。——怖いまま、戦え」
リーネの言葉が、頭の中にあった。「怖いから戦える。怖いから帰りたいって思える。帰りたいから引き金が引ける」。
「リーネは——怖いから戦える、と言っていた。怖いことは弱さじゃない。——帰りたい場所があるから、戦える」
アスカが足を止めた。
エルドも止まった。振り返った。
アスカが——笑っていた。
泣きながら笑っていた。涙の跡が頬に残っている。目が赤い。でも——笑っている。
今まで見たどの笑顔とも違う笑顔だった。仮面ではなかった。作り物ではなかった。不格好で、歪んで、涙で滲んで——でも、温かかった。
「……帰りたい場所」
アスカが呟いた。
「……あります。帰りたい場所——あります。ここに」
ここに。この園に。この兵舎に。この食堂に。このテーブルに。
この——隣に。
エルドは何も言わなかった。言葉が要らなかった。
二人は歩き出した。兵舎に向かって。並んで。
月が傾き始めていた。夜が——終わろうとしていた。
明日が来る。明日もまた、四人で——三人と、医療区域のヨナと——朝を迎える。パンを食べる。任務をこなす。夕焼けを見る。
その全部が——今のエルドには、世界の全てだった。
そしてアスカにとっても——初めて持った、帰りたい場所だった。
兵舎の入口で、二人は別れた。
「おやすみなさい」
アスカが言った。目はまだ赤かった。でも笑っていた。あの笑顔で。
「……ああ。おやすみ」
エルドが返した。
それだけだった。それだけで十分だった。
自室に戻った。ベッドに横になった。ヨナのベッドは空のままだ。
目を閉じた。
今夜は——眠れる気がした。
胸の中に、温かいものがある。アスカの涙の温度。アスカの笑顔。「死にたくない」の声。「帰りたい場所がある」の言葉。
全部が、胸の中にある。
怖い。まだ怖い。失うかもしれない。壊れるかもしれない。
でも——今は。
今は、ただ、温かい。
エルドは眠った。久しぶりに、深く。
『死にたくない』 了




